7-1 *
もしやこれは恋ではないかと気付いてから、四葉には世界がほんの少しだけ明るく見えた。
憂鬱なはずの月曜の朝だというのに、晴れた空が鮮やかに見えて、妙に清々しい気持ちになる。
なるほど、だから人は恋をするのか。
教室に向かう階段を上がっていると、後ろから声をかけられる。
「四葉ー」
振り返ると、制服姿に通学鞄と木刀の入った袋を肩にかけた菖が、階段を上がってくるところ。すぐ隣には陽葵もいた。
「あ、菖くん、陽葵くん。おはよう!」
「ん、おはよ」
「おはようございます、四葉くん」
「菖くん、足はもういいの?」
「ああ、もう問題ない」
追いついた菖と並んで階段を上がる。自分より背の高い、ツリ目で美人な男の子。最初のうちは平凡な自分が隣を歩くのも烏滸がましいと思っていたし、今でもやっぱりドキドキはするけれど、少しでも一緒にいられるのが嬉しい。
「今日の放課後は『仕事』あるから、昼休みは打ち合わせな」
「うん、分かった」
少し話していただけで、あっという間に教室に着いてしまった。菖と陽葵は隣のクラスなので、用がなければ一日顔を合わせないこともある。しかし、『仕事』のある日は昼休みと放課後には会えるのだ。
──寂しいけど、こればっかりはね。
それじゃあ、と教室に入ろうとしたのを、菖の手が伸びてきて、頭をぽんぽんと軽く叩かれる。
えっ、と思っているうちに、菖がふっと柔らかく笑った。
「じゃあ、また昼休みな」
「……あ、うん」
あまりに綺麗な顔で笑うので、うっかり見惚れてしまう。
──平常心、平常心。
そう心の中で呟きながら教室に入ると、近くで見ていたらしい女子たちにぐるりと囲まれた。
「ちょっと四葉、今の何!」
「し、知らないよぉ!」
ものすごい形相の女子たちから逃げるように自分の席に着くと、隣の席のクラスメイトが楽しそうな顔をしている。
「おはよ、四葉。有名人と仲良いと大変だなぁ」
「おはよー。あー、だいぶ慣れたけどね」
菖が何かする度に、どういうことだ、と騒がれてしまうので、さすがの四葉もあしらい方を覚えてしまった。
「まぁでも、女子たちが騒ぐのも仕方ないよなぁ」
「なんで?」
「だって、鳴崎って全然笑わない感じだったじゃん」
「あー……」
確かに言われてみれば、最初に話をした頃は常にムスッとしている感じだったし、あまり感情を表に出さないから女子生徒たちも『氷の王子様』と呼んでいるのである。
しかし今となっては、四葉の中ではだいぶ印象が変わってしまって、氷のような冷たさは微塵も感じない。
「そうだね。でも、菖くんのお手伝いしてる時は、よく笑ったり怒ったりしてるから、元々そうなんだと思うよ」
「へー、そうなんだ」
二人で仕事をしている時の菖は、どこか好戦的で、妙に子どもっぽくて、やはり育ちの良さそうな優美さはあるけれど、学校ではあまり見せない表情で木刀を振るう。
そんな彼から、今はすっかり目が離せないのだ。
放課後になると、菖と四葉は二人で『現場』へと向かう。
今日は街の西側の外れにある、物流倉庫が並ぶエリア。その第四倉庫周辺が問題になっている場所だ。
過去に従業員がここで、落ちてきた積荷に潰されて亡くなる事故があり、それ以降、時々この倉庫内で幽霊が目撃されるようになったという。しかし、最初は時々人影がぼんやりと現れる程度だったのが、ここ最近になってからは荷物の出し入れをするフォークリフトの前に突然出てきたり、近くに駐めておいたトラックのクラクションをひたすら鳴らすなど、妙に活発になってしまったらしい。
「今回は、原因になってるその幽霊を倒しちゃえばいい、のかな?」
「まぁそうだな」
夕焼けにはまだ少し早く、空を水色が支配する時間。
