青嵐(2)
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サムエルという男がやって来てから、リニーと会う機会が減った。
いや、毎朝顔は合わせているのだが、二人で言葉を交わす時間が殆ど消えた。
朝食時にサムエルが現れると、リニーはいつも彼と話し始めてしまう。
あげた手帳も使わずに、唇の動きだけで。
(……私は何を不貞腐れているのか)
セネトは紅茶を啜りながら、身勝手な不満を覚える自分に呆れてしまった。
サムエルが言うには、二人は東の集落で育った幼馴染みのような間柄だとか。リニーを妹のように可愛がっていると笑顔で述べていたが、本人がテーブルの下で彼の脛を蹴っていたので真偽は不明である。
とは言え、気の置けない仲であることは間違いないのだろう。
『体調が優れませんか』
せめて退屈さは出さぬよう薔薇園に視線を遣っていると、端で手帳が揺れる。
リニーがこちらに身を乗り出し、案ずるような瞳でセネトを見詰めていた。
「いや……」
輪に入れず拗ねていただけ、などと子どもっぽい理由を言えるわけもなく、セネトは曖昧に言葉を濁す。
しかしリニーが自分のことを気にかけてくれたと知るや否や、ホッとしてしまったのも事実だった。
いよいよ危なくなってきたなと、セネトは喉の奥で小さく唸る。
リニーに入れ込んでいる自覚は、正直ある。
細い肩を衝動的に抱き締めてしまった日から?
全身に光をいっぱいに浴びて、歌う姿を見たときから?
それとも、薔薇園で初めてリニーの顔を見たとき?
否、彼女が毎日とりとめもないことを紙にしたためて、セネトに語りかけてくれた頃から既に惹かれていたのかもしれない。
何も飾らず、ありのまま振る舞って、屈託なく笑うリニーが、初めは羨ましかった。
すっかり変わり果ててしまった自分からどんどん人が離れていく中、彼女が真っ直ぐに向き合ってくれたことで、嫉妬じみた羨望はいつしか違う輪郭を持ち始めたのだ。
「?」
ぼうっとリニーを見詰めていると、次第に丸い頬が赤らむ。照れるとすぐに顔が紅潮してしまうらしく、今回も恥ずかしそうに手のひらで頬を隠した。
先日、馬上でこの愛らしい顔を見せられて危うく落馬するかと思ったが、幸いここ三節で死んだ表情筋は、それほどセネトの顔をだらしなく弛ませることはなかった。
いや、そもそもあれはリニーがいろいろと言葉を省いて「好き」と手帳に書いてきたことが原因でもあるが。
セネトが一人悶々としている傍ら、リニーは桃色の瞳をうろうろとさせて、やがて何かを察したように手帳を閉じ。
「いてっ、何だよ」
ぽかっとサムエルの頭をはたく。そして犬を追い払うような仕草で手を払い、庭園の出口を指差した。
「うるせぇから出て行けってか? はー、はいはい。そうだ殿下、夕食の後でお部屋に伺っても?」
「ああ……構わないが」
「ありがとうございます。では後ほど」
洗練された所作で一礼したサムエルは、仕返しにリニーの額を指で弾いてから立ち去った。
額を摩りながら彼を見送ったリニーは、再び手帳に鉛筆を走らせる。
丸めた手でちまちまと文字を書くたびに、蜂蜜色の髪が一本二本と垂れ落ちる。伏せた睫毛に金糸が引っ掛かれば、鬱陶しげに頭を振って。
不思議なことに、リニーの何気ない仕草を見ているだけで心が休まる。以前は常に大勢の人がいたせいか、一人の人間をじっくりと眺めることなどなかったが──そこまで考えてセネトは苦笑してしまった。
(太陽の君などと呼ばれておいて、私は誰にも関心を寄せていなかったのか?)
照らすべき民、愛すべき民からずっと目を背けて、自分は一体誰に向かって笑っていたのか。
決まっている。ただ「笑え」と言われたから、笑っていたのだ。
王は、民に信頼と希望を与える存在でなければならない。そう言われたから、皆の前では笑っていようと思ったのだ。
弱さを見せれば付け込まれる。侮られる。叱られる。呆れられる。失望される。
必死に言い聞かせて、皆が望む「王」になろうとしたが……結局、成し遂げることは叶わなかった。
『もうお昼寝しますか? 先にそのサンドイッチ食べても良いですか』
リニーの相変わらずな問い掛けと、そわそわとサンドイッチを盗み見る桃色の双眸に、自然と笑みがこぼれる。
自分ではどうしようもない沈んだ思考を、いつもリニーは簡単に引き揚げてしまう。
下らないことを考える暇があるなら、寝るか体を動かすか何か食べろと言われているような気さえする。実際そうなのだろうが。
セネトが一つだけ残していたサンドイッチを差し出せば、リニーは分かりやすく喜んでそれを手に取った。
「……リニー、頼みを聞いてくれないか」
そうして暫し、彼女の食事姿を眺めたセネトは、意を決して口を切る。
きょとんと瞬く桃色の瞳を見詰め返し、風に揺られる蜂蜜色の髪をそっと指先で掬った。
「街に下りたい。一緒に付いて来てほしいんだ」
「!」
リニーの顔周りで、途端にぱっと花が咲いたようだった。
まだサンドイッチが二口程度は残っていたので、ゆっくり食べるよう促しつつ、セネトは彼女の鉛筆を代わりに走らせる。
昼過ぎ、準備ができたら王宮西側の外庭へ、と。
その文を丸い瞳で追ったリニーは、これがお忍びの外出だとすぐに悟ったらしい。内緒話をする体で人差し指を立てて、小刻みに頷いてくれた。