前を向いて(3)
セネトから新しい手帳を貰った翌朝、リニーが上機嫌に支度を終えたときだった。
「リニー様、おはようございます」
いつものようにアデリナが部屋を訪れた。彼女は王宮に来てから欠かさずリニーの元へ来て、体調を確認したり不便はないかと尋ねたり、いろいろと気遣ってくれる。
厳しい言動や几帳面さの下にある優しさに、今朝も感謝しながらリニーがお辞儀をすると。
「昨日、陛下から伺ったのですが……東の集落からリニー様のお手伝いとして、こちらに人が寄越されるそうです。リニー様はあらかじめ何かお聞きしていますか?」
はて、とリニーは首をかしげた。
神呼びの巫女はリニーの他に三人。彼らは今日も駄々広い神殿の掃除やら、朝昼夕のお祈りやらで忙しくしていることだろう。
更にこの時期は天候が荒れやすい。甚大な被害が出る前にと、集落と繋がりのある国々がこぞって巫女を招待し天災に備える。つまり大忙しだ。
リニーという欠員もあることだし、他の巫女が手伝いに来ることはまず有り得ない。
では誰が来るのかというと──。
(もしや……)
意図せず苦いものを食べてしまったかのような顔で固まるリニーに、アデリナは少しの間を置いてから言葉をかける。
「そちらは後日ご確認いただくとして、リニー様。本日はセネト王子殿下が訓練場へ向かわれますが、ご同行なさいますか?」
訓練場?
何だそれはと呆けた顔をしてしまったが、セネトが以前から剣の達人と呼ばれていたことを思い出しては納得する。
久々に体を動かしてみたくなったのだろうか。何にせよとても良い傾向だ。
ぜひにと片手を挙げて意思表示してみれば、もはやその仕草にも驚かなくなったアデリナが「かしこまりました」と静かに頷いた。
アデリナと一緒に屋内の訓練場へやって来たリニーは、早速聞こえてきた打ち合いの音に爪先立ちになる。
鼠色の煉瓦で統一された広いホールは、深紅の縦長い旗が等間隔に壁を彩っているほかに華美な装飾がなく、代わりに厳つい甲冑が壁穴に佇んでいた。
脇に並んだ訓練用の剣や槍を後目に、二人の男はなおも試合に集中する。
シャツとズボンに最低限の防具を身に付けたセネトは、握った木剣を自在に操りながら相手を追い詰めていく。
対する中年の男も同様の装備だが、その体格はセネトを優に越える。リニーがちょうど三人分ぐらいだろうか。上背があり、腕も足も丸太のように太く逞しい。
そんな彼とセネトがどうして対等に斬り合っているのか不思議でならず、リニーが疑問符を浮かべてしまったとき。
かん、と小気味よい音をたてて、セネトの手から木剣が弾き飛ばされる。
しばしの沈黙を経て、男が快活な笑い声を上げた。
「さすがですな殿下! もっとヘロヘロになられるかと思っておりましたぞ」
「いや……かなり疲れた。すまなかったヘンドリック、早朝から試合など頼んで」
「あーあー謝りますな! 前からもっと我儘を言えと申しておりましたでしょうに、寧ろ今朝は喜び勇んで稽古へ──やや!? 夫人!? 何故このような場所にっ」
ヘンドリックと呼ばれた男が、大袈裟な仕草でアデリナを二度見する。
遅れて振り返ったセネトも、直立不動の乳母とその隣でぴょんぴょん跳ねているリニーを見て、少し驚いたような顔をした。
ヘンドリックは王宮騎士団で副長を務めていて、セネトにとっては剣の師でもある。
アデリナ曰く、歯に衣着せぬ物言いや、親戚感覚でセネトに接する砕けすぎた態度から、他の貴族たちからは少しばかり反感を買いやすいそうな。
だが今の状況に陥ってもなお、セネトがヘンドリックを試合相手に選んだ理由は、剣を通じて培った信頼から来るものなのだろう。
「おやぁ……神呼びの巫女が、こんなにめんこいお嬢さんだったとは! 勝手に賢者様みたいな人を想像しておりましたわ、失敬失敬」
セネトが着替えに行っている間、訓練場にはヘンドリックの快活な笑い声が響いていた。
体だけでなく声までも大きい騎士に、リニーはいそいそと手帳の文字を見せた。
『ヘンドリックさんは見たことがないくらい背が大きいです』
「ほお? そういや東の民はみな小柄と聞きますな。まぁ自分は無駄に図体がデカくて邪魔だと夫人に言われることもしばしば」
彼はアデリナの咳払いを聞いてハッと口を閉ざしたが、すぐに別の話題を思い付いたらしい。大きな背中を丸めては、リニーと目線を合わせる。
「そうだ巫女殿、近くに厩舎がありますぞ。殿下がお戻りになるまで見ていかれますか?」
「ヘンドリック様、おなごを厩舎に連れていくおつもりですか?」
「えっ。いやいや見てくれ、夫人、巫女殿はこんなに目を輝かせているじゃあないか!」
ヘンドリックの言う通り、リニーは厩舎を見に行きたいと手帳に書いている最中だった。
アデリナとばっちり目が合ったところで、そろりと手帳を見せる。貴族の淑女からしてみれば有り得ないことなのかもしれないが……仕方ないとばかりに彼女は了承したのだった。
「殿下にもお伝えしておきますが……リニー様、戻ったら湯あみをなさいますように」
リニーは笑顔で手を挙げて、うきうきと訓練場を後にした。
ヘンドリックと共に厩舎へやって来たリニーは、その立派な騎馬の数々に思わず手を叩いた。
東方に生息する馬よりも一回りほど体が大きく、脚も強靭で長い。
戦場に駆り出せるほどの優秀な馬ばかりだそうで、顔付きも心なしかキリッとしている。
「巫女殿……いやリニー様は乗馬の経験があるんで?」
ヘンドリックが厩舎の奥へと進みながら、にこやかに尋ねる。思い出したように後ろを振り向いてくれたので、大きく頷いておいた。
「へえ! 東の民は老若男女問わず馬を駆るって噂は本当なんだなぁ。自分は昔、片想いしてた婦女子を乗馬に誘って大失敗した苦い経験がね……」
大袈裟な仕草で肩を落としたヘンドリックに並び、リニーは笑いながらも尋ねてみた。
『その人は馬が嫌いだったんですか?』
「そう、そうなんだ。乗馬の『じょ』を口にした時点で凄い顔をされて、ああこりゃ間違えたなと思いましたよ。デートは無難に食事だろうがと同僚に笑われちまいました」
つらつらと語られるヘンドリックの若かりし頃の失敗談は、ある馬の前に来たところで中断される。
ひょいと柵の中を覗き込んでみれば、またしても立派な黒馬がそこにいた。
たてがみも蹄も漆黒に染まった馬は、どこか元気がなさそうに見える。
「殿下の愛馬ですよ。ここ数節、殿下に乗ってもらえないせいか、しゅんとしちまって」
セネトの──それを聞いたリニーはそっと鈴を鳴らした。ふとこちらに頭を向けた黒馬に、にこりと微笑んで。