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バスの恋人  作者: 夜月暁
第11章
24/25

11-後編

 真美と別れた後、彼女からもらったお土産を持ったまま、私は彼のアパートに到着した。時間は、午後5時過ぎだ。躊躇なく、私は鍵を開けて中に入る。ところが真っ暗な玄関は、あの時の記憶が蘇り、苦しくなった。すぐに部屋の電気を付けて視界を明るくすると、小さくため息を吐いて安堵する。誰もいない部屋。いつもの通りエアコンをつけて部屋を温めるところから始めると、私は落ち着いて床に座った。しかし、喉が乾いてしまったため、立ち上がりキッチンの戸棚からいつも自分に出してくれる白いカップを取り出そうとしたのだが…

 ガシャン!

 手が滑ってしまい、シンクの中にカップを落としてしまったのだ。

「あ…」

 カップを拾い上げたとき、取っ手が割れて取れてしまったことに気が付いたのだ。

(…やってしまった)

 玄関脇に積んである古新聞の束から新聞紙を抜き出し、数枚を調理台の上に敷いた。そして、割れたコップの破片を拾い上げようした時、指先に鋭い痛みが走り、思わず顔を歪めた。どうやら、指を切ってしまったようだ。切れた傷から真っ赤な鮮血が滲み、真っ白いカップの上に点々と垂れて赤く染まっていく。焦っていてアドレナリンが出ているのか、痛みは感じない。しかし、その赤い点々と垂れる血を見ていると、嫌な予感がしていた。もう一度、時間を確認する。まだ5時半過ぎだ。急げば、6時までの面会時間に間に合うかもしれない。私は、自分のバッグからポーチを取り出し、絆創膏を指に貼り付けて止血だけすると、部屋を飛び出した。

 一人で病院にやってくるのは初めてだったが、面会の手続きは彼がしていたのを横で見ていたので、覚えてしまった。息を整えながら用紙に自分の名前を記入して、2階へと上がる。例の長い渡り廊下を早足で歩き、ICUへと向かった。そして、あのインターホン前まで辿り着いた。ひと息ついてから、恐る恐る人差し指でボタンを押した。すると、スピーカーから慌ただしい中の動きが微かに聞こえてくるのだ。

 今、部屋の中は大変なことになっているのかもしれない。それが、誰の命なのかはわからないが、小夜子でないことを祈りたい…

『はい、どなたですか』

「花村です。加藤小夜子さんのお見舞いに来たんですが」

『おひとりですか』

「はい」

 私がそう答えると、一瞬の沈黙が走る。数秒だったと思うが、長い時間に感じてしまった。

『…今、処置中です。落ち着くまでお待ちください』

「え…」

『加藤さんの息子さんに連絡取れますか?』

 私の胸の鼓動が跳ねた。もしかして、もしかして…?

「職場にいると思いますので…」

『では、お願いします』

 中の看護師がそう告げると、通信は切れてしまった。

「あ…っ」

 私は眉をひそめながら、ドアの前に立ち尽くしていたが、すぐに我に返った。

(メール、しないと…)

 緊急そうだったが、電話をかけることを躊躇われたためメールを送ったが、すぐに既読になるわけがない。もし、スマホをデスクに置いたまま私が電話してしまって、着信を誰か他の先生に見られてしまったら、言い訳ができなくなってしまう。

(どうしよう…)

 目を閉じて、逸る気持ちを抑えながら考える。焦りながらも向かいの待合室の携帯電話使用可能エリアに入った。一人用の背もたれのないソファに腰を下ろして考える。

(あ…)

 私は、咄嗟に舞の電話番号にかけていた。

(お願い、出て…)

 仕事中であろうと思うものの、長いコール音の後、「はい、石原です」とビジネス口調で電話に出てくれたのは、間違いなく舞だった。

「舞さん、近くに彼はいますか」

『どうしたの、ちょっと待ってね』

 席を外してくれたのか、職員室の引き戸を動かす音がしたあと、廊下をパタパタと小走りで移動する音が聞こえてきた。

『ごめんね、職員室の外に出た。何かあった?』

「小夜子さんが危篤のようなんです。彼がまだ学校にいるようだったら、すぐに伝えてもらえますか」

『ゆいちゃんはどこにいるの』

「病院です。看護師さんに連絡してください、って言われて…」

 その時、私の頬に涙が流れ落ちたことに気が付いた。

『わかった。多分まだ退勤していないと思うから、探してみるね。…あと、あたしも話したいことがあって』

 私はずるい。自分から時間が必要だと言いながら、こんなふうに舞を利用していることに。絶対に断らないことを知ったうえで、舞に連絡をしているのだから。

「…解っています。今度、会いましょう。とにかく」

『うん、わかった』

 舞はそう告げて、電話を切った。

 昨日は落ち着いた後だったから、話ができた。しかし、今日はまだあの扉は閉ざされたままだ。きっと私が”婚約者”だとしても、私だけではあの中へは入れない。今日が最期の日だったとしたら、彼が入らなくては…

