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青嵐(4)

 ──濃紅の上着に合わせた、同色の落ち着いた布地。そこに不思議な輝きを秘めた硝子細工を縫い付けたカチューシャは、リニーの明るい蜂蜜色の髪によく映えていた。

 後頭部をぐるりと囲むように垂れた金糸にも、硝子細工に寄せた小さな青い石が散りばめられ、彼女の髪全体がきらきらと小粒な光を反射する。


「…………似合うな」


 長いこと眺めたわりに、こぼれた感想は貧相そのもの。セネトは自分で頭を抱えたくなった。

 以前なら淑女の褒め方などいくらでも思い浮かんだと言うのに、何だ「似合うな」とは。当たり前のことを言うな。

 いやしかし、リニーに対してやれ花のようだの、やれ可憐な姫だの、歯の浮くような台詞が吐けないのも当然だった。


(あれは、世辞と割り切っていたから平然と口に出来ただけで……定型文のようなものだったし……)


 我ながら口先だけの人間関係に辟易してしまうが、つまりはそういうことだ。

 リニーに「似合う」以上の褒め言葉を伝えようものなら、しばらく顔の赤みが引かなくなる。そうだ今すぐ夕方になってくれ。そしたら言えるかもしれない。

 などと真っ青な晴天を頭上に面倒臭い思考を巡らせていたら、リニーが恥ずかしそうに手帳を開いていた。


『ありがとうございます。嬉しいです』


 勝手に頬がにやけた。

 とっさに口許を外套の裾で隠したセネトは、何とも浮かれすぎている自分を律するべく深呼吸してみたが、あまり上手く行かなかった。

 あれほど辛くて忌み嫌っていた以前の笑顔が恋しくなる程度には、表情を全く制御できないのだ。

 三節に渡る悪夢はセネトを散々苦しめた後、彼を隙のない王子からただの男に変貌させてしまったかのようだった。


 いや、もしかしてそれは悪夢のせいではなくて──目の前にいるリニーが原因なのだろうか。


 十中八九そんな気がしてきたセネトは、また首筋が熱くなる前に、リニーをさっさと黒馬の鞍に乗せたのだった。



 賑やかな、それでいてセネトの耳を苛むことのない穏やかな喧騒。

 アヒムの手綱を引いてその中を進むと、やがて大きな教会と噴水が見えてきた。城下町の顔、中央広場だ。

 後ろを振り返れば、建物の間からちょうど王宮が窺える。丘上に立つ白亜の宮殿は、ここから見ると余計に眩しく見えた。

 ふっと、優しい風が吹き抜ける。

 視界の端でリニーのスカートが靡いたかと思えば、踵のない平たい靴がぱたぱたと動いた。

 どうしたのかと馬上を見ると、リニーが何やら感激した様子でカチューシャを触っている。

 セネトと目が合うや否や、また手帳に何かを書き込んで。


『髪が邪魔にならないです』


 風が吹いたり、俯いたりするたびに、リニーのさらさらとした髪はすぐに顔に掛かってしまう。

 実際、庭園でもリニーが頻繁に顔を振っている姿は見ていたので、カチューシャは思いがけず彼女の悩みを解決してくれたらしい。

 喜ぶリニーを微笑ましく見守っていたセネトは、ふとした疑問を口にする。


「髪は結わないのか? 集落にしきたりでも?」


 周りにいた貴族の娘は髪を伸ばし、綺麗に編んだり飾りを付けたりと様々だ。

 城下にいる平民の間でも、仕事の邪魔にならないよう簡単なアレンジが流行りだした──と三節前に聞いたことがある。

 リニーは興味がないのだろうかと思っての、素朴な質問だったが。


『不器用だから出来ないだけです』


 ちょっと悔しそうな顔と返答が寄越された。

 そしてすぐさま書き足された文に、セネトは硬直してしまった。


『これをしばらく着けていたいので、練習はまだしなくて良いですか』


 何だこの可愛い生き物。寧ろずっと着けててくれ。

 またしてもそんな馬鹿げたことを考えたセネトは、思ったことをそのまま返しそうになってはアヒムの脇腹辺りに額をぶつける。

 びっくりしたリニーに後頭部を摩られながら、彼は辛うじて探し出せた別の言葉を返した。


「気に入ってくれたならそれで……」


 と、そのとき。

 先程よりも強い風が吹き荒れ、セネトが被っていたフードがふわりと外れてしまった。


「……あ」


 大きく目を見開いたリニーが手を伸ばすよりも先に、近くを通りがかった街の住人がセネトの顔を捉えてしまう。


「セネト殿下っ?」

「え!?」

「どこに?」


 街の空気が変わる。

 方々に散っていた無数の視線が、続々と集まっては槍になる。

 鳴りを潜めていたはずの悪夢は、容易くその姿を現してセネトの首を絞めにかかった。

 息苦しさと動悸が手始めに指先を冷やしていこうかというとき、セネトはすんでのところで呼吸を思い出した。


「……っ」


 すると、彼が立て直すのを待っていたかのように、アヒムが頭を擦り付けてくる。

 それに乗じて、馬上から伸びた細い手が頬を撫でた。

 見上げれば、陽射しの中でリニーが微笑んでいる。


「ほんとだ! セネト様だ!」