今回は念の為、点検と称して問題の倉庫周辺は出入りを制限してもらっており、人の気配はない。
問題が起きていることもあって、開け放された第四倉庫の中は何もなくガランとしていた。しかし珍しいことに、悪霊のいる場所なら煙のように漂っているはずの黒いモヤがない。
そしてその、実際に事故のあった場所として教えられた倉庫の奥の壁近くに、半透明の人間が立っていた。
「……あっさりいたな」
「ね、びっくりした」
グレーの作業服に身を包み、黒い帽子を深く被った男性の幽霊。
まるで掠れたフィルムで投影されたような半透明の霊は、ただ地面を見つめて立っているだけで、動く様子はない。
「んじゃ、とっとと終わらせるか」
菖が袋から木刀を取り出し、霊に向かって駆け出した途端、男の霊の足元から、つーっと地面に真っ黒な液体のようなものが一気に広がり始める。そしてその水面からボコボコと湧き立つように、あちらこちらから男の姿をした霊体が迫り上がってきた。
「なに!?」
「菖くん、後ろ!」
本体と思われる悪霊の元へ駆け込む菖の後ろにも、真っ白な目を剥いて大口を開ける霊が現れ、両手を上げて迫ってくる。
「……くそっ!」
すぐさま反転し、霊気を込めて光った状態の木刀で薙ぎ払うと、ダミーの霊はあっさり霧散した。どうやら液体から現れた霊体達は、そこまで強いものではないらしい。
しかしそれを合図に、あちこちに湧き出た霊たちがこぞって菖の元へと向かってくる。まるでゾンビのように突進してくる霊たちを菖がひたすら薙ぎ払っていると、地面を這う黒い液体はさらに範囲を広げていき、倉庫の出入り口付近にいた四葉の足元まで来ていた。
「うわぁぁっ!?」
今度は四葉の目の前に白目を剥いた作業服姿の霊が湧き立ち、両手を上げて捕まえようと襲いかかる。
慌てて四葉も叫びながら走って逃げたが、向こうのほうが圧倒的に速い。
「四葉、伏せろ!」
倉庫の中心付近にいた菖が叫び、木刀を大きく振った。すると木刀から紫紺色に光る衝撃波のようなものが飛んできて、言われ通りに伏せた四葉の目前に迫る霊を霧散させる。
「何今の!? すごい!!」
「ああ、新技だ」
得意げに笑いながら、菖は四葉の元まで駆けてきて、周辺に湧く霊たちを衝撃波と木刀で次々に消し飛ばしていった。
しかし、いくら消してもすぐにまた、地面に広がる黒い液体からボコボコと現れてきてキリがない。
「……このままじゃ、埒が明かないな」
「どうするの?」
「こうするまでよ!」
そう言って菖は木刀を黒い液体の広がる地面に突き立てる。そして周辺を『浄化』するため、長い祝詞を詠唱し始めた。
「掛ケマクモ畏キ伊邪那岐大神、筑紫ノ日向ノ橘ノ小戸ノ阿波岐原ニ……」
青白い光が地面に広がっていくにつれて、黒い液体が少しずつ煙のようになって消えていく。液体の中から湧き出していた霊たちはピタリと動きを止め、そのまま一緒に消えてしまった。
倉庫内に満ちていた光が消えると、不幸な事故が起きたその場所に、立ち尽くす霊体がただ一人。
「見つけた!」
菖はすぐさま木刀を持ち直し、相手に向かって駆けていく。『浄化』の影響か、動くそぶりも黒い液体が広がる様子もない。菖は一気に距離をつめ、霊体の額に木刀の先端を突き立てた。
「吐普加身依身多女、祓イ給イ清メ給エ!」
破魔の力を打ち込まれた霊体は、ボコボコと雲のように大きく膨れ上がると、一気に爆発して霧散する。
そしてほぼ同時に、菖も崩れるように地面に膝をついた。
「菖くん!」
四葉は慌てて菖の元へ駆け寄る。菖の顔色が悪い。
新しい霊気を放つような技や、大量に霊力を消費する『浄化』を使ったのだ。かなり霊力を消耗したのだろう。
