前を向いて(1)
☐
セネトと一緒に朝食をとり、そのまま昼寝をすることが習慣づいてきた。
夜はまだなかなか眠れないようだが、悪夢を見る頻度は目に見えて減っている。たとえ悪夢を見てしまっても、悲鳴と共に飛び起きることは殆どない。
薔薇園の庭でセネトに子守唄を歌う日々で、彼が見る悪夢の内容もぽつぽつと教えてもらえたのだが、如何せん刺激の強いものばかりだった。
やはりこれは、セネトが殺したという魔物の仕業なのだろうか。だとしたらどうやって悪夢を断ち切れるのだろう。
魔物はもう死んでいるのに──。
ごろごろと唸る雨雲を窓越しに観察しながら、リニーはいつものようにセネトの部屋へやって来た。
鈴を軽く鳴らしてから、手帳を開いて、ふと顔を上げる。
「……あっ」
廊下で鉢合わせたのはセネトの弟、王太子マルセルだった。
彼は近衛をその場に置き、一人でリニーの元まで歩み寄る。
「おはようございます、巫女殿。毎日お疲れ様です」
柔和な笑みを見上げて、リニーはお辞儀をした。お疲れ様ですと言われるほど、特に疲れてもいないけど。
故郷でも眠れない子どもに歌を歌うことはあった。加えて毎日行う豊穣の祈りがリニーの仕事だったが、それらに比べたらセネトの子守──ああいや、寝かしつけは気楽なものだ。
セネトは稚児みたいに泣きわめかないし、などと考えていると、マルセルの穏やかな声が耳朶をなでる。
「兄がみるみる元気になっていると、アデリナや近衛から聞きました。巫女殿のおかげですね」
リニーはちょうど広げていた手帳に視線を落とし、さらさらと鉛筆を走らせた。
『悪夢はまだ払えていません。今少し時間がいると思います』
国王には滅多に会えないので、マルセルに現状報告をしておこう。そう思って手帳を見せたのだが、マルセルは文字を追ってから不意に笑みをこぼす。
「そうですか。ところで巫女殿、兄と何のお話を? 熊やら蝶の名前が書かれていますが」
左ページに所狭しと書き詰めた単語の群れ。動物の名前がバラバラの向きで並んでいるのは、これを書いたのがリニーだけではないことを指していた。
『しりとりしてました』
昨日、セネトと朝食を取っている間に、ふと沈黙が訪れたのだ。
手持ち無沙汰にリニーが動物の名前を書いてみれば、意外にもセネトが綴りの最後を繋げてきて。
楽しくなってきたリニーが懲りずにまた鉛筆を走らせ──なんてことをしていたらページがすぐに埋まってしまった。
つまり遊んでいた。ちなみにリニーが何も思い付かなくなって負けた。
マルセルはとても驚いたように瞳を瞬かせ、やがておかしげに笑う。
「巫女殿は見た通りの可愛らしい方ですね。また今度、僕ともお茶をしていただけませんか?」
良いけど出来れば食べ物も付けてください──と現金なお願いを書こうとしたリニーは、くいっと右腕を掴まれて振り返った。
セネトだ。いつ扉を開けたのだろう。
いやそれよりも腕が痛い。放してくれとリニーが抗議の鈴を鳴らす傍ら、当のセネトは覇気のない瞳で弟を一瞥する。
「あ……兄上、体調は……」
「──リニー」
気遣う言葉を無視して紡がれたのは、一度も呼ばれたことのなかった名前。
リニーが目を丸くしている間にも、セネトはさっさと弟に背を向けてしまう。
「中に入れ。この天気では庭に出られない」
ここは兄弟水入らずで話す場面ではなかったのかと、リニーは戸惑いながらも軽々と部屋に引き込まれた。
暗い。
それが客間に入った最初の感想だった。
寝所でもあるまいし、何故こうもカーテンを全て閉め切っているのか。
先程のマルセルとのやり取りを尋ねる前に、まずは部屋を明るくしなければ。リニーはやれやれと溜め息をついて、奥の窓辺へと歩み寄る。