「セネト様ー!」


 増える歓声を背に、セネトはただ、目の前にある小さな唇の動きを読んでいた。



『まかせて』



 ──ああ、なぜ彼女の声だけは聞こえないのだろう。



 悪夢とは別の苦しみに、胸が締め付けられたときだった。

 リニーが輪にした指をくわえて、勢いよく息を吹き込む。口笛──セネトや他の人々には捉えられない音が、街に響き渡る。

 直後。


「何だ?」

「うわぁ!?」


 突如として広場が騒然となる。

 何かと思って空を仰いだセネトは、大量に飛来した鳥の群れに目を剥いた。

 晴天の青を埋め尽くすほどの白い翼が、リニー目掛けて飛んでくる。反射的にセネトが鞍の後ろに跨がったなら、代わりに手綱を握ったリニーが勢いよくアヒムを走らせた。


「リニー! これはいったい何……何羽呼んだ!?」


 大騒ぎの広場を颯爽と駆け抜けながら、リニーが楽しげにかぶりを振る。分からないようだ。

 呆気に取られたまま街を見遣れば、鳥の群れは人々に悪戯するわけでもなく、リニーの後を追って飛んでいるだけだ。

 そしてそれは餌を求めて、ということでもない。

 ただ単に、神呼びの巫女と共に風に乗っていた。

 お伽噺にこんな場面があったような。セネトは感じたことのない高揚感に息をのむと、リニーと一緒に手綱を握る。


「ひとまず外に出よう、このまま大通りを真っ直ぐだ」


 元気よく頷いた彼女に笑って、セネトは軽く黒馬の脇腹を蹴った。主人の合図を受けたアヒムは、それまで以上の走りで城下町を走り抜けたのだった。




 城下町の門を守っていた兵士は、猛スピードで迫る黒馬と鳥の群れを見て、絶叫と共に道を空けた。

 減速せずに楼門をくぐり抜けてしまえば、街を囲む森林に入る。

 石畳の道をアヒムの小気味よい蹄が鳴らし、やがて──広い草原へと視界が切り替わった。

 狭い街並みから解き放たれた鳥の群れは、リニーが手を振ると次第にほつれ、青空へと羽ばたいていく。

 すがめた目で彼らを見送り、セネトは黒馬を草むらの方へと旋回させた。

 放心気味に鞍から降りた彼は、ひょいと飛び込んできたリニーを抱き止めた途端、べしゃりと草むらに崩れ落ちる。


「……」


 とても驚いた様子で瞳を瞬かせるリニーと同じで、セネト自身もまさか倒れるとは思わず、間の抜けた顔で呆けてしまった。

 抱き合ったまま固まること暫し、リニーの髪が頬をくすぐったところで我に返る。おかしさやら爽快感やらが湧き起こり、二人は同時に吹き出した。


「こんな体験は初めてだな」


 あんなに大勢の鳥を見たのも、アヒムを城下町で思いきり走らせたことも、青空の下で草むらに寝そべったことも、何もかも初めてだった。

 一頻り笑ってリニーを隣に転がしてやると、入れ替わりに相棒の黒馬が頭を寄せてきたので、その顎を優しく摩る。


「悪かったアヒム、久々だったのにこんなに走らせ……あぁ、いや、機嫌がいいな?」


 さすがと言うべきか、アヒムは全く疲れていないようだった。相棒も楽しんでいたのだろうかと、セネトは苦笑混じりに手を離す。

 気持ち良さそうに寝転がるリニーに倣って、ゆっくりと流れるちぎれ雲を追う。

 伸びたままの前髪を掻き上げれば、空はさらに広くなった。


「……リニー」


 若草が揺れる。

 彼女の視線を頬に受けて、セネトは言葉の続きを紡いだ。


「ありがとう。……君と過ごすようになってから、私は初めて自分のことが分かってきた気がする」


 今思えば、次代の国王としての教育が開始された当初から、窮屈さは絶え間なく感じていた。

 人前で笑顔を作るのがとかく苦手で、誰の顔も見なければ出来そうだと気付いたのが、十代に差し掛かった頃だろうか。

 なれもしない聖人の型に己を流し込もうとしていくうちに、セネトという名の人間は忘れ去られた。

 自分ですら、自分のことを忘れていた。

 おかしな話だと思う。だが事実だった。理想の王子になるためには、我儘な子供の自分は消さなければならなかったから。


 ──それがここ数週間足らずで、ふっと、息を吹き返したような。


「私は……笑うなら声を上げて笑いたい。弱音だってたまには誰かに聞いてほしい。王族である前に一人の人間として、皆に接してほしかったのかもしれない」


 国を治める者として、そんな主張は不要だと批難されるだろう。

 もしもあの魔物を殺さなかったとしても、近いうちに自分は重圧に耐えられなくなって本音をこぼしたのではないだろうか。

 そして皆を失望させて、今と同じ状況に陥っていたような気がする。


「だから、これからは……」


 投げ出していた右手が、きゅっと握られた。

 弾かれたように空から視線を外せば、右手はリニーの両手に包まれていた。

 明るい笑顔に促され、セネトは自然と言葉をこぼしたのだった。


「自分を嫌うのは、やめようと思う」



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