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春風が運ぶもの(4)

 日を改めて再びセネトの部屋へやって来たリニーは、扉下を覗き込んで愕然となる。

 ちぎった手帳の紙が綺麗に掃除されてしまっている!

 昨日の騒動ついでに、メイドが部屋のゴミも片付けたのだろう。節約作戦が敢えなく失敗したところで、泣く泣く手帳を取り出す。

 その前に訪問を知らせなくてはと、リニーが鈴を鳴らしたとき。


「……?」


 すぐそこで、床を踏みしめる音が聞こえた。

 微かな衣擦れに耳を澄ませながら、りんりんと鈴を揺らす。

 返事はない。でもそこにいる。

 リニーは紙を縦長にちぎると、なるべく端の方に文字を書き付け、ひょいと隙間に差し込んだ。


『おはようございます』


 駄目元で、持っていた鉛筆も突っ込んでみる。返事を期待してみたが、受け取る兆しはなかった。

 すごすごと鉛筆を回収したリニーは、挨拶の横にもう一文追加する。


『昨日は城下町に行きました。とても賑やかでした』

「何をしに」


 びっくりした。

 そうだ、自分と違ってセネトは普通に話せるのだから、わざわざ相槌を書いてくれと頼む必要はなかったか。

 ならばと鉛筆を握り直し、先程の静かな問いの答えを書き足した。


『手帳を買おうとしました。高かったのでやめました』


 何をしに行ったんだろう。我ながら首をかしげてしまう。

 ちょっと他にも用事があったふうに書こうか悩んでいると、扉の向こうから溜め息混じりの声が返ってきた。


「……何のつもりだ? 何故一言も喋らない」

『私の声が』


 彼の問いを聞きながら鉛筆を走らせる。


『人間の耳には聞こえないからです』


 単純に声が出ないと書いても良かったが、より正確な言い回しを選ぶならこうなるだろう。

 リニーの答えをどう捉えたのか、セネトからの反応は鈍い。

 暫しの沈黙が、淀んだ空気と共にゆっくりと廊下を抜けていく。リニーが少し身動ぎをすると、ようやく彼の低い声が紡がれた。


「……神呼びの巫女は、あくまで人の身であるはずだが」

『リニーは人間です』


 失礼な王子だ。リニーは紙でぺしぺし床を叩いてしまったが、そこではたと冷静になる。

 今のセネトなら話を聞いてくれそうだし、前回は清々しく無視された朝のお誘いをしてみようかと。


『明日の朝、お庭に来てください。セネト王子に私の歌が効くのか、試すまでは故郷に帰りません』


 書き終えたあとに気付く、外の静けさ。そういえばまだ早朝の時間帯だったと思い直し、「今からでも」と修正する。

 とにかくセネトをこの陰鬱な部屋から引きずり出さねば。彼からしてみれば、誰にも会いたくなくて引きこもっているのだろうけど──リニーは急いで言葉を重ねていく。


『人が来ないように、アデリナさんにお願いしてきます』


 これならどうだと前のめりに反応を待つ。

 しかしいくら待っても静寂は揺るがない。字を書いてるわけでもなし、早くしてくれと鈴を鳴らしてみれば、やがて億劫そうな溜め息が扉にぶつかった。


「……わかった」

「!!」


 王宮に来て九日目、やっとスタート地点だ。

 リニーはその場で両手を振り上げ、廊下でひとり喜びに浸かった。




「本当に殿下が……応じられたのですか?」


 前回と同じように紅茶とサンドイッチを用意してくれたアデリナは、いまだ信じられないような面持ちでリニーを見詰める。

 今度こそ必ず来るはずだ。リニーは自信満々に頷いて、籠に入っていたおしゃれなテーブルクロスを見繕う。

 藍染めの淡い青、白地に花柄の刺繍、薔薇園によく似合う瑞々しい赤。故郷ではお目にかかれない上等なものばかりで迷ったが、とりあえず自分の好みで花柄を選んでおく。

 栗革色の丸テーブルに敷いてみれば、あっという間に場が華やかになった。


「アデリナ様、人払いを終えましたが……」

「ご苦労様です。あなたがたも庭の近くで待機を」

「はっ」


 二人の近衛騎士は不安そうにリニーを一瞥してから、庭の外へ出ていった。

 さて、他に何か用意するものはあっただろうか。紅茶は蒸らす時間もちょうどいいし、サンドイッチは王子の口に合うようアデリナが味付けしてくれたし、椅子は……いや膝掛けが欲しい。

 リニーが大きな籠の中を漁ると、何と準備のよいことか、きちんと薄手の毛布が入っていた。

 さすがアデリナだと目を輝かせたとき、当の貴婦人がハッと息をのむ。


「……殿下」


 辛うじて感情を圧し殺した声。

 シワの刻まれた手が固く握られるのを後目に、リニーは膝掛けを抱えて立ち上がった。

 薔薇のアーチをくぐって現れた黒い人影。以前、マルセルも同じようにそこを通ってきたはずなのに、あのときとは随分と絵面が違う。

 頬骨の辺りまで伸びた、弟と同じ亜麻色の髪。少しばかり潤いを失った毛先の奥には、隈をこしらえた虚ろな青い瞳がある。

 誰にも世話を頼んでいないため、身に付けている衣服は寝乱れのような有り様だ。とは言えその広い肩や長い脚、体に染み付いた歩き方が不思議と彼の気品を保っていた。

 セネトが最初に目を遣ったのは、テーブルの奥に控えているアデリナだった。乳母の姿を認めた途端、彼はふと眉をひそめる。

 どこか逃げるような仕草で鼻先を逸らしたなら、ようやっと目が合ったリニーは笑顔を浮かべる。

 ついでに鈴も振ってやれば、彼はおぼろげにリニーの存在を認識したようだった。



 ずっと眩しげに目をすがめているセネトを日陰の席に座らせ、その膝に毛布を掛ける。

 アデリナが淹れてくれた紅茶はほかほかと湯気をたてて、鮮紅の水色(すいしょく)で白いティーカップを華やかに彩る。見た目とは裏腹に渋めの味や、甘薯(かんしょ)に似た仄かな甘い香りが、以前の王子は気に入っていたそうだ。

