1話 六分の一殿の影と炎
山名豊国が幼いころ、冬の夜はとりわけ長かった。
因幡の山里にある屋敷は、風が吹くたびに軋み、
障子の隙間から忍び込む冷気が、まるで家の衰えを告げるようだった。
篝火だけが、かつての栄光を思い出させるように赤く揺れていた。
折につけ、祖母はよく語った。
火の粉が舞い、薪がはぜる音が、語りの合間を埋めた。
「豊国や。山名は六分の一殿と呼ばれた家じゃ。
六十六国のうち十一国を治め、天下の半ばを動かした家よ」
祖母の声は、火の温もりと同じように豊国の胸に染み込んだ。
幼い豊国は、祖母の皺だらけの手の動きまでじっと見つめながら、
その言葉をまるで呪文のように心に刻んだ。
六分の一殿――
その響きは、幼い心にとって、遠い天の星のように眩しく、
同時に、手を伸ばしても届かぬもののようでもあった。
だが、現実は冷たい。
威勢は傾き、領地は荒れ、家臣は減り、
山名家の名は、もはや山里の民にさえ衰えを隠せずにいた。
豊国は幼いながらに悟っていた。
自分が背負うのは、栄光ではなく、栄光の残響なのだと。
それでも、祖母の語る物語は豊国の胸に深く刻まれた。
名門の矜持とは、血筋ではなく、心の在り方に宿るものだと。
---
永禄の乱世、豊国は若くして家督を継いだ。
因幡は武田高信の反乱で荒れ果て、山名家は滅亡寸前。
家臣たちの顔には疲労と諦めが刻まれ、
屋敷の柱には、かつての山名家を支えた力強さはもうなかった。
それでも豊国は諦めなかった。
祖母の語った六分の一殿の残響が、彼の背を押した。
尼子勝久、山中鹿介ら尼子残党と手を結び、
豊国は因幡奪還のために立ち上がった。
山中鹿介の鋭い眼光、尼子勝久の静かな闘志――
彼らの姿に、豊国はかつての山名家の武士たちを重ねた。
鳥取城を奪還したとき、
家臣たちは涙を流して喜んだ。
「六分の一殿、再び!」
その声を聞いたとき、豊国の胸の奥が熱くなった。
祖母の語った物語が、ほんの一瞬だけ現実に戻ったように思えた。
だが、その栄光は長く続かなかった。
毛利の圧迫は強まり、
城内には不穏な空気が満ちていく。
兵糧は尽き、家臣の中には裏切りを企む者も現れた。
豊国は、かつての山名家が応仁の乱で分裂し、
内部崩壊していった歴史を思い出した。
「また同じ道を辿るのか……」
鳥取城を脱出した夜、
豊国は城下の暗闇を振り返った。
かつての山名家の栄光は、まるで風に消える灯火のようだった。
---
天正八年、秀吉の鳥取攻めが始まった。
城内は飢え、兵は疲れ、民は泣いた。
城下には死臭が漂い、夜になると、遠くで狼の遠吠えが聞こえた。
家臣たちは言った。
「殿、ここは死守すべきです。名門の意地をお見せください」
豊国は静かに首を振った。
その瞳には、祖母の語った六分の一殿の影が揺れていた。
「名門の意地とは、死ぬことではない。
生き残り、家を残すことだ」
その夜、豊国はただ一人、秀吉の陣へ向かった。
月明かりの下、甲冑の音がやけに大きく響いた。
夜風は冷たく、草の匂いが濃かった。
豊国は歩きながら、祖母の声を思い出していた。
「山名は、六分の一殿よ」
その言葉が、豊国の背を押した。
秀吉の陣は、夜でも灯りが絶えず、
まるで巨大な獣が息をしているようだった。
豊国はその灯りを見つめながら、
自分がいま、山名家の未来を賭けた道を歩いていることを実感した。
秀吉は豊国を見るなり、目を細めた。
その眼差しは、戦場を幾度も渡り歩いた者の鋭さと、
天下を見据える者の余裕を併せ持っていた。
「お前が山名豊国か。
六分の一殿の末裔が、わしの陣へ来るとはのう」
豊国は深く頭を下げた。
「民を救い、家を残すためにございます」
秀吉はしばらく豊国を見つめ、やがて笑った。
「よい。お前のような男は嫌いではない」
その笑みは、豊国の胸に複雑な感情を呼び起こした。
屈辱、安堵、そして――生き残ったという実感。
こうして豊国は降伏し、鳥取城は落ち、
山名家は再び流浪の身となった。
だが、豊国は後悔しなかった。
生き残ることこそ、名門の務めだと信じていた。
---
豊国は秀吉の御伽衆に迎えられた。
和歌、茶の湯、礼法――
名門の教養は、秀吉の側近たちの中でも際立っていた。
だが、豊国は孤独だった。
豊臣家中では、山名家の名はもはや重んじられず、
「没落名門」と陰口を叩く者もいた。
茶室の静けさは、豊国の孤独を際立たせた。
秀吉の笑い声が遠くから聞こえる夜、
豊国はひとり、茶碗の縁を指でなぞりながら、
祖母の語った六分の一殿の記憶を思い返した。
それでも豊国は静かに観察し続けた。
秀吉の勢い、家中の空気、
そして、次に天下を取る者の気配。
ある夜、豊国は独り、月を見上げた。
月は薄雲に隠れたり現れたりしながら、
まるで豊国の心を映すように揺れていた。
六分の一殿の残響は、まだ消えてはおらぬ。
必ず、家を残す道があるはずだ。
そのとき、豊国の胸にひとつの予感が生まれた。
この先、己の運命を変える“邂逅”が訪れる。
それは、天下を握る男との出会い。
豊国の人生を照らし直す、静かで、しかし決定的な邂逅であった。




