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バスの恋人  作者: 夜月暁
第三章
5/25

3-前編

「ねぇ、昨日はお腹大丈夫だった?」

 席に座っていると、真美が前の席に後ろ向きに座り、机を見つめていた私の顔を覗き込んできたのだ。

「わっ、びっくりした」

 思わず椅子が後ろに倒れそうになりながら、大きく驚いてしまった私に「驚き過ぎでしょ」と彼女は苦笑いを浮かべていた。

「昨日から、変」

 彼女の問いに、私はハッと思い出した。

 昨日、バスを降りてからあんなことになって、家でぼーっとしていて、真美に連絡するのをすっかり忘れていたのだ。夜も眠れずにいたもんだから、当然翌朝は寝坊し、いつもの電車に乗れなかったため、私は朝のHRギリギリに学校に着いたのだ。そのままろくに話もせずに授業開始。授業と授業の間の休み時間は移動やらなにやらで話す時間などなく、ついには昼休みになってしまったのだ。

「うん。昨日はごめん…」

 煮え切らない私に、真美はニヤーっと目を三角にして静かに笑っていた。


「ゆい、好きな人でもできた?」

 お弁当を広げながら真美が不意にそう口にした。

「…へ?」

 私は彼女の突然の発言に驚き、掴みかけていた弁当を落としそうになった。

「さっきからずっとぼーっとしてるじゃない」

「違うよ、全然違う」

 激しく首を横に振って否定するその様を見ていた真美の目がキラーンと鋭く光った。

「怪しいなー?」

「怪しくありません」

 真美の好奇心を抑えられない興味津々な視線から逃れるように、私は体を引いて横を向いた。

「あんなに楽しみにしていたエアロを蹴ってまで、何をしていたんだか」

「…」

 私はまた背中を丸めて俯いた。


「先生となんかあったんじゃないの?」

 わざわざ真美を使って鍵なんて渡すから、勘繰られるのは当然だ。

「真美にはちゃんと言うよ。そういうことがあったらさ…」

 お弁当のナフキンを広げながら私はポツリと漏らした。

「まだ、言えないんだ? 協力してあげるのに」

 紙パックのりんごジュースのストローをくわえたまま、彼女はいたずらに私の顔を覗き込んだ。

「…これ、多分本当の恋じゃないから」

 堂々と『恋をしています。』とは、言えない。期限付きの恋人ごっこなのだから。あの人のそばを離れている時は、ちゃんと冷静になって考えられる。

 それなのに、昨日、膝の上で抱きしめられたことを思い出すと、腕や肩に残る重みと体温と匂いが、私の心を惑わしていくのだ。恋じゃないのに、恋のような感覚…。退屈だった私の日常に、色づき始めていた。




 表面的な恋人ではバレてしまうから、と彼は改めてこの部屋の鍵を私に託した。私を彼女として扱う約束をしたんだから、ということらしい。だから私は、だいたい学校帰りにあの鍵を使って彼の部屋で彼の帰りを待っていた。ゲームもないような部屋で彼が帰ってくるまで時間をつぶすのは結構大変だった。でも、それも今まで体験したことのない時間が、私の好奇心を刺激するのだ。

 それにしてもやることがなさ過ぎる。仕方ないので出された英語の課題をやりながら、のんびりと待っていたが、苦手の英語は退屈であくびが止まらない。うーんと大きな伸びをして、私はそのまま後ろに倒れかかろうとすると、まだ片付いていないダンボールが私の腕を遮った。

(…邪魔だなぁ)

 まだガムテープも開けていないその箱を、私は窓辺まで押しやった。その時、私は気付いたのだ。上面の角に小さくマジックで印がつけられていた。最初に訪れたときよりもあらかた片付けられた部屋だったが、その箱は置き去りにされたようにそのままの状態で置かれていた。間違えて開けないように他と区別してあるようだった。

(…もしかして、なんか訳アリ?)

 なんて勘ぐっていると、急に玄関のドアノブが回る。


「あ」

 冷えた手のひらを息で温めながら部屋に帰ってきた彼を見て、私はついそう口にした。

「あ、ってなんだよ」

 私のあっさりした反応を目の当たりにした彼は苦笑いでテーブルの上を覗き込んだ。

「宿題か。えらいな」

 テーブルの上に広がっている英語のプリントに目をやりながらコートを脱ぐ。

「自分が授業で出したんでしょうが」

「ま、そうだけど」

 ははは、と笑いながら彼は私の向かい側に腰を下ろした。

「3時間も時間つぶすの大変だよ。もぉー」

 両手を頭の後ろに回し、グーッと胸を広げて伸びをした。

「解らないなら質問してもいいぞ」

「いや、べつに…」

「質問、どーぞ」

 ニコニコーっと笑いながら彼は私の前に腰を下ろした。

 …質問しろってこと?

