芽生えの光(2)
割れるように痛む頭を押さえて崩れ落ちれば、エリーゼを含む若者たちが息をのんで後ずさる。
感じ取れるのは途方もない緊張と、声をかけたことへの後悔か。いや、王子が悪夢を克服したなどと、根も葉もない噂を流した誰かへの恨みか。
今にも逃げを打とうとしていたエリーゼは、しかしすんでのところで思い直したようだった。
「せ……セネト様! 大丈夫で──」
りん、と鈴の音が帰ってくる。
ぱたぱたと速まる足音に併せて、それはたちまち大きくなって。
顔を上げれば、ふわりと何かが視界を覆う。頭に被せられた薄い布は、ほんの少しだけ周囲の音を隠してくれた。
そうして、まるでカーテンでも捲るように内側を覗き込んだのは、鈴の音の主で。
「セネト殿下……! あなたたち、何をしているのです。誰の許可を得て王子宮へ?」
「こ、公爵夫人」
リニーとわけもなく見詰め合っている間に、布の外ではアデリナの厳しい声と、慌ただしく謝罪するエリーゼたちの声が飛び交う。
彼らが立ち去る頃になって、セネトは慎重に息を吐き出した。
情けない。まともな会話すら出来なくなったのかと、自分の体たらくに呆れてしまう。
以前はどうやって話していた?
どうやって笑っていた?
どうやって相手の顔を見ていた?
考えれば考えるほど分からなくなる。泥濘に足をとられて、終わりの見えない洞窟で一人、ずっと立ち止まっている。
そうこうしているうちに、悪夢がひたりと背後からやって来るのだ。
『歩けますか』
ずいと至近に突き付けられた問い。
目頭がうずくような感覚に負けて距離を開ければ、手帳の横から桃色の双眸が瞬く。
ひらりと落ちた布が花柄のテーブルクロスだったことに気付いたセネトは、それを頭に被っていた自分の残念な姿を想像しつつ、力なく頷いたのだった。
「エリーゼ嬢は婚約者候補の一人だった」
日当たりのよい庭園でセネトが低く切り出したのは、リニーが黙々と朝食に勤しんでいる最中だった。
慌てて口の周りを拭いた彼女を一瞥し、セネトは背凭れに体重を乗せる。
「……君が王都に来る少し前、エリーゼ嬢が私の元に見舞いに来た」
人と話せる状態ではないと聞いた上で、エリーゼは王子の部屋を訪ねてきた。
彼女なりの自負があったのだと思う。婚約者になることが噂されるほど親しい間柄なのだから、きっとセネトを悪夢から救い出せると。
無論、結果は察しの通りだ。
悪夢と現実の境目がどんどん曖昧になっていたセネトは、目の前に現れたエリーゼが恐ろしくて仕方なかった。
消えてくれと願うほどに。
「彼女が悪夢と同じことを言うから……。私を覚えているか、名前は分かるかと」
お前など知らない。
咄嗟に吐き捨てた台詞は、エリーゼを部屋から追い出す方法としては最適だった。
彼女は時が止まったように硬直して、ぼろぼろと涙を溢れさせた。そうして何も言わぬまま、逃げるように立ち去り……今日まで一度も王子宮を訪ねてこなかった。
「……別にそれは珍しいことでもない。私の気が狂って、みな困惑し恐れているだけだ」
揺れ動く影をぼうっと眺めながら、セネトは当然のことを口にする。
『確かに怖いです』
手帳に遠慮なく書かれた相槌。
ちらりとリニーを見れば、悪戯好きな子どものように肩を揺らす。
笑っているのに、息遣いすら聞こえないのは不思議な感覚だった。
『でも前の王子は知らないから、戸惑いはありません』
ああ、そうか。
リニーはこの無様な王子としか会ったことがない。
だから自分も焦りを覚えないのだと、妙に納得した。
『お昼寝しますか?』
リニーが足元の籠から膝掛けを取り出す。おまけに今日は枕が──二つ。
セネトが訝しみながらも誘いに乗れば、彼女は案の定、敷布の上に枕を並べてしまう。
例え睡眠不足であらゆる思考力が落ちているとしても、さすがにこれがマズいことなのは分かる。
少し離れたところではアデリナが眉間を押さえてしまっていたが、リニーは何の憂いもなく寝転がって、早くと手招きをしたのだった。