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1話 飢えに死ねぬ少年と、優しき食堂

 重たい足を引きずり、白髪の少年はようやく森の出口にたどり着いた。


 三日間、飲まず食わずで彷徨い続けた深い森。苔むした木々、夜ごと響く獣の咆哮、満足に眠ることもできない暗闇。そんな日々から解放された今、少年の胸に去来するのは安堵と——何よりも、猛烈な空腹だった。


 少年の名はアルビ。背丈ほどもある長い棒を背負っている。旅の途中で森に迷い込み、ようやく出口を見つけた頃には、膝が震えるほど衰弱していた。


 だが、彼には一つだけ“救い”がある。


 彼の身体は、どんなに飢えても死ぬことがなかった。


 ——餓死しない体質。


 けれど、その代償は大きい。

 飢えの苦しみだけは、誰よりも鋭く、強く、感じてしまうのだ。


「……助かった」


 視線の先、丘のふもとに煙が上がっている。人の暮らしの匂い。町だ。


 アルビは、ふらふらと足を引きずりながら、その町を目指した。まるで、生まれたての子鹿のような頼りない足取りで。



 町に着くなり、アルビはひたすら食べ物を探して歩いた。屋台でも、酒場でも、どこでもいい。ただ、温かいものを腹に入れたかった。


 あまりに必死な様子だったせいか、通行人の冷たい視線を浴びる。それでも、空腹に比べればどうということはない。


 そんなときだった。ひときわ香ばしい匂いが鼻をくすぐった。


「……あれだ」


 看板には【猫の尻尾】とある。木造の、小さな食堂だった。


 扉を開けた瞬間、昼間だというのに活気のある声と酒の匂いが迎えてくる。テーブル席は満席だが、奥のカウンターが空いていた。アルビはそこへと腰を下ろした。


「いらっしゃい! 何にする?」


 厨房から声をかけてきたのは、茶髪の若い女性だった。快活そうな目元に、少し驚いたような笑顔を浮かべている。


「……温かいものなら、なんでも」


 アルビの返答に、女性は一瞬だけ困ったように眉をひそめたが、すぐに「任せて」と笑って、調理に取りかかった。


 その時、コトン、と控えめな音がして、カウンターに水の入ったコップが置かれた。


「お水です……」


 声の主は、小さな女の子。年の頃は八つか九つほど。小さな手で器用にコップを運んでいた。


「ありがとう」


 アルビが礼を言うと、少女はパッと嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、張りつめていた何かがふっと緩んだ気がした。


 ——この店、いい匂いだけじゃない。いい雰囲気もある。


 そんなことを思っていた矢先、湯気を立てた皿が目の前に置かれた。


「お待たせ。これでいいかい?」


 茶髪の女性が差し出したのは、炒めた肉と野菜をご飯にたっぷりとのせた、見るからに栄養満点の一皿。


 アルビは箸を握りしめ、無心で食べ始めた。


 口いっぱいに広がる旨味。香草の香りと炒め油の香ばしさが、空腹の胃をじんわりと満たしていく。


「……うまい……!」


 三日ぶりの食事は、涙が出るほど美味しかった。


 皿を一気に平らげ、水に手を伸ばした——その瞬間。


 バンッ!


 店の扉が、乱暴に開かれた。


 空気が一瞬で凍りつく。


 三人の男が入ってくる。うち二人は体格のいい取り巻き風、残る一人は上等な服を着て、傲慢そうな笑みを浮かべていた。


「また来た……」

「町長の坊ちゃんだ」


 客たちのひそひそ声が店内に漏れる。


 その男は、まっすぐカウンターの奥にいる少女を見つけて声を張った。


「おい、アンナはいるか?」


 少女はおびえたように目を伏せた。その前に、茶髪の女性が立ちはだかる。


「またあなたですか。もうやめてください」


「アンナ、俺の女になれよ」


 にやけ顔で手を伸ばす男。その手は髪に触れるが、アンナは迷いなく払った。


「俺の求婚を断れば、お前の母親も、この店も助からないぞ?」


 脅しに対しても、アンナは顔色ひとつ変えない。


「助けなんていらない。それに、あなたと一緒にいるくらいなら死んだ方がマシ」


 客の中から、控えめな拍手と歓声が上がった。


 男は怒りに顔を真っ赤に染め、取り巻きに命じる。


「やれ! 店をぶっ壊せ!」


 大男たちが動き出す。止めに入った客が殴り飛ばされ、店内は混乱に包まれた。


 その中で——アルビは静かに立ち上がった。


 さっきまでの幸福感が、無残に踏みにじられた。胸の奥で、怒りがじわじわと燃え上がる。


「……せっかく、美味しかったのに」


 その呟きと同時に、背中の棒が風を裂いた。


 ドンッ!


 一撃。大男の腹にめり込み、巨体が宙を舞う。


 もう一人の取り巻きも、反応する間もなく床に転がった。


 静まり返る店内。アンナも少女も、客たちも、誰もが言葉を失っていた。


 その中心で、アルビはただ、静かにコップの水を飲み干した。




 

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