 私は小さくため息をついてから、質問する問題を決めた。

「あー…、じゃぁね、この訳が辞書引いてもよくわからなくて…」

 彼は私が指をさしたその問題に顔を近づけて読み始めた。その迫る横顔に嫌でもドキッとしてしまう。

 細身に見えるけど肩や首周りの骨格は思ったほどガッチリしていて、近くで見るとますます本物の男性というか…。世の中には男と女しかいないのに、まるで知らなかったことだった。触ったらなんかごつごつ硬そうだな。それにしても首筋になにもなくて、綺麗…。…耳、柔らかそう。案外睫毛が長いんだな…


(こういうシチュエーションって…)

 本当の恋人だったらキスしちゃうのかな…

 その時、一瞬だけ彼とキスしたときのことが頭によぎったのだ。

「…何、キスしたいの?」

 間近に迫る瞳がじっとこちらを見つめている。

「ち、ちがうよ」

 手のひらを激しく振って私は必死に否定する。しかしその瞬間、顔の前で遮っていた私の手を押し退けたあと、彼は私の唇に軽いキスをしたのだ。そしていたずらな笑顔でどや顔している。なんかむかつく。

「だから、心の声、駄々漏れ」

「違うのに…」

 両手で赤くなった顔を隠そうとする私を制止し、彼は私のサイドの髪に自分の指に絡ませていた。

 その涼やかに澄んだ瞳が笑うと、私の全てを見透かされているような気になり、途端に恥ずかしくなるのだ。

 だから、そういうのは反則なんだってば…!


「…続き、どうする?」

 意地悪な目でこちらを見る彼の視線が私を金縛りにする。そんな私の頭を大きな手でポンっと優しく触れたのだ。

「問題の続きだよ。…もう7時になるからな」

 一瞬でも変なことを考えてしまった私を見て、彼はやはり意地悪く笑っていた。

「ゆいちゃん、可愛いー」

(うっ、バカにされてる…)

 私が男に免疫ないってわかってやってるんだろうか…。私は、口を真一文字にさせて勉強道具をカバンにしまい、帰り支度をはじめた。すると、彼は棚に上に置いてあったコンビニのビニール袋を手に取り、袋から中身を取り出して、私の胸の前に差し出したのだ。

「ほれ、頑張ったご褒美」

 私の両手に落ちてきたのは、ポケットサイズの箱入りのチョコレートだった。

「こういうの好きでしょ、女の子は」

 気を取り直し、私はうなずいた。

「ふーん。なかなか気が利きますなぁ」

 おどけながら外側のビニールをぺりぺりとはがして、早速開封した。小さな箱からひとつ取り出して、包み紙をはがし、パクっと口に入れる。


「うまい?」

 彼は、私の唇を指でなぞりながら聞いてくる。その指の動きに、ぞくっとした。悪寒が走ったわけではなく、私の目には彼の表情が妖艶に映っていたのだ。私の視線は奪われた。

 彼は、口の中のチョコレートが溶けきらないうちに、もう一度私にキスをしたのだ。

(え…?)

 今度のは、さっきみたいな軽いキスではなかった。唇を割って濡れた舌が入り込んでくると、全く知らない感覚に翻弄される。私は思わず、彼の胸に当てていた手でシャツを握りしめていた。

 そのキスは、思わず呼吸を忘れてしまいそうになるほどの…、まるで麻酔を打たれたかのように体がしびれ、時の感覚さえも麻痺してしまうほどだった。抵抗もできないほど手に力が入らない。頭の中は目を開けていられないくらい眩しくて、真っ白だった。

「あはは。茶色いよだれ」

 唇が離れてから、私の顔を見て彼が笑って口の側についたよだれを指で拭った。

 キスをしても、平然としているオトナが目の前にいる。私はそんなキスひとつで動揺してしまうのに…




(あんな風に、キスするんだ…)

 私は思わず自分の唇に触れていた。チョコを口に含んでいた時にしたキスは、甘くとろけるような感触だった。耐性のない私には、刺激が強すぎる…。キスした唇の感覚は、忘れたくても無理だった。

 途中まで送ると言ってくれたその申し出を断り、冷静になりたくて、帰り道に一人で歩いていた。

 本気で好きじゃなくても、あんな風にできちゃうのかな?

(あぁ…)

 私はすぐにその疑問を打ち消した。

(私が自分で、彼女扱いしろって言ったんだっけ。じゃなきゃ…)

 そうだ。彼はオトナだ。私のことを気になる、なんて自分の思い通りにことを進めるための方便に決まってる。だから特別な意味なんてきっとないはずだ…

 むしろ私が初めてだから、意味付けようと必死にいろいろ考えている…

 何で、私?

 結局、その疑問に辿りついてしまうのだ。それを考え出したらキリがないことも知っている。なのに、触れられることを思い出すだけで、顔が火照ってしまう。これは、好きになるな、と言われる方が無理かもしれない。私だって、好きじゃない人とキスなんかしたくない。

(嫌じゃなかった…)

 今回も、前回もキスされるのも、抱きしめられるのも嫌じゃなかった。

 順番が違うのに、おかしい…

 私のほうがバカなのかもしれない。言うことを言わせるための方便のはずの言葉を信じてしまいそうになる。それを意味するのは…




 学校の帰り道、バスに乗っていたら病院入り口のバス停を通り過ぎた。

 5階のに彼のお母さんの病室がある。

 初めて会った日。あんな不自然な私たちだったのに、楽しそうに笑いながら約30分の面会時間を過ごしていたのだ。

 時折、さびしそうな笑顔を見せる彼女が弱々しく映り、病に蝕まれているのだと感じることはできた。だから、嘘なんかで人は本当に幸せを感じることができるのか、疑問はいつまでも私の頭の中を巡っていた。

 では、どうしたら幸せな気持ちになってもらえるのか。学校の行き帰りにどうしても病院の前をバスが通るたび、私は考えていた。

 お互いが本当に好きだったら、嘘は真になれるのに。

(でも人間そんなに簡単にはいかないよね…)

 平然と嘘をつく彼。そのときの顔は、学校で人だかりの中心にいるときと同じ顔だった。あれは、本当の彼じゃない。だから好きになれなかったんだ。

 じゃぁ、何が本当の彼なの? 私とふたりでいるときは? キスしてるときは…?




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