4-中編
「ゆい」
病院のエントランスの横に、カフェスペースのようなちょっとしたテーブルと椅子が設置されており、私はそこに座っていた。そこに私の名を呼ぶ聞き慣れた声が聞こえたが、私は顔を上げることができなかった。
「こんなところにいたのか…」
彼は私の向かいに腰を下ろした。
「お袋の発作、治まった」
下を向いている私に彼はそうに言った。私の頭をテーブルごしに自分の胸に引き寄せ、震える私をそっと抱きしめた。鼓動の音が聞こえてくる。早く、激しく打ち付けるその音に、私はますます涙が止まらなかった。
「…驚かせてごめん」
私は首を横に振るのが精一杯だった。
死が間近に迫る恐怖を、私は甘く見ていた。いつ命を落とすのかと、本人が一番怖いはずなのに、衝撃の余波で私が恐怖を感じていた。その恐怖を抱えながら、私たちは病院を後にしたのだ。
記憶が、曖昧だった。どんな会話をしていたかなど、まるで覚えていなかった。ただ、今は道を歩いている。繋がれた手の温度も解らないまま、ただ私は歩いていた。まだまだ明るい昼下がり。私たちはどこに向かっているかもわからずにとにかく歩いていた。
「…ゆい」
隣に並んで歩いている彼が私の名を呼ぶ。しかし顔もあげられず、私は返事もできなかった。
「あれが現実…なんだ」
浮かれている場合ではない。自分を心底恥ずかしいと思っていた。
「…お袋は、時々ああやって発作を起こすんだ。あれが起きる度に寿命は縮んでいく。主治医の先生がそう言ってたんだ」
そう口にしながら、彼は私の手を握る自分の手にギュッと力を込めたのだった。
「だから」
「あのさ」
私は彼の言葉を遮るように切り出した。
「…正直、ビックリした」
正直な所感だった。彼は、「うん…」とうなずき、私の言葉の続きを待つ。
「あんな場面を見せられたから、もう思い切って聞いちゃうんだけど」
私は、彼の顔を真剣な目で見つめた。
「私じゃないといけない理由って何? 私は誰かの替わりなの?」
私の質問に、彼は戸惑いを隠せずに私の顔を見つめ返していた。
「…きっと全て終わったら、私たちは何事もなかったように別れるんでしょう」
核心に触れる前に、私は小さく深呼吸をした。
「私は、先生が考えている通りチョロいから、本気にしないようにしようと思っても、できなかった。私に向けられる言葉の全てが、私を言うことを聞かせるための餌だってわかってるのにね。だけど、これ以上、先生が好きでもない私に彼女の扱いさせるのも、もう限界というか…」
「お前が望んだんだろ」
真顔でそう答える彼だったが、私は目を伏せてしまった。
「…確かに対価として私が望んだ。だけど、もうその対価はしっかり受け取ったので、もう彼女扱いなんてしなくていい」
こんな形で自分の気持ちを伝えてしまうとは、我ながら正直すぎるバカだ。しかし、期待してしまうことに恐怖を覚えてしまった。このまま小夜子のために自分の気持ちを誤魔化したままこの人の隣にいたら、すべてが終わった時、誰が私を慰めてくれるのだろう。
「私がここにいなければならない理由がわかれば、自分の気持ちをもう少しコントロールできると思うから、教えて?」
その役者は、私でないといけなかったのだろうか。彼の言葉を遮ってまで自分の気持ちを伝えたことが正しいかったのかわからなかった。きっと彼は、大事な話をしようとしていたのかもしれない。でも、自分がここにいる本当の理由がわからない今、私にそれを素直に理解できる頭などなかった。
私には、あの命に対する覚悟がなかった。それは、安請け合いしてしまった自分への後悔。それは、人の命を軽く考えていた後悔。
もちろん軽く考えていたわけではないけど、自分がそうすることで喜んでもらえるなら、と簡単に考えていた後悔の念に、押し潰されそうだった。私は鉄の心の持ち主ではない。私が適役だと思ったなら、それは間違いなく大きな誤りだ。
「俺は、お前を泣かせるつもりなんてないけど…」
「え…」
真っすぐな目で私の瞳をじっと捉えてながら、彼はいつになく真面目な口調でそう口にする。
「お前が対価を求めるなら、それでもいいかって思っただけで」
「え…?」
「大事な彼女だと思ってるよ」
「は…?」
恥じることなく、さらりとそう口にしてしまう。
しかし、私はますます不安げに眉を寄せてしまう。
(そんなはずない。その理由がわからないから、悩んでるのに…)
「…どうしたら伝わるんだろうな?」
彼はそう呟き、私の目をじっと見つめた後、顎を親指と人差し指ですくうと、私の唇に自分の唇を重ねたのだ。外にいるのに、そんなことも構わず、角度を変えながら私の唇を食むように口付ける。そのキスが深くなるにつれて、私はそれが苦しくて、顔を歪めて顔を背けてしまった。
彼はそんな私を見て、少しだけ目を見開いた後、言葉を探しているようだったが、何も言わなかった。
「今日はもう帰る…」
つないだ手は簡単に離れてしまう。私たちは、そういう関係だ。どんなに触れ合っていても、嘘で成り立っている私たちには意味がない。私は走り出していた。少しでも気持ちを落ち着かせるように。早くひとりになりたかった。ポツンとそこに佇んでいる彼を残して。
何もかもやる気が起きず、すべてから逃げたかった。何も考えたくない。あの日を境に、彼との接点が途切れてしまった。部屋を訪ねようととても思えず、真っ直ぐ家に帰ってきてしまうのだ。彼からの連絡も特にない。
あの人ははっきりと言った。私を泣かせるつもりはない、と。それはつまり、期待してもいいということ…?
…じゃぁ、せめて私を好きだという理由が知りたい…。
もし、本当にお互いが好きなら、私は逃げる必要はないの…?
しかし、あんな態度を取ってしまった私を、もう必要ではなくなったのかもしれない。もともと嘘から始まった恋だ。何を言われても心から信じられない気持ちが消えないのは確かだった。せっかく言うことを聞きそうだったのに、期待外れだった、と思われたかもしれない。
(あんなに優しく微笑みかけてくれたのに…)
小夜子の薔薇の花のような優しい笑みは、私の心に走った痛みで半分に切れ裂かれてしまった。
これ以上、嘘の上塗りをしたくなくて、本当に好きになってしまえばいいんだと思っていた私のほうが子どもで、好きでもないのに好きだと言えるあの人がオトナだったというだけの話なのだろうか。
学校で見かけても、何事もなかったような顔をして先生業をこなしているように見える。嘘だと思った。私を見ても何も表情は変わらず、完全に、学校で見かけるいつもの彼だ。
あの人がフォローしてくれるような素振りはなく、何日も過ぎて行った。
これでハッキリしたじゃない。はやり私なんて、あの人の特別でもなんでもない。単純そうで、 言うことを聞きそうな子を選んだだけだっていうことが…
ならば、私を選んだことを後悔すればいい。