羽を広げたなら(3)
妻。
飛び出そうなほど目を見開いてしまったリニーは、その何とも自分に似合わない単語を反芻した。
(私がこの人の……奥さんになるってこと? 奥さん!?)
つまり結婚してくれと言われているのか?
もしかして人違いではないかとリニーが大混乱に陥っていると、セネトも色々と段階をすっ飛ばしたことに自分で気が付いたらしい。
躊躇いがちにリニーの肩を掴んでは、そっと顔を覗き込んだ。
「いや、だからその、勿論まずは婚約してからになるし、リニーの巫女としての務めもあるから話し合うことは山ほどあるわけだが」
「……」
「……それもこれも、君が承諾してくれたらの話だな」
セネトの表情が気弱に歪む。
恥ずかしさに負けて睫毛を伏せても、彼の視線は依然としてリニーの火照った頬に留まったまま。
もつれる手で鉛筆を握って、リニーは何度か詰まりながらも手帳に文字を書き付けた。
『私は貴族じゃないです』
「構わない」
食い気味な返答に首筋が熱くなる。ちらりと瞳を上向ければ、澄んだ青い双眸が手帳とリニーを交互に行き来していた。
『私の声も一生このままです。ご迷惑を掛けるかもしれません』
「気にしないでいい、どれだけ私が君に迷惑を掛けたと思っている。声は……死ぬほど聞きたいが」
最後はぼそりと、何とも歯痒い面持ちでセネトが告げる。
彼の視線に、リニーは喉元をくすぐられるような錯覚に陥りながら、一番聞きたかったことを尋ねてみた。
『セネト王子は、リニーのことがお好きですか?』
数少ない拠り所としてではなくて、一人の人間として好ましく思ってくれているのか。
時が経ち、気の迷いだったと言われてしまった日には、夜通し泣く自信がある。
だから彼の気持ちが知りたかったのだが──当のセネトが心底参ったように顔を覆っている姿を見て、つい呆けてしまった。
「……リニー、君は知らないだろうが、私は女性に求婚した試しがない。だから、何と言えば伝わるのか分からないんだが……」
ずるりと手が滑り落ち、紅潮した目許が露になる。
「君の、飾らない言葉が好きだ。ありのままの私を真っ直ぐに見てくれる瞳も、笑顔も、君が字を書いている時間でさえ愛しい」
照れるとすぐに火照るところも。
セネトの大きな手に頬を包まれて、リニーは更に沸騰する勢いで真っ赤になってしまった。
聞いたことを後悔するほど直球な告白の数々に、少し待ってくれと書こうとすると。
「君が疑う気持ちも分かるから、しっかり段階を踏もうと思ったんだ。いや、最初こそ君を迎えに行ったときに求婚する予定だった」
だが、と彼は苦々しく唇を結び。
「……それまでに、誰かに奪われでもしたらと思うと耐えられなくて。…………逸ってしまった」
余裕のなさを恥じるような声音に、とうとうリニーはぷしゅんと音を立ててその場に座り込んでしまった。
「リニーっ?」
芝生に転がりかけたリニーの背は、がっしりとした腕に抱き止められた。羞恥を逃がすために座り込んだはずが、余計にセネトとの距離が近くなってしまった。
リニーは自分の髪やら袖口やらで顔を隠しながら、見付けた鈴を鳴らす。
しばし当惑していたセネトも、それが精一杯の照れ隠しと返事だと理解したらしい。おかしげに吹き出しては、贈り物の梱包をほどくかのように、リニーの手を下ろさせていく。
「リニー、鈴じゃ分からない」
取り落とした手帳を拾った彼は、代わりにページを開いてリニーの手に戻す。
ついでに鉛筆も手渡されたリニーは、観念して文字を連ねた。彼の腕の中でじっと見守られながらの筆談は、とても緊張してしまう。
『私も、こうしてセネト王子とお話ししたり、アヒムに乗ってお散歩したりするのが、好きです』
『一緒にいたいです』
『貴族の人みたいに振る舞える自信はないけど、がんばって──』
「リニー、すまない」
書いている途中で、がばりと背中を抱き寄せられた。
開いた手帳がちょうど、リニーとセネトの顔の間に挟まる。驚いて目を瞬かせるたび、睫毛が彼の頬に当たった。
ぎゅうと体を包み込む温もりの中、そろりと手帳を下ろせば、セネトが青い瞳を細めて笑う。
「嬉しくて待てなかった」
悪戯っぽく囁いた唇は、そのままリニーの額に押し付けられた。
優しく触れたところに熱が灯ったかと思えば、頬や鼻先にも口付けが降ってくる。そして、いつしかの壊れ物を扱うような弱さで、リニーの指先を掬っては互いに絡めて。
「……まずいな、君を迎えに行くまで我慢できるだろうか」
予定を崩したことを早くも後悔しているのか、セネトは溜め息混じりにリニーを抱きすくめる。
広い肩に顎を乗せる形になったリニーは、心地よい温度に身を委ねつつ、もぞもぞと手帳を顔の位置まで持ち上げた。
『お手紙書きます。たまには集落にも遊びに来てください』
『アデリナさんやヘンドリックさんには、セネト王子をしっかり休ませてほしいと、お願いしておきます』
また根を詰めて疲れてしまわないように。リニーのそんな願いは、ちゃんと彼にも伝わったようだ。
手帳の字をなぞって、「ああ」と小さく頷く。
「……ありがとう、リニー。私をまた、生かしてくれて」
大袈裟だと首を振れば、どちらともなく笑みがこぼれ──リニーの腹からぐぅと音が鳴ってしまった。
「……とりあえず朝食にしようか」
そうしてくれると大変嬉しいです、とリニーは笑いながら頷いた。
薔薇園のど真ん中で座り込んでいた二人は、そこでようやく立ち上がる。
いつもと変わらない、それでいて何処か違う、朝の庭園の奥へと進んだのだった。