 彼へのメールが既読にならないまま、面会時間の6時を過ぎた。部屋の中からはなにも返事がない。まだ、処置に時間がかかっているのだろうか。メールをしてから10分くらいしか経っていないのに物凄い長い時間に感じていた。

 どうして、既読にならないの…。舞はちゃんと伝えてくれたのだろうか。薄暗いICUの待合室にひとり、心細さを感じながらベンチに座っていた。

 6時半ごろ、静かなフロアに靴の足音が微かに聞こえてくるのに気付き、私は顔を上げた。

「ゆい…」

 薄暗い待合室の入り口から声をかけたのは、息を弾ませた正也だった。

「あ…、来た…」

 私は立ち上がり、彼のそばに駆け寄った。

「どうしてゆいが…?」

「それよりも、インターホン」

 嫌な予感がした、だなんて言って通じるのか。それよりも、看護師さんに彼が来たことを伝えないといけない。私は、病院に着いたことを伝えるために、インターホンのボタンを押すことを促した。彼は黙ってうなずくと、躊躇なくボタンを押した。

「すみません、加藤です、遅くなりました」

『加藤さん、医師から説明があります。お入りください』

 インターホン越しに看護師からそう告げられ、彼はドアノブを握った。しかし、少しだけ身体を私の方に傾け、「ちょっと行ってくる」と言い残してドアの向こうへと入っていった。その寂しそうな面持ちは、私の心に刻まれた。そしてあの背中は、泣いているように見えた。小夜子を繋ぎとめておける何かがないのだろうか。彼が最後の肉親を失おうとしているとき、再びICUへの扉の前に人が訪れたのだ。

 待合室からその様子を見ていると、片手にコートを抱え、先のとがった革靴を鳴らしながら高級なスーツに身を包んだ男性が、ICUのドアの前に立ち止まり、インターホンを押そうとしている。

(もう面会時間は終わっているのに…)

 その男性の後ろ姿に、私は既視感を覚えた。

(え…?)

 白髪交じりの初老の男性だ。その男性がインターホン越しに話している。すると、その扉は開かれた。男性が中に入ろうとすると、彼がその男性の姿を見て驚いていた。しかしそれも束の間、彼が入り口から私に手招きをしたのだ。私は自分の荷物を持ってドアをくぐると、先に入った男性も彼の隣に立っていた。

(…似てる)

「行こう」

 彼のその声で、私たちは小夜子のベッドに向かった。もうすでにカーテンが開けられており、小夜子は相変わらずたくさんのチューブに繋がっていた。目を閉じて眠っているのかと思ったが、看護師の話によると昏睡状態に陥っているとのことだった。

 起きるかもしれないが、このまま逝ってしまうかもしれない。そういう状況だと、看護師から簡単に説明を受けると、彼は男性に小夜子から一番近い場所を譲った。

「親父、多分もう最期だろうから」

 その口調に決して優しさなどこもっていなかった。しかし、幸せだった家族のことを思い出して、嬉しそうな顔をしていた時の小夜子の顔を思い出し、私は泣きそうになった。

「あぁ…」

 そう口にしながら、彼の本当の父親は一歩前に出て、小夜子の顔を覗き込んでいる。

 呼ぶつもりはないと言っていたのに、結局は連絡したんだと心の中で私は呟いた。男性は、目を閉じて眠る彼女を見つめたまま言葉はなにも発しなかった。もし、小夜子が起きてたら、どんな反応をしただろうか。私には全く解らなかった。それでも、別れた奥さんの最期に会いに来てくれるだけ、冷たい人なのではないのかもしれないと、私は思った。

 男性は、掛け布団から出ている小夜子の小さくなった手を握った。男性の手の甲にも同じくらいのしわがいくつもできている。そんな手で小夜子の手を包むように握っている。まるで、肌の温かさを確かめるように。

 奇跡はそう簡単に起こることではない。しかし、私は願ってしまった。小夜子が目を開けて、目の前にいる人が誰なのかを認識してほしいと…

 その時だ。小夜子の瞼が微かに動き、私は目を丸くした。握っている手に気付いたのか、その手の温かさに懐かしさを感じたのか。見つめる優しい視線に気が付いたのか。どれが小夜子をそうさせたのか誰にも説明などできないが、彼女の命は弱々しくとも、まだ消えていない。薄く開いたその目に、かつて愛したその男性を見ることができるのだろうか。

