春風が運ぶもの(1)
「それが、この三節の間に起きた出来事です」
渡された薄っぺらい資料から顔を上げる。
ガタゴトと揺れる馬車の中、向かいに腰掛けた貴婦人は微動だにしない。伏せられた瞼も、眉間や口角に深く刻まれた皺も、ぴくりともしない。まるでよく出来た石像のようだ。
ビロードの座席で小刻みに跳ねながら、リニーがどうにか心地よく座れないかと四苦八苦していると、大きな咳払いが響く。
「リニー様、ご自分の使命は理解しておられますね? あなたにはセネト王子殿下の悪夢を払っていただきます」
きんと空気が凍りつく。
リニーは慌てて背筋を伸ばしてこくこくと頷いたが、あえなく横っ面を窓にぶつけた。
貴婦人はその細面をわずかに引きつらせたものの、無言で瞑目するに留めたのだった。
ようやく目的地に到着し、馬車からぴょんと飛び降りたリニーは、所狭しと並ぶ家屋の群れと、故郷とは比べ物にならないほどの人通りに圧倒される。
王国の東端から長いこと馬車に揺られるだけの旅だったが、この賑やかな景色はとても好奇心を刺激した。水路を進むゴンドラや手入れされた花壇をそわそわと観察していると、姿勢のいい貴婦人が静かに隣に立つ。
「リニー様のご希望通り、城下町は徒歩で進みますが……あまりうろちょろしないように」
はーいと片手を挙げれば、貴婦人は信じられないような面持ちで固まり、深いため息をついた。
城下町の観光もそこそこに、リニーはいよいよ件の王子セネトに会うこととなった。
彼は魔物に止めを刺した日以降、毎日のように悪夢に魘されているという。なんと三節もの間、ろくに眠らずに過ごしているそうだ。食事も殆ど取っていない。
つまるところ、早く悪夢を払わねば死んでしまうような状況だった。
(私に何かできるかな……? できると良いな)
リニーは貴婦人の後を小走りに追いながら、きらびやかな王宮の内装を見渡す。
深紅の絨毯はひたすらに長い、一体どこが継ぎ目なのかと不安になるほど長い。きっちりと大きさの揃った窓が、そこに綺麗な四角形の光を延々と落としていくのもまた、リニーには新鮮な光景だった。
煉瓦と漆喰で塗り固められた壁、廊下の中央に敷かれた絨毯、等間隔に並んだ扉。ここは何もかもが整っていて、一種の気持ちよさを見る者に与える。
「リニー様」
はっと我に返ってみれば、貴婦人が手早くリニーの蜂蜜色の髪や衣服の乱れを直していた。
着せ替え人形よろしく両手を広げて固まったリニーは、次に貴婦人が何を言ってくるかを予想して、その場でスカートの裾をつまむ。ぎこちないお辞儀をして見せると、貴婦人は少しの間を置いて頷いた。
「……よいでしょう。私が立ち止まったらすぐにお辞儀をしてください。さ、参りますよ」
長い長い廊下の先、開け放たれた大扉をくぐる。
淀んだぬるい熱気が頬を掠めれば、陰鬱な表情をした者たちがこちらを振り返る。まさに疲労困憊。生気のない瞳はすぐにリニーから逸らされた。
奥へ進むと見上げるほど高い階段があり、その上に老齢の男が座っている。きらきらと輝く冠は、この国の王の証だ。
して、隣に座っている若い男がセネト王子だろうかと思ったのだが、彼はとても愛想よくリニーの視線を受け止める。おまけににこりと微笑まれてしまった。
「リニー様、お辞儀を」
しまった。リニーが慌ただしくお辞儀をすれば、すぐに国王が「顔を上げよ」と低く言う。
「よく戻った、アデリナ。その者が東の……神呼びの巫女か」
貴婦人──アデリナは国王の言葉に対して、即答はしなかった。
「……集落の者たちはそうだと申しておりましたが……」
「何だ?」
「陛下、神呼びの巫女は清らなる声で歌い、人に降りかかる災厄や妖魔を祓うものと私はお聞きしました。ですがリニー様は」
そこでアデリナは言いづらそうに眉をしかめ、諦めを滲ませた口調で続ける。
「……声が出ません」
ざわり、周囲から当惑する声と溜め息が聞こえた。
アデリナは、東の集落には他にも神呼びの巫女がいたこと、そして彼女らは普通に話せていたことを報告する。
リニーだけが、巫女に必須であるはずの歌声を持っていないと。
「どういうことだ?」
「東の民は我らをからかっておるのか」
「我々への恩義を忘れ、セネト殿下を見捨てるとは!」
噴出する怒りの声。
仕方ないことだろう。正直に言えば、リニーもなぜ自分が選ばれたのか分かっていないのだから。
だが──リニーは片手を挙げてぴょんぴょんとその場で飛び跳ねる。
「あ……皆の者、静かに」
騒がしい空間を鎮めたのは、国王の隣にいた青年だった。彼は控えめな笑みでリニーを見詰める。
「どうされましたか、巫女殿」
リニーは使い古した手帳を開き、そこに文字を書き付けた。
セネト王子に会わせてほしいと。