前を向いて(2)
リニーは口を半開きにしたまま、ロープをするすると引いていた。
先程リニーを抱き締めては何だか凄いことを言ってきたセネトは、頭を冷やしてくるとか呟いて寝所に入ってしまった。
事の成り行きを思い返し、とりあえず簡潔にまとめてみると。
(最近よく一緒に遊んでるペットを弟に取られると思って、無愛想になっちゃったってこと?)
リニーを……。
誰がペットだとロープを叩き付けたものの、頬は火照ったまま。曇天を透かした硝子窓は、その紅潮した顔をぼんやりと映し取って、また更なる羞恥をリニーに与えた。
一人で悶々としながら全てのカーテンを開き終え、近くにあったカウチに腰掛ける。生憎の天気とはいえ、光を存分に取り込んだ部屋は段違いに明るくなった。
こてんとカウチに転がったリニーは、寝所に続く扉を見詰める。
(そんなに犬っぽいかなぁ)
確かにちょっと食い意地は張ってるけど。あと毎朝セネトの部屋に来ては庭へ行こうと誘うし──いやでもそれはリニーの大事な仕事だ。
他でもないセネトに元気になってもらうために、自分はここに派遣されて頑張っているわけで。
額は知らないが、故郷には莫大な報酬が支払われていることだろう。それに見合った働きをしなきゃ、なんて大層な志もないけれど。
単純に、役に立てたら良いなという気持ちで王都までやって来た。
それだけ、のはずだ。
不意に生じたむず痒さを押さえ込もうと腕を摩ったのに、かえってセネトの温もりを思い出してしまったリニーは、傍らのクッションに勢いよく顔を埋めた。
──そしてそのまま寝てしまった。
木々を押さえ付けるかのように降りしきっていた雨は、いつの間にか勢いを失って、弱々しく枝葉を湿らせる程度に落ち着いている。
窓の向こうに広がる霞んだ景色と、バルコニーに落ちる雨粒の光をうとうとと眺めてから、リニーはハッと頭を起こした。
何とも心地のよすぎる温もりの原因は、首から足までしっかりと覆う薄手の毛布だった。道理で熟睡してしまうわけだと、うっかり二度寝する前に毛布から這い出す。
寝乱れた髪を整えつつ客間を見渡せば、窓辺の椅子にセネトの姿を見つけた。鈴を鳴らしてみたが振り返る兆しはない。
「……!」
そうっと前に回り込んでみると、彼は座ったまま眠りに落ちていた。
自分の歌抜きで眠れたのだと喜んだのも束の間、その顔色が芳しくないことに気付く。わずかに歪んだ眉と、こめかみに滲む脂汗を順に見たリニーは、セネトの固く握った拳に手を重ねた。
──歌い始めて幾らもせずに、彼の体から力が抜けていく。
詰まりがちだった呼吸がなめらかになり、冷たく震えていた拳がほどかれる。その大きな手が裏返り、リニーの手をゆるく握ったところで、閉ざされていた青い瞳がようやく悪夢から帰ってきた。
「……リニー」
掠れた呼び声に笑顔で応じれば、セネトは一呼吸置いてから「ありがとう」と呟いたのだった。
「眠るつもりはなかったんだがな……君があまりにも気持ち良さそうに寝ていたから、釣られたのかもしれない」
悪夢のせいで不眠に陥っているセネトには大変申し訳ないが、それはもうぐっすりと快眠を得てしまった。
苦笑いを浮かべつつ「ごめんなさい」と手帳に書けば、彼がゆるく頭を振る。そのついでに視線をこちらへ寄越しては、リニーの手元を指して告げた。
「……残り少ないな」
言われてページを捲る。確かに白紙はあと数枚しかない。
字を小さくしたり余白を埋めたりと節約していたのに、思い付きでしりとりなんかしてしまうものだから。
ここはもう諦めて買いに行こう。お小遣い足りるかな、なんて呑気に考えていたら視界からセネトが忽然と消えていた。
「?」
「リニー」
カウチの後方、寝所とは反対側の扉が開け放たれ、そこからセネトの声が聞こえる。
そろそろと隣室に頭を入れてみれば、書斎のようなこぢんまりとした空間が現れた。書架の木材と、羊皮紙に滲み込んだインクの匂いがリニーを包み込む。
執務室とはまた別の、あくまで私的な部屋なのだろう。燭台と本一冊分のスペースしかない机と、座り心地の良さそうな椅子がそれを物語る。
書物を保護する布を興味本位でぺらりと捲ったとき、引き出しを漁っていたセネトが顔を上げた。
「あった」
そう呟いて差し出したのは新品の手帳。リニーが使っているものよりも一回り大きくて、丈夫な革のカバーまで付いている。
立派な品だ。その場に突っ立ったまましげしげと手帳を眺めるリニーだったが、やがてセネトに右手を掬われた。しっかりと手帳を握らされたところで、ようやく意図を理解して飛び上がる。
(くれるの!? こんな高そうなものを!?)
驚きと戸惑いは手帳に記すまでもなかったのか、セネトは慌てふためくリニーの頭に手のひらを乗せた。
そうすることで足踏みをしていた踵が床に落ち着く。一瞬、また飼い犬の話を思い出して悔しくなった。
「携帯するには少し大きいか」
蜂蜜色の頭を撫でて宥めながら、セネトが思案げに手帳を見下ろす。
抱き締められたときと同じ優しい手つきに、リニーはどぎまぎしつつも首を横に振った。
すばやく新品の手帳を脇に挟んで、萎びた手帳に鉛筆を走らせる。
『使います。ありがとうございます』
急いで書いた文字は汚く乱れていたが、セネトは問題なく読み取ってくれたようだった。
「ああ。……私のせいで無駄遣いさせてしまったから、その詫びだ」
リニーの手帳のちょうど半ば辺り、ごっそりとページが千切られた部分を見ては、少し気まずそうに目を逸らして。