芽生えの光(1)
☐
王宮は騒々しかった。
それは決して物騒な、皆の不安を伝染させるようなものではない。
三節もの間、不眠に陥っていたセネト王子が、悪夢を克服した。
以前の王子が戻ってくるかもしれないと、臣下たちは喜びをあらわにした。中には安心するあまり泣き崩れる者もいて、その日はちょっとした騒動になってしまった。
しかしそんなお祭り騒ぎな人々とは打って変わって、セネトの部屋は相変わらず静かであった。
今朝は何人もの貴族がこぞって見舞いのため押し寄せたのだが、セネトはこれをすげなく拒否した。
──たった一度、昼寝が出来たぐらいで騒ぎすぎだ、と。
昨日、神呼びの巫女の不思議な歌によって深い眠りを得たことは事実だが、それだけである。
夜はやはり悪夢を恐れる心が邪魔をして、床に就くことが出来なかった。
「セネト様、セネト様」
「我らを照らす太陽のごとき君」
この幻聴が、悪夢の始まる合図だった。
聞き慣れた家族の声が、臣下が、侍女が、騎士が、民が、笑顔でセネトの名を呼ぶ。
彼らはその手に携えた錆びた斧を、セネトの体に躊躇なく振り下ろす。
真っ暗闇の中、抵抗もできずに骨を砕かれ続ける。
皆の笑顔は返り血を浴びてもなお輝いて、嬉々とセネトを崇め続ける。
「っ……」
鮮明に思い出せてしまう悪夢に、セネトは吐き気を催して蹲った。
あの夢の嫌なところは、見知った人間ばかりが出てくるところだ。父親に弟、世話になった乳母まで。
目が覚めてすぐに彼らの姿を見ると、それが夢か現実か分からなくなって、過剰な抵抗をしてしまう。駆け付けた騎士に怪我をさせたことも当然あった。
寝ても覚めても悪夢から逃れられないような錯覚に陥り、せめて誰も傷付けんと部屋に閉じこもった。
そのまま死んでしまっても、もはや構わなかった。
──りんりん。
はっと、顔を上げる。
十日ほど前から急に聞こえるようになった、軽やかな鈴の音。
それは度重なる悪夢の声によって、過敏になってしまったセネトの聴覚を優しく擽る。
初めこそ鬱陶しくて堪らなかった。毎日毎日飽きもせずに紙切れを投げ込み、心底どうでもよいことばかり伝えてくる娘が。
また金に目が眩んだ妙な詐欺師を、臣下が精査もせずに連れて来たのだろうと高を括っていたのだ。
だが──彼女を連れて来たのは、乳母のアデリナだった。
アデリナは何も言わないが、恐らくは一人で神呼びの巫女を調べ、自らの足で東の集落へ向かったのだろう。そんな乳母の労力を考えてしまうと、今更になって自分の行いに嫌気が差した。
扉の前に立つと、紙の表面を鉛筆で擦る音が微かに聞こえる。
しばらく待っていれば、扉下の隙間から細長い紙が差し込まれた。
『おはようございます』
数日前、彼女に「失せろ」と言った。
もう何日も眠っていなくて、そろそろ楽になれるのではないかと思っていた頃だった。
お前の仕事はもうないから、故郷に帰ってしまえと。
以前の自分ならとても考えられない行動だが、そのときは一つの罪悪感も湧かなかった。
そして翌朝になって、浅はかな思考を嘲笑うかのように悪夢に見舞われ、錯乱したセネトはまた騎士を負傷させた。
幸い軽い怪我で済んだものの、突き飛ばしたのがアデリナだったらと思うとぞっとした。
セネトが何も言わずに立ち尽くしていると、文章の書き足された紙切れが再び差し込まれる。
『ご飯は食べましたか。リニーはまだです』
一日だけ、彼女が部屋に来なかったことがある。ちょうど悪夢を見た日だ。
いつもの時間になっても鈴の音が聞こえないことに、不思議と胸騒ぎを覚えてしまった。自分で来るなと言っておいて、とうとう見捨てられた事実に少なからず動揺していたのだ。
遅れて襲ってきた後悔と自己嫌悪に苛まれながら、セネトはまんじりともせず夜を明かした。
そんな救いようもなく愚かな彼の元を、この娘は何も気にしてない顔で再訪したわけだが。買い物に行ってた、などと呑気な理由を明かして。
『今日も一緒に朝ごはん食べますか。お昼寝も付きます』
神呼びの巫女。
突如として現れた自由奔放な娘に、セネトの凍りついた心は確かに反応している。
日だまりの中で無声の歌を紡ぐ神秘的な姿は、彼をまどろみに誘うには十分すぎた。
「……!」
ゆっくりと扉を開けると、長い蜂蜜色の髪が揺れ、丸い輪郭がこちらを見上げた。
化粧っ気のない顔は少しばかり幼げで、血色のよい唇と頬が彼女の快活さを物語る。垂れ目がちな瞳に収まった桃色は、セネトの姿を捉えるや否や嬉しそうに華やいだ。
手帳を拾ったリニーはいそいそと立ち上がり、たっぷりとした長いスカートの裾を手早く払う。
小さな鈴から伸びた赤い組紐を手首に巻き付けて、階段を指差した。庭へ行くぞと言いたいのだろう。
セネトは彼女の後を付いて歩きながら、左右に揺れる毛先を目で追う。リニーが上機嫌に両手を振って、幼子のように床を跳ねるたび、質量を感じさせる動きでそれは波打った。
「あ……セネト様……!」
階段を下りきると、聞き覚えのある声が掛けられる。
こめかみに走った疼痛。鈍い動きで振り返ったなら、そこには淡い黄色のドレスに身を包んだ娘が立っていた。
涙を浮かべて硬直した後、娘は小走りにこちらへ向かってくる。
「セネト様、お久し振りでございますっ……わたくしです、エリーゼです! お分かりになりますかっ?」
どくり、心臓が嫌な音を立てた。
先程まで嘘のように凪いでいた心が掻き乱され、背筋を悪寒が這い上がる。
この声は、悪夢の中でよく聞いた声だった。
彼女だけではない、その周りにいる貴族の子女たちの声も。
「体調が戻られたとの噂は本当だったのですね。わたくし、いてもたってもいられなくて」
「エリーゼ様は毎日セネト殿下のことを思っておられました。それはもう痛ましいほどに……」
「我が父も大変心配しております、ぜひ一度、療養もかねて領地に──」
斧が、見えるのだ。
何度も何度も振り下ろしたせいで、赤く欠けた刃の線が。
違う。
これは悪夢ではない。
現実だ。
誰も斧など持っていない。
誰も自分を害そうなどと思っていない。
誰も。
「──近付くな」
震えた声は思いのほか重く、その場に木霊した。