「…苦労をかけてすまなかった」

 男性がそれだけ伝えると、小夜子はうなずくかわりに微笑み返した気がした。それを見た男性は、小夜子の手をそっと離し、部屋から出て行こうとした。

「親父。待って」

 彼の言葉に足を止め、男性は振り返る。

「もう会うことはないと思うけど、元気で。俺もいずれこいつをもらって普通の家庭を築きたいって思ってるから」

 彼はそう言って、私の肩を抱き寄せた。

 驚いていた男性だったが、次第に目じりが下がりうなずいた。そして、病室を去っていったのだった。

 小夜子は、また目を閉じていた。目じりには一滴の涙が流れている。今の彼の言葉もちゃんと聞こえただろうか。私にはまだそんな度胸も勇気もないが、いずれこの人の隣に立っても恥ずかしくない女性になりたいと心から思う。だから、その入り口に立てるように、自分を磨きたい。小夜子にそんな思いが伝わったらいいな、と私は願っていた。

 私は、ひとりで帰路についた。彼はこのまま病院に残って様子を見る。後ろ髪引かれながら、病院を去った私だったが、小夜子が亡くなったと聞いたのは、それから5時間後のことだった。彼からメールが届いたのだ。亡くなった後、控えていた葬儀屋と葬式の打ち合わせをするため、帰るのはもう少し遅くなりそうだ、と。

 私は、起きてるから帰る時には連絡が欲しい、とお願いした。そして、彼から連絡が来たのは、夜中の2時を回っていた。もちろん、私も眠れるはずがなく、彼からの電話に出ることができた。

「最期、眠るように穏やかに息を引き取ったから、苦しくなかったと思う」

 そんなふうに語った彼の声は、すっきりとしていた。病の苦しさから解放された小夜子の顔はきっと美しかったに違いない。

『葬式は家族葬にしようと思ってて。本人の生前の希望だから』

「…そう」

『ゆいも来てくれるかな』

 衣擦れの音が止み、彼が立ち止まったのだろうと思った。

「もちろん」

『ありがとう』

 ふっと彼の笑顔を見た気がした。窓辺に立ち、少しだけカーテンを開けて、漆黒の空を見上げてみる。すると、そこには大きな銀色の月が静かに光を放ちながら浮かんでいた。

『今日は、月が綺麗だよ』

「そうだね…」

 同じ月を見ながら、私はふたりが同じ空の下にいることを実感していた。どんなに哀しくても、どんなに寂しくても、同じ空で繋がっていることを…

『今日、お前が病院に行ってくれたから、親父ににも連絡できて、本当に助かった』

「予感がしたの。今日、あなたの家のカップを割ってしまって。なんかソワソワして、指を切ってしまって、白いカップが赤くなるのを見て、物凄く不安になって…」

 私はそう口にしてから、彼の家のシンクの調理台に割れたカップを置いたことを説明した。そして、「ごめんなさい」と謝った。

『怪我しちゃったんだな。大丈夫?』

「うん」

『舞に連絡してくれてよかったよ。英語科の先生とちょっと教材の整理してて職員室にいなかったから。勇気いただろ』

「そんなことない。…緊急だったし、私からの頼み事を断るような不誠実なことはしないって思ったから利用したの。そんなキレイなものじゃない」

『利用って…』

 意外だったのか、びっくりしている。それでも、私は続けた。

「私も守られているだけじゃない。ずるいこともするし、強くありたいって思ってるもの」

『…なるほど』

「でも」

 私はひとつため息を漏らす。

「なるべく早く、舞さんの話を聞こうと思う」

 自分の都合で舞を遠ざけていたのだ。今日、彼女を利用したなら、私も誠意を見せなければいけない。

『…そうしてやって』

 また、いつもの優しい口調で彼はそう言った。

「…がっかりした?」

 そんなことを口にしながら、私は今日、彼の父親に向かって言っていたことを思い出していた。

『俺もいずれこいつをもらって普通の家庭を築きたいって思ってるから』

 そう言って、彼は私の肩を抱いた。きっと、少しの対抗心が”普通に幸せになる”ことを宣言させたのだろう。それは彼の意地だったのかもしれないが、将来を考えるきっかけになったことには違いなかった。きっと私も成長しなければいけない。優しいだけでは守れない。守るためには、強くならいといけないんだって思えるから。

『いや。たくましいなって』

 笑いながら彼がそう口にすると、私も一緒になって笑った。

 そして、私たちは眠った。哀しさも寂しさも半分にして、今は小夜子が安心して天から見守れるように。そして、小夜子が一番会いたかった真理に無事に会えたことを願って、私たちは眠ったのだ。


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