分厚い臙脂色のカーテンはとても手触りがよく、指の動きにしたがって表面が滑らかになったり逆立ったりした。真冬ならさぞかし断熱性が高いのだろうけど、季節はすでに晩春である。見てるだけで暑苦しい。
そろそろ部屋にメイドを入れてもよいのではと内心で提案しつつ、リニーが金糸で編まれたロープを掴んだときだった。
「マルセルとも茶を飲んだのか」
節立った大きな手が、リニーの手にそっと重なる。
後ろからすっぽりと体を包まれる感覚。服越しに伝わる温もりに振り返ってみれば、端整な顔がリニーを見下ろしていた。
下瞼を青黒く染める隈は心なしか薄まってきて、痩けていた頬も今ではだいぶマシになった。
全体的に健康へと近付いているはずなのに──セネトの表情は仄暗い。
彼の陰った青い瞳をよくよく観察してみたが、真意を汲み取れるはずもなく。
リニーは目の前にある胸板を机代わりにして、手帳に答えを書いた。
『初めてセネト王子を朝ごはんに誘った日に、代わりにマルセル王太子が来ました』
「その一度だけ?」
こくりと頷けば、セネトが小さく溜め息をつく。
「……そうか」
ばつが悪そうに呟いて、リニーの背中に添えていた手をゆっくりと内へ寄せる。
壊れ物を扱うように優しく抱きすくめられたかと思えば、亜麻色の頭がすとんとリニーの肩口に着地した。
「……!?」
初めは呆けていたリニーも、じわじわと頬が熱くなるのを感じて目を泳がせる。
添い寝は露骨に嫌がったのに、抱き締めるのはアリなのか。いや、リニー自身も添い寝はよろしくないかと思い直して膝枕に留めたから、これほどセネトと密着したのはそもそも初めてだ。
いやいや、それ以前に歳の近い男に真正面から抱き締められたこと自体が初めてだ!
ついさっき「セネトは稚児みたいに泣きわめかないし」などと舐めたことを考えていたリニーは、木っ端微塵に砕けた平常心を掻き集めるべく目を瞑る。
(そうだ手帳! 書けない!)
手帳はリニーの両手もろとも、胸の辺りでぺしゃりと押し潰されている。
このままセネトの気が済むまで待機するしかないのだろうか。さすがに恥ずかしくて耐えられない。
何とか鈴を鳴らせやしないかと、リニーが四苦八苦していると。
「犬を」
「?」
「昔、飼っていた犬を、マルセルに譲った」
犬の話が始まってしまった。ちゃんと聞くからその前に解放してほしい。
リニーの切なる願いは届かず、セネトは途切れ途切れに過去の記憶を遡る。
「城下町で拾った子犬で、私によくなついていた。……それをマルセルが羨ましいと言ったから、譲るべきだと思ったんだ」
譲ったとしても、また弟と一緒に遊んでやることは出来るのだから。
そう思って、セネトは可愛がっていた子犬をマルセルの宮に移した。
だが、しばらくしてから弟に子犬のことを聞いたら、病で死んでしまったと聞かされたという。
「……。その後も、いろんなものをマルセルに譲ってきたが……大切にしている様子は、あまりなかった。だから」
セネトが言葉を詰まらせる。ふと、自分に嫌気が差したような、後悔する顔だ。
これはリニーの憶測だが、セネトはこの話を誰にもしたことがないのかもしれない。
──いつも笑顔に囲まれた太陽の君が、他人のことを悪し様に言うなどあってはならないから。
セネトの生き方をほんの少しだけ垣間見たリニーは、控えめに彼の胸を摩る。
笑顔の内側に溜め込みすぎて、腐ってしまった感情。それをゆっくりと吐き出せるように。
やがて彼は引きつった喉で唾を飲み込み、リニーの耳元で囁いた。
「……だから、君のことも譲らねばならないのかと、焦ってしまった」
すまない。
セネトの消え入るような謝罪と共に、元より緩かった拘束はすんなりと解かれたのだった。