「『補給』を!」
「……ん、頼む」
壁に寄りかかるように座った菖の側に四葉は膝をつくと、そっと顔を近づけて、唇で唇に触れた。
呼吸を重ねるだけだったはずのキスが、腰を引き寄せられて、抱きしめられて、舌と唾液が絡んでいく。
そのうち唇が離れて、目の前の綺麗なツリ目が熱に潤んだ声で言った。
「……もうちょい欲しい」
「へ、あ、うん……」
菖の顔色自体はもうだいぶ良くなっている。だから本当は不要なのだと思うけれど。
両手で顔を包まれるように掴まれていて、逃げることはできない。
──……気持ちいい。
唾液の混ざる音と心臓の音がうるさかった。顔も熱くて、頭がクラクラする。
これは、自力で霊力を補えない菖のための『補給』作業。なのに、それ以上の意図を勝手に感じてしまう。
ようやく解放されると、甘い視線に見つめられたままで、心臓の音は静かになりそうにない。
不意に菖が四葉に抱きつくように身体をくっつけると、その肩に顔を埋める。
「菖くん?」
「……少し、こうさせて」
「うん……」
肩にすり寄る色素の薄い髪を優しく撫でた。少し甘くて清々しい、あのシャンプーの香りがふわりと漂ってドキリとする。
学校では、一緒にお昼を食べる時に隣にいるくらいで、こんなふうに抱き合うみたいに密着することはない。
──甘えられてる、のかな。
自分も好きな人には触れられたいと思うので、こうしてくっついていられるのはすごく嬉しいと思う。
柔らかい菖の髪を撫でていたら、擦り付けていた頭がまたゆっくり動いて、首の根本から首筋をぬるりとしたものが這った。
「あ、ちょっと!」
「痕はつけねーから安心しろ」
そう言って菖の唇が、首筋や耳の辺りを柔らかく食んでいく。
「……んっ」
四葉は変な声が出そうになるのを、必死に堪えた。
──そのうち、本当に食べられちゃいそう。
もし誰かに食べられるのなら、菖がいいなと四葉はぼんやり考える。
大きく開いた倉庫の出入り口。その向こうから差し込む日差しは、すっかり濃いオレンジ色を帯びていた。
もう、夕焼けが近づいている。
「……そろそろいかねーとな」
日差しの届かない倉庫の奥で、四葉に抱きついていた菖が呟いた。
名残惜しそうに身体を離し、二人はゆっくり立ち上がる。
菖は四葉の頭をぽんぽんと、優しく叩くように撫でた。
「ごちそーさん」
「お、お粗末様です」
四葉はそう答えながら、赤い顔で視線を逸らす。
こちらを見つめる菖の表情が柔らかくて、嬉しかった。
倉庫の責任者に作業が終わったことを報告した後、いつも通りに帰り用のタクシーを呼んだので、到着する道路のほうへ足を向ける。
その途中、とん、と足先が何かを蹴飛ばした。
転がっていったものを視線で追うと、ボールチェーンの切れた猫のマスコット。
「あ、ツリ目猫だ」
四葉は軽く追いかけてそれを拾い上げる。
「ああ、人気のやつだっけ。なんか、よく落ちてんな」
「そうだね。それだけみんな付けてるんだろうねぇ」
拾い上げたマスコットを、四葉はまじまじと見つめた。
ついこの間も落ちているのを拾った気がする。
キッとツリ上がった半月の目に、ヘの字に結んだ口。そしてヒゲが──ない。
「あれ、この子ヒゲがないな」
「無いやつもいんの?」
「どうだったかなぁ。目と口はほとんど同じで、ヒゲで感情表現するってキャラだから、ヒゲないと分かんないはずなんだけど」
「ふーん? なんかレアなやつとか?」
「そうかもね」
倉庫エリアから出たところにあった塀の上に、四葉はそっと置いておいた。落とした誰かが気付いてくれるといいが。
ちょうどそこへ、呼んでおいたタクシーがやってきたので、二人は揃って乗り込んだ。




