2話 血をわけた少年と、母の奇跡
一瞬の出来事に、町長の息子は何が起きたのかわからないといった顔をしていた。しかしすぐにアルビへ怒鳴りつける。
「お前、いきなり何しやがる! 俺様がギルバート様だって、わかってんのか!」
まるで世界の常識のように誇らしげに名乗るギルバート。しかし、ついさっきこの町へ立ち寄ったばかりのアルビには、そんな肩書きはどうでもよかった。
飲み干したコップを、アルビは静かにテーブルへ置く。コトン――その音にすらビクリと反応し、ギルバートはヒィッと情けない声を漏らして尻餅をついた。
「……まだ、やりますか?」
アルビは低く抑えた声で、無表情のままギルバートを見下ろした。ギルバートは、あたりをきょろきょろと見渡す。
店内の客たちは、無様に転がったギルバートを見て、誰もが面白そうに笑っていた。視線の痛みに気づいたのか、ギルバートの顔はみるみる赤くなっていく。
連れてきた男たちは、アルビの一撃を食らい、ふらふらの状態で互いに肩を支え合って立ち上がるのが精一杯だ。
ギルバートは、悔しさとも恥ずかしさともつかない表情を浮かべたまま、急に立ち上がるとアルビに背を向けた。連れてきた男たちを蹴り飛ばしながら、早く立てと急かしている。
そして、店を出る間際――捨て台詞を吐き捨てた。
「こんなことして、痛い目見ても知らないからな!」
バンッ! と扉が乱暴に閉まる。
ギルバートたちが去った瞬間、店内にはパッと明るい空気が戻った。
「にいちゃん、たいしたもんだよ!」
「スッキリしたぜ!」
昼間から酒をあおっていた男たちが、次々とアルビに声をかけてくる。
「あの……ありがとうございます」
アンナも、小さく頭を下げた。
だがアルビは、単に美味しい食事を邪魔された腹いせに手を出しただけで、大した理由もない。
「お兄ちゃん、強いんだね!」
アンナの背後から、妹のリョカが顔を覗かせ、嬉しそうに笑った。
と、そのとき。
厨房の奥から、弱々しい女性の声が聞こえてきた。
「なにか……あったのかい?」
アルビが振り向くと、そこには今にも倒れそうなほど体の弱った女性が、咳き込みながら立っていた。
「お母さん!」とアンナは叫び、慌てて駆け寄る。
「……また、あの男が来たのかい? ごめんね、私が病気で寝込んでいるから……」
「お母さんは気にしないで。リョカと私で店はなんとかするから、あんな男の言うことなんて聞くつもりはないわ」
アンナはそう言いながら、母をベッドへ戻そうと支えた。
――だが。
アルビはなぜか心がざわついた。このまま見過ごすことはできない。そう思った。
「待ってください」
二人を制したアルビは、持っていた小袋から小型のナイフを取り出す。そして、自分の手のひらを静かに切った。
流れ落ちる数滴の血を、水の入ったコップへポタポタと落とす。
突然の行動に、アンナもリョカも目を丸くして驚いた。
「これを、お母さんに飲ませてください」
アルビはコップを差し出した。だがアンナは、顔をしかめて後ずさる。
「……他人の血が入った水なんて、飲ませられるわけないじゃない」
もっともな反応だった。アルビはそれに気づき、言葉を探す。
「……僕の体は、普通の人と違うんだ。この血を飲めば、お母さんの病気はすぐに治るよ」
真剣な顔で語るアルビ。しかし、アンナは半信半疑のまま動けなかった。
その沈黙を破ったのは、母親だった。
彼女はふらふらとコップへ歩み寄り、迷うことなく手に取ると――一息に飲み干した。
「お母さんっ!」
アンナは慌てて駆け寄り、吐くように言う。だが。
「……なんだか……さっきまでの怠さが、嘘みたいだよ」
母の顔色はみるみる良くなっていき、蒼白だった頬に赤みが戻った。
驚きと安堵の入り混じった表情を浮かべるアンナとリョカ。
「これで、働ける……!」
そう言って笑う母親の姿に、アンナは全てを理解した。
「……本当に、治ったんだ」
目を潤ませたアンナは、アルビに向き直り、深く頭を下げた。
「疑って、ごめんなさい。……母の病気を治してくれて、本当にありがとう」
「気にしないで」
アルビは淡々と返す。しかしアンナとリョカは、それでは済まないと、何かお礼をさせてほしいと懇願する。
あまりにもしつこく食い下がる二人に、アルビは苦笑しながら答えた。
「……じゃあ、食事代を払う代わりってことで」
「そ、そんなのでいいの?」とアンナは戸惑いながらも、涙交じりの笑顔を浮かべた。