2話 駿府の庭
駿府の春は、静かに息づいていた。
冬の名残がまだ空気の底にひそみ、
その上を薄い春の光がやわらかく覆っている。
京の華やかさとも、大坂の喧騒とも違う。
武家の町としての落ち着きと、天下人の居城としての威厳が、
ゆっくりと空気に溶け込んでいた。
山名豊国が駿府城の門をくぐったのは、
秀吉の死から数年が経ち、
豊臣政権の影が薄れつつある頃だった。
豊国は、新たな主を求めていたわけではない。
ただ、時代の流れが自然と彼を駿府へと導いた。
まるで、見えぬ糸に引かれるように。
「山名豊国、参上仕った」
名乗りを上げると、案内役の侍は一瞬だけ豊国を見つめた。
その目には、わずかな驚きと、
“なぜこの男がここに”という疑問が浮かんでいた。
山名家は、もはや大名ではない。
だが、名門の残響は、武家の者なら誰もが知っている。
侍は深く頭を下げ、
「上様がお待ちでございます」と告げた。
豊国は静かに頷き、庭へと足を進めた。
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駿府城の庭は、春の兆しに満ちていた。
梅が散り、桜がほころび、
池の水面には淡い光が揺れている。
風が吹くたびに、花びらが舞い、
そのひとつひとつが、まるで時代の移ろいを象徴しているようだった。
その中央に、ひとりの男が立っていた。
白髪を後ろに束ね、
手には扇子を持ち、
庭の景色を眺めている。
徳川家康――
天下を握った男。
豊国はその背中を見た瞬間、
胸の奥に、言葉にできぬ感情が湧き上がった。
それは畏れでも、憧れでも、敵意でもない。
ただ、
“この男こそが、次の時代を作る”
という確信だった。
家康は振り返り、豊国を見た。
その目は、年齢を感じさせぬ鋭さを宿していた。
「……久しいな、山名殿」
その声音には、わずかな記憶の響きがあった。
豊国は深く頭を下げた。
「御前にお目通り叶いましたこと、恐悦至極に存じます」
家康は扇子を軽く動かしながら、
豊国をじっと見つめた。
「秀吉の茶会で、一度だけ見たことがある。
あのとき、お前は和歌の席に侍しておったな」
豊国は静かに頷いた。
「はっ。
御前の御詠草を、間近に拝見いたしました」
家康はふっと笑った。
「忘れられぬ顔であった。
……いや、血のせいかもしれぬな」
豊国はわずかに眉を上げた。
家康は扇子を閉じ、静かに言った。
「山名は新田の流れよな。
わしもまた新田の末よ。
同じ源を持つ者の顔は、どこか似るものよ」
豊国の胸に、静かな衝撃が走った。
秀吉のもとでは、
豊国は“没落名門”として扱われることも多かった。
だが家康は、
その名を、
その血を、
その源流を、
確かに覚えていた。
豊国は深く頭を下げた。
「恐れながら……
同じ新田の末として、
御前にお目通り叶いましたこと、
この上なき光栄にございます」
家康は満足げに頷いた。
「新田は源氏の嫡流よ。
足利に敗れ、散り散りになったが……
血に刻まれた矜持は、そう簡単には消えぬ」
その声には、
家康自身の“誇り”と“痛み”が混じっていた。
豊国はそれを敏感に感じ取った。
――この男もまた、名門の影を背負っている。
豊国の胸に、静かな痛みが広がった。
同じ源流を持ちながら、
片や天下人、片や没落名門。
なぜこれほどまでに道が違ったのか――
その問いが、胸の奥で小さく疼いた。
家康は豊国の表情を見て、
まるで心を読んだかのように言った。
「山名よ。
お前は、影に呑まれぬ男だ。
鳥取での決断、秀吉のもとでの立ち回り……
わしは見ておったぞ」
豊国は息を呑んだ。
家康は、豊国の“生き残り方”を見抜いていた。
「影があるからこそ、
その先に光を求めるのでございます」
豊国の言葉に、家康は静かに頷いた。
「よい。
その言葉、気に入ったぞ。
……やはり、同じ血の者よ」
春風が吹き、庭の桜がひらひらと舞った。
その花びらが、豊国の肩に落ちる。
家康はその様子を見て、
まるで独り言のように呟いた。
「山名豊国……
お前は、朽ちた名門ではない。
残響を背負う者よ。
わしは、そういう者が好きだ」
豊国は胸の奥が熱くなるのを感じた。
秀吉のもとでは味わえなかった感覚――
“理解される”という感覚だった。
家康は庭の奥へ歩き出した。
「ついて参れ。
話したいことがある」
豊国はその背中を追った。
その歩みは、
まるで新しい時代へ踏み出す一歩のように感じられた。
春の光の中で、
二人の男の影は、
ゆっくりと重なり始めていた。
それは、
山名豊国の人生を照らし直す、
長い対話の始まりであった。




