10-後編
シャワーを浴びて、服を着替え、冷蔵庫に入っている昨日の夕飯をレンジで温めてダイニングテーブルで食べていた。あんなに寂しさで凍えていたのに、今は物凄く満たされている。心躍る気分で食べ終わったお皿を洗っていると、玄関が開く音がした。
「ただいま」
父と母がどやどやとリビングに入ってくると、心穏やかな笑みを浮かべてキッチンから「おかえり」と口にして両親を迎え入れた。
楽しそうに戻ってきた両親の帰宅に少し安心していると、自分の携帯が鳴っていることに気付いたのだ。リビングを出て、確認すると、着信は彼からだった。
「もしもし」
『ごめん、病院から緊急で連絡があって、今から病院に向かう』
「え?!」
私の足も自然と早くなる。
『ちょうどバスが来る。先に行ってる』
「わかった。このまま真っすぐ病院に向かうね」
そう告げて、私は再び出かけるために、コートを着て家を飛び出した。
私は病院の方に向かって、玄関から走り出した。たぶん、彼が乗ろうとしたバスにはタッチの差で間に合わない。バス停に向かわず、そのまま走ったほうが早い。
スニーカーを選んで正解だった。何も気にせずに走ることができる。運動神経なんて良くないが、それが最善なら仕方がない。私は休日の穏やかな午後に、ひとりひとり歩いている人を追い抜きながら病院まで走り続けたのだった。
肩で息をしながら病院の入り口までたどり着くと、先に着いていた彼が出迎えてくれた。
「走ってきたのか」
驚いて私に駆け寄る彼に、私はうなづいた。そして私の手を引きながら面会受付に向かう。小夜子は先ほど発作を起こし、一般病棟からICUに移動したということと、病棟の場所の説明を受けていた。
「すみません、ありがとうございます」
受付の人に頭を下げ、私たちは速足で目的地へと向かう。階段で2階に上がり、建物を突き当りまで行くと、隣の棟に続く渡り廊下に出る。その長い廊下を渡り切ったところを右に曲がると正面に『ICU』と書かれた白いプレートが見えた。ドアの横にインターホンがある。
「これを押してください、って言ってたな…」
私はうなずいた。すると、彼はインターホンのボタンを押した。しばらく無反応だったが応答があり、彼は名乗った。するとドアが開き、中から女性の看護師が出てきた。
「ご家族だけお入りいただけます」
そう告げる看護師に、私は思わず彼の顔を見た。
「彼女は私の婚約者なので」
彼がそう伝えると、看護師は「どうぞ」と言って私も中に招き入れてくれた。
「急に意識レベルが下がったので、集中治療室に移り、お電話しました」
中に入ると、大きな部屋であったが、いくつものカーテンに仕切られていた。おそらく、カーテンの向こうにベッドが並んでいるのだろうと想像できる。今は割と静かだが、何かがあるたびに騒々しく、また物々しく人が動くのだろう。
立ち止った看護師がカーテンをサーっと引き、中に入っていく。ベッドにはたくさんのチューブを装着した小夜子が眠っていた。
「小夜子さん」
看護師は、小夜子の肩を揺すって起こしている。今は呼吸も安定しており、落ち着いているらしい。
「小夜子さん、息子さんが来ましたよ」
看護師は、何度か小夜子に声をかけると、小夜子の瞼がゆっくりと開いたのだ。
「…まさ、や」
彼女の目に映った彼は、ベッドサイドに移動して、弱り切った母の手を握った。
ついこの間会ったとき、嬉しそうに彼のことを別れた夫と混同して名前を呼びながら幸せそうな笑顔を浮かべていたというのに、こんなにも早く病気が彼女の自由な時間を奪うとは思ってもみなかった。人がこんなに弱い生き物だったと目の当たりにし、私はベッドの端に動けないままだった。
「ゆいさんも…来ているの…?」
「いるよ。…ゆい」
彼に呼ばれ、ハッとする。私はパタパタっと駆け寄り、薄く微笑む小夜子の顔を覗き込んだ。
しかし、私の口からは言葉が出てこなかった。どんな言葉をかけたらいいのか解らないとか、そういう次元の話なのではなく、とにかく小夜子を見つめるだけしかできなかったのだ。
「…昨日…真理ちゃんが…会いに来てくれて」
嬉しそうに語る小夜子の目には、涙が溢れている。
「姉ちゃんが?」
彼が聞き返すと、小夜子はゆっくりとうなずいた。彼と私は眉をひそめながら顔を見合わせた。しかし、彼は寂しそうな笑みを浮かべて小夜子の手を握り返していた。
「…姉ちゃん、なんか言ってた?」
彼がそう聞き返すと、小夜子は首をゆっくりと横に振った。
「なんか言ってたけど…聞こえなくて…でも…」
「ん?」
彼が聞き返すと、彼女は目を三日月の様に細めて笑っていた。
「会えて…嬉しかった…」
小夜子の目尻から流れ落ちる涙がいろんな色に見えて、苦しくなるのは何故だろうか。それを見て自分が泣くべきではないのに、どうしても涙を零してしまう。そんな私を見て、小夜子さんが反対の手を私へと伸ばしてくれる。彼が、握っている手をそっと放し、私の手を取って、小夜子の手を繋いでくれた。
「…よかった」
「え?」
私はそう口にする彼女の顔を見つめてその真意に注目する。
「正也は…、クリスマスになると…いろいろ思い出してしまうから…」
私はこくこくと縦にうなずいた。
「でも、あなたなら、きっと…大丈夫ね…」
ふふふと笑いながら、呼吸を整えるように大きく息を吐いている小夜子は、少し疲れたのか目を閉じた。彼女の言葉に、ドキンと鼓動が動く音がした。それが強くて痛くて、驚いた。思わず彼の顔を見ると、大事なものを見るような笑みを浮かべている。私は穏やかに目を閉じる彼女に、うなずきながら小さな声で「はい」と返事すると、微かに彼女がうなずいた。私はそれ以上、言葉を発することはなかった。
手をつなぎ、ふたりで病院をあとにする。彼の手は大きくて温かくて、私の手を包み込んでくれる。それが何よりも大好きだった。今もその温もりが欲しくて、ぎゅっとしてしまう。歩いているとき、不意に彼の横顔を見ると、前を見ながら遠目で考え事をしているようだった。
面会時間はほんの15分くらいだったが、いつその15分が最期になるか、予断の許さない状況であることには変わりない。
「夢に、出てきたのかな。真理さん」
そんな彼に、私は話しかけてみる。
「…そうかもな」
ふっと笑って見せるその顔は、本当に切なくて今にも涙を零してしまいそうなほど脆い笑顔だったのだ。そんな顔を見たら、胸が締め付けられる。抱きしめたくなる…
その時、握られている手の力がぐっと込められた気がした。それでも、ふたりの足は止まらず、お互いの存在を確かめながら歩いていた。




