前を向いて(4)
黒馬はアヒムという名前だそうだ。
セネトが十六歳になった日、つまりは成年した際に剣と共に贈られた騎馬で、かれこれ五年ほどの付き合いらしい。
セネトの相棒と呼ぶに相応しいアヒムは、王族へ献上されるだけあって優れた体を持っていた。
跨がったときの安定感は勿論のこと、脚の筋肉によって生み出される大きな歩幅は、騎手を風の中に放り込んでしまうかのようだ。
何故そんなことが分かるのかと言うと、実際に乗っているからである。
リニーはそれはもう楽しく歌いながら、アヒムと一緒に晴天の下を散歩していた。
ぱかぱかと軽やかな足音は耳に心地よく、高い視点から見下ろす城下町の景色も素晴らしい。
アヒムのしなやかな背中を摩ったリニーは、厩舎の前にいるヘンドリックに手を振ってから、隣に立つ亜麻色の髪を見付けた。
(アヒム、セネト王子だよ!)
語りかければ黒い耳がぴくりと動き、ぐんと駆ける速さが上がる。あわや後ろへ傾きそうになったが、リニーはしっかりと手綱を握ったままセネトの元へと向かった。
「アヒム──う」
三節ぶりに愛馬とまみえたセネトは、ぐりぐりと鼻頭を押し付けられて仰け反る。
寂しがらせた罪悪感か、彼はしばらくなされるがままにアヒムの頭を撫でていた。
その再会を感極まった顔で見守ったヘンドリックは、とうとう眉間を押さえてしまう。
「良かったなぁアヒム……! いや、しかし凄いですな! アヒムは殿下じゃないとなっかなか走ってくれなかったのに」
「ああ……まずリニーが馬に乗れたこと自体が意外だが……」
セネトの中のリニーに対する印象を是非聞いてみたかったが、犬と言われても嫌なので黙っておく。
代わりにリニーは手帳を取り出して、最後のページに文字を書き付けた。
『アヒムに乗ってあげてください』
「……そうだな」
『あと、降りたいので手伝ってほしいです』
セネトが瞳を瞬かせる。
そしてアヒムの背中やリニーの身長を比べつつ、不思議そうに首をかしげた。
「どうやって乗ったんだ?」
「わはは、お一人で飛び跳ねておられたので、自分が抱え……おっと」
それは格好悪いから秘密にしてとリニーが人差し指を立てる傍ら、セネトはひとり黙考する。
やがて彼は中途半端に伸ばしていた腕を鞍に移し、リニーを降ろすことなく自身も跨がってしまった。
呆けたのも束の間、後ろにしっかりと腰を据えたセネトに手綱を優しく奪われる。
「アヒム、行けるな」
彼が片足でトンと腹を叩けば、黒馬は軽やかな足取りで走り出した。
ここで降りるつもりだったリニーは、後ろのセネトと遠ざかっていくヘンドリックを交互に見たが──大柄な騎士はにこにこと爽やかな笑顔で手を振るのみだった。
鞍の前部に掴まりながら、追い風に身を委ねる。先程リニーが手綱を握っていたときに比べて、アヒムの走りが心なしか軽快に感じた。
久し振りに主人を乗せられて嬉しいのだろうか。リニーが黒いたてがみを梳くように撫でていると、不意に後ろから腹を引き寄せられた。
セネトはその青い瞳を城下町に巡らせて、ゆっくりと息を吸い込む。彼の胸が上下する動きを背中で受け止めれば、薄い唇が微かな苦笑を滲ませた。
「器用だな。だが前を向かないと危険だ」
上半身を捻って彼の顔を見上げていたリニーは、ようやく寄越された眼差しに笑顔を返す。
長めの前髪が風にあおられているおかげで、セネトの顔がよく見えるのだ。いっそのこと、後で自分がはさみで髪を切ってあげようかと思うほど、彼の顔は端麗だった。
……いや、リニーはいつも前髪を切りすぎだと故郷の皆に言われるから、やめた方がいいかもしれない。
視界が広くて快適なのに。眉よりも上に切り整えてある前髪をリニーがいじっていると、涼しげな緑が城下町の景色を覆い隠す。
アヒムが水溜まりを突っ切って入ったのは、たくさんの木が集まって出来た樹冠の洞窟だった。
粒だった淡い紫色の花がカーテンのように連なる幻想的な光景に、リニーは口を開けて見入ってしまう。
ここも王宮の敷地内なのかとセネトを振り向いてみれば、花の色で仄かに照らされた横顔が頷く。
「この時期になると花が咲くんだ。……一人になりたいときは、アヒムとよくここに来ていた」
おだやかな風と、ふんわりと甘く漂う香り。ただ息を吸って吐くだけで、体が綺麗さっぱり洗われるような場所。
どこか物憂げな瞳でゆったりと馬を走らせるセネトを見て、リニーは懐から新しい手帳を取り出した。
『リニーも好きです』
ぱっと手帳を見せてから、途端に固まる空気。
そうして互いに何かに気付いては、慌ただしく他所を向く。
じわじわと赤らむ頬を隠しながら、リニーは注釈のようにして一文を書き足した。
『リニーもこの場所好きです』
「この場所」に下線まで引いて強調すれば、あまりの必死さに見かねたセネトが小さく肩を揺らす。
「それはよかった」
ほんのりと耳を赤くして笑うセネトの姿は、直視できないほどに眩しかった。