前を向いて(5)
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馬に乗って外庭をぐるりと一周してきた若い男女は、そのまま薔薇園のテーブルで遅めの昼食をとっていた。
ヘンドリックは騎士にあるまじき緩みまくった顔で二人を遠目に観察しながら、至福の溜め息を吐き出す。
「はぁあ……東の集落にはちゃんと謝礼を払ったのか? リニー様の働きは名誉称号モノだぞ全く……いやしかし、めんこいなぁ。あの初々しさ、親心が刺激されてしまう」
「……子などおりましたか?」
「おらんが……夫人もそう思っておられるのでは?」
図体のでかい騎士の独り言があまりにも大きいものだから、つい口を挟んでしまった。
アデリナは溜め息を飲み込みつつ、筆談で静かなやり取りをする二人を見遣った。
「初めてリニー様とお会いしたときは不安でしたが……今ならば、集落の長が彼女を選んだ理由が分かる気がします」
誰に対しても平等の愛を与え、笑顔を絶やさず、大勢の人々に囲まれてきたセネト。
正体不明の魔物を殺し、悪夢を見るようになってからと言うものの、王子は当たり前に行い、また享受していたものを全く受け付けなくなってしまった。
殊更セネトが嫌がったものが──音だった。
厳密に言うなら、人間の声。
セネトの名を呼ぶ声や、以前と様変わりした彼の現状を嘆く声が、嫌で仕方ないようだった。
リニーは端から声を持たぬゆえに、王子の心を苛む要素が他よりも圧倒的に少なかったのだ。
だからこそセネトは、積極的に手紙を投げ込んでくるリニーに自ら歩み寄ったのかもしれない。
「……私も、殿下を元に戻さねばと焦っておりました。そう、こぼしたときに……リニー様が少しだけ悲しげなお顔をされたのです」
あの表情は、なにもアデリナの心情を慮ったわけではない。今日に至るまでずっとリニーの行動を見守っていて、よく分かった。
「私は、今の殿下を正面から見ることを拒否していたのです。殿下が妖魔に取り憑かれたなどと言って、あの方の抱える何もかもを、一時的な苦しみと見なした」
アデリナだけではない、彼を知る大半の人間がそう思っていることだろう。
──悪夢に狂わされた王子は偽りの姿なのだから、早く本来の姿に戻してやらなくては、と。
狂っているのは一体どちらか。アデリナは堪えきれなかった溜め息と共に、乗じて溢れそうになった涙を瞼の裏で押し止める。
「……今はただ、リニー様を信じるのみです。形だけの乳母に出来ることなど、何も……」
「昔からそうだが、夫人は線引きがお好きですな」
それまでじっと耳を傾けていたヘンドリックが、平素よりも落ち着いた声を出した。
見れば、騎士は今もなお二人をのんびりと眺めている。
「自分も殿下の御身を案じておりますよ。医者でも巫女でもない、剣を振るしか能のない騎士ですがね」
「……」
「手出ししちゃならんってことはないでしょうし、たまーに助けつつ、ゆっくり見守ろうじゃありませんか」
にかっと歯を見せて笑ったヘンドリックは、一足先に庭園から立ち去った。
あの楽観的な思考が嫌いだったのは、まさしくそれが自分に欠けていた余裕だったからだろう。
アデリナはここ最近ですっかり滅入ってしまった気分を叩き直すべく、曲がりかけた姿勢をぐっと伸ばしたのだった。




