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春風が運ぶもの(3)

「兄の元に通い続けていると伺いました。……何か進展はありましたか?」


 あったらアデリナが真っ先に国王へ報告しているだろう。残念ながら今のところは何もない。リニーがふるふると首を横に振れば、マルセルが気落ちした笑みで俯いた。

 弟に限らずこの国の者全員が、完璧と名高かったセネトの急激な変化に、衝撃と困惑を隠しきれずにいる。

 早く手を打たなければ命を落としてしまうことは勿論、三節前に予定されていたセネトの立太子の儀が流れたことも、皆の不安を煽り立てる一因だった。


「まさか僕に白羽の矢が立つとは……喜ぶべきなのでしょうが、なかなかやりきれませんね」


 セネトの復帰は絶望的とされ、少し前に王位継承権第二位を有していたマルセルが王太子の座に就いた。一連の事件を知らない国民からは抗議の声が相次いだが、王宮がそれに答えられるはずもなく。

 マルセルは重圧と不安を抱えながら、兄が就くはずだった地位に据えられ、今日も浮かない顔をして公務に当たっていた。

 つい最近までこの都には笑顔と希望が満ち溢れていたというのに、今では誰も彼もが瞳を曇らせている。


「ですが七日も兄に向き合ってくれているのは、巫女殿が初めてです。皆、兄の剣幕に戦いて逃げ帰ってしまって……」


 私も昨日「失せろ」と言われたよ、とは明かさず。

 リニーは手帳を開いた。


『また後でお部屋に行ってみます』


 サンドイッチを頬張りながら書いたその返事に、マルセルはどこか申し訳なさそうな笑みで頷く。


「よろしくお願いします、巫女殿」


 陽射しをたっぷりと含んだ亜麻色の頭が、薔薇園の向こうに消えていく。庭の入り口に待機していた近衛騎士は、リニーとアデリナにも目礼しつつ踵を返した。




 また明日の朝、庭に来てほしいとの旨を認めて、扉下の隙間にメッセージを差し込む。

 鈴を鳴らしたリニーは扉から離れ、向かいの壁に凭れかかった。

 さてどうしたものか。このままではセネトと会う前に王宮を追い出されてしまうかもしれない。せっかく集落の長から直々に指名されて来たのに、すごすごと手ぶらで帰りたくはない。

 長はきっと、リニーが適任だと判断して選んでくれたのだし──と思っているのだが、実際どうなのだろう。

 本当に解決する気がなくてリニーをここに行かせたのなら、そのときはさすがに長を批難する。


「誰かいるのか」


 地を這うような声が耳朶を撫ぜる。

 はっと目を開けて、リニーは反射的に鈴を振った。

 すぐにそれが、毎日毎日手紙を入れてくる人物だと悟ったのだろう。扉越しに溜め息が聞こえた。


「失せろと言ったはずだ。報酬に目が眩んだペテン師が」


 肌がぴりぴりと痺れる。声だけでこんなにも不機嫌さが分かるのだから、直接顔を合わせた医者たちが逃げ帰るのも仕方ない。

 また気配が遠ざかってしまう前にと、リニーはそうっと扉の前まで移動する。


『まだ悪夢は見ますか』


 手短に問えば、差し込まれた紙を見たであろうセネトが舌を打つ。


「聞いて何になる。どうせ何も出来やしない」


 そう吐き捨てたきり、セネトは部屋の奥へ消えてしまった。扉に耳を押し付けていたリニーは肩を落とし、ページを千切り続けたおかげで随分と薄くなった手帳を見遣る。

 そろそろ新調しなければ。明日は一旦訪問をお休みして、街に手帳を買いに行こう。

 リニーは鈴を鳴らし、今度こそ扉の前から立ち去った。




 そうだ、紙って高かったなと、リニーは今更な後悔を覚える。

 陽の光が燦々と降りそそぐ城下町の片隅、文具店に並ぶ手帳はどれも値が張るものばかりだった。

 故郷にいたときは、集落の長が外国の商人から譲り受けた手帳をリニーに回してくれていた。それは頑丈な羊皮紙だったり、樹木から作られた繊細な紙だったりと種類は様々。

 日常的に使用しているがゆえの弊害か、リニーはそれらが大変な高級品であることをすっかり忘れて、王宮に来てから昨日に至るまで何の気負いもなくびりびりと手帳を破いていたわけだ。

 これはまずい。セネトはおろか、人間全般と会話する手段がなくなってしまう。

 当面の間は、王子の部屋に投げ込んだ紙切れを回収し再利用するしかあるまい。

 セネトが外に出てきてくれば、ページをちぎる必要なんてないのに──ちょっとばかし悪態をつきながら財布の紐を締めたリニーは、じっとこちらを見上げてくる店主に頭を下げた。


「セネト様のご病気はまだ良くならないのかい? もう三節もお姿を見てないよ」

「以前はよく街にいらしていたのに」

「早くあの麗しい笑顔が見たいねぇ」


 不安げな顔で言葉を交わす人々の間には、王宮と同じような空気が流れていた。

 皆、セネトの元気な姿が見られる日を待ち望み、疲弊している。

 危うげな景色だった。




 結局何も買わずに王宮へ帰ってきたリニーは、その騒がしさにびっくりして足を止めた。

 いつもはせっせと自分の仕事を全うしているメイドや兵士たちが、今は恐怖に染まった顔で立ち尽くす。


「セネト様がお倒れに……」

「大丈夫なの?」

「叫び声が聞こえたわ」

「近衛を突き飛ばしたって」 


 大変だ。また悪夢を見てしまったのだろうか。

 リニーが慌てて王子の部屋へ向かおうとしたとき、咄嗟に腕を引かれて立ち止まる。

 アデリナだった。


「リニー様、いけません。今日は殿下にお会いにならないほうがよいかと……少し、危険です」


 苦しげに告げた彼女は、この場の誰よりもセネトに会いに行きたそうだ。苦渋に満ちた顔を見上げ、リニーは仕方なく頷いた。

 セネトの部屋から呻き声が聞こえたのは、リニーが城下町に向かってすぐのことだったという。

 異変に気付いたアデリナが近衛騎士を呼び、恐る恐る扉を開けたなら、悪夢に魘され錯乱する王子がそこにいた。

 騎士が数人がかりで彼を取り押さえたものの、うち一人が突き飛ばされ軽傷を負ったとか。

 セネトはかつて、剣術の天才と謳われたほどの実力の持ち主だ。この三節で体力が衰えたとは言えど、一歩間違えれば死者が出るような状況だったのだろう。


「……殿下はもう、以前の殿下に戻れないのでしょうか」


 アデリナがそのとき、初めて苦悩をあらわに呟く。

 リニーの前ではいつも毅然としていた貴婦人の弱々しい表情に、胸の奥がつきりと痛んだ。


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