 サンドイッチは焼きたてのパンを厚めにスライスして、胡椒やハーブで香ばしく調理されたベーコンと、しゃきしゃきと食感のよいレタスも挟んである。

 前はこれを一人でぺろりと平らげてしまったわけだが、いやはや今日も間違いなく美味しい。リニーは一足先にもぐもぐとサンドイッチを頬張りながら、向かいの席を見遣る。

 セネトは紅茶を一口だけ啜ったきり、生気のない顔でじっとテーブルの上を見詰めていた。


『食欲はありますか』


 手帳に書いて見せてみると、ちらりと青い瞳が文字を追う。

 体調がよいときは少量ながら食事をとっていたと聞いたものだから、軽食がてらどうかと思ったのだが──食べないなら是非とも自分が、と書こうとしたとき。


「本当に巫女なのか」


 セネトが疑惑の目でリニーを見た。

 遊びに来たなら帰れと言わんばかりの眼差しである。

 リニーはこくこくと頷き、サンドイッチを食べ終わった。紅茶も残さず飲み切ってから、おもむろに席を立つ。

 短く刈り揃えた芝生を踏み分け、なだらかな坂を半ばまで下る。澄みきった晴天と綿雲を仰いだリニーは、庭園の木々がそよぐ音を注意深く聞きながら口を開いた。

 リニーが歌い始めると、吹き抜けるばかりだった風がゆるやかな渦を巻く。

 木の葉や花弁を舞い上げて、歌声を聞き付けた野鳥がどこからか次々やって来た。

 庭園に植わった薔薇がわずかに上向き、枯れかけていたはずの花は瑞々しさを取り戻す。

 包み込むような陽射しはやわらかく、蜂蜜色の髪に溶け込んで。


 その光景は人の手では作り得ぬ、まさしく神が愛した楽園のごとし。


「これが神呼びの歌……」


 リニーの歌に呼応し、生命が力を得て輝く様に、アデリナが小さく感嘆の声を漏らした。

 くるりとテーブルを振り返ってみれば、樹冠の影に座るセネトと目が合う。ちゃんと見ていたかとリニーが胸を張ったのも束の間、亜麻色の頭がかくんと傾いた。


「殿下っ?」


 うろたえるアデリナを追い越し、セネトの肩をそっと支える。彼の耳元で控えめに鈴を鳴らして聞かせると、仄暗い瞳がリニーを見上げた。

 眠いかと、口をはっきり大きく動かして問う。

 セネトは少しの間を置いて頷いたが、睡魔を嫌がるようにリニーの手を引き剥がした。


「離れろ、眠ったらまた……」


 悪夢が来る。

 途絶えた言葉の先を汲み取り、リニーは頭を振った。テーブルから手帳を手繰り寄せ、鉛筆を走らせる。


『私が守っています』


 ひょろひょろの文字を見せて、にこりと頬を持ち上げた。

 怪訝な面持ちで固まるセネトの腕を引き、すぐそばの木陰に誘う。

 やわらかな芝生が二人を容易く受け止めたところで、リニーは再び神呼びの歌を紡ぐ。

 誰の耳にも聞こえない歌は、されど確かに彼らへ届けられた。


「……?」


 気持ちよく歌っていたリニーは、左肩にずしりと重みを感じて振り向く。

 セネトが眠っていた。

 顔色の悪さは仕方ないとしても、寝息はとても穏やかだ。悪夢を見ている様子もない。

 瞼にかかる前髪を退け、リニーは歌を口ずさみながら、彼の寝顔をのんびりと眺めたのだった。




 セネトが眠っている時間は、それほど長くはなかった。

 歌いながら自分まで眠くなってきたリニーが目を擦り始めた頃、ふと青い瞳が開かれる。

 樹冠の形に切り取られた光が、セネトの顔をちらちらと照らし、目覚めを促す。

 硝子玉のように綺麗な眼球をじっと覗き込んでいれば、ようやくその視軸が定まった。


「何を、っ!?」


 リニーの腿に頭を乗せて熟睡していたセネトは、自分の体勢に気付いては慌ただしく起き上がる。

 自ら寄り掛かってきたくせに、何て失礼な反応をするのか。リニーはわざと大袈裟に頬を膨らませ、鈴を強めに振る。

 りんしゃん騒がしいリニーに顔をしかめたセネトは、罰が悪そうに「分かったから鈴を鳴らすな」と言って額を押さえた。


「……私は寝ていたのか?」


 信じられないといった様子で彼が呟く。

 きっと、夢を見る暇もないほど深い眠りに落ちたのだろう。心なしか憑き物が取れた彼の表情を受け、アデリナがひどく安心したように胸を撫で下ろすのが見えた。



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