10-前編
真理が事故に遭う直前、正也は家に一緒にいた。クリスマスイヴのその日も小夜子は仕事に出かけていたため、冬休みの彼と一緒に母の帰りを待っていた。その日、運悪く、真理はダークサイドに落ちていた。
「世間のお父さんは今頃、自分の子のサンタさんになって、きっと幸せな時を過ごすんだよね…」
テレビをぼうっと見ながら、真理がつぶやくのが聞こえた。だが、自分達はもうサンタクロースを待ち侘びるような年齢でもない。最初は、何を言っているんだ、と正也は聞き流していたが、そうではなかった。ただ今日という日に最愛の父から無償の愛を受けられないことに歯痒さを感じているのだと、すぐに理解したのだ。
父の裏切りでバラバラになってしまった家族。利発で優しくて責任感の強い真理にとって到底理解できない父の悪行を許せない一方で、たった一人しかいない父が、別の家庭で幸せに暮らしている。そんな彼女は、テレビに映る街を彩るクリスマスではしゃぐ子どもを眺めながら発作を引き起こしていたのだ。母にすぐ連絡した正也は彼なりに姉の発作を止めようと奮闘した。
「俺もお袋も姉貴の情緒不安で自傷行為に走ることに疲弊してた。心療内科の受診も拒否して手がつけられない。いくら伝えても、伝わらないんだ…。だから俺はあの日、口走った。取り返しのつかないことを…」
しんと静まり返る部屋には、おおよそ似つかわしくないような強い口調が響いていた。誰にも理解されないだろうと諦めていた苦しい心の内がそうさせているのだろうと思う。
「取り返しのつかないこと…」
ごくりと固唾を飲み、彼の言葉を待った。あのお母さんでさえも知らない話の続きだ。心臓の音がドクドクと大きく跳ね上がる。
「『お前のせいでみんな疲れてるのがわからないのか。』俺がそう叫んだら、姉貴は顔を歪ませて裸足で飛び出して行った。そして、大通りに出たところで事故に遭ったんだ」
彼は、自傷行為に走る姉の背中を押してしまった。
「親父はもう帰ってこない。幸せだった4人家族だった時はもうどうしたって無理だ。進学のことだって、俺が高校出たら働いて3人で楽しく暮らしていけばいいって何度も言った。しかし、何度伝えても伝わらなかった。なのに、言ってはいけないことを言ったその言葉だけ一回で理解して、アイツは死んでいった」
家族が3人になっても、正也は不幸だと思ったことはなかった。優しい母がいて明るい姉がいて自分がいて、お金は厳しかったけれども、いくらでもどうにでもなった。いや、自分が働いてどうにでもするはずだった。それなのに、『親父』というピースが抜け落ちてしまった途端、姉の中の精神バランスが崩れ、他に影響を及ぼしながら、永遠に完成しないそのパズルは朽ち果ててしまったのだ。
「お袋は知らない。言えるはずがない。俺の不用意な弱音を本気にして家族が死んだなんて…。一生背負わないといけない俺の罪だ。俺が殺したも同然なんだよ…」
絞り出すような告白とともに、彼の頬には一筋の涙が流れていた。
振りかざしてしまった言葉が刃物となって相手に見えない傷を追わせてしまったその代償は、14歳の少年が受け止めるには大きすぎるに違いない。そして誰からも責められないことで、ますます自分を許せなくなっていく正也の罪の意識は色褪せることなく、いやむしろ鮮明になってしまうのだろう。10年前、ささやかで幸せな時間を過ごすはずのクリスマスが、悲劇の日になってしまった。
「舞の家族とは時々交流があって、歳も近いし、あんな性格だから子どもの頃も男っぽくて、よく遊んでたんだ。姉貴のことがあった後にちょうど叔父さんの仕事の関係で日本を発ったから、しばらく疎遠になってたんだけど、帰国して同じ大学に入学してきて、俺の前に現れた。そして俺に告白してきたんだ。子どもの頃からずっと好きだった、と。大学2年の夏から付き合い始めて、クリスマスを迎えたんだ」
話は聞かなくてもだいたい想像ができた。きっと自分を責めまくるこの人のことを舞は止められなかったのだろう。いくら言葉を紡いでも、罪の意識が消えないこの人には届かない。きっと理不尽だったに違いない。
(舞さんは、悔やんでた…)
10年経った今でさえもこんなに苦しんでいるのに、私はなぜ、誰よりも私のことを考えてくれていたこの人の気持ちに『嬉しくない』だなんて思ってしまったのだろう。同じ時間を過ごせないとしても、なぜ許せなかったんだろう…。信じてほしいだなんて、強く思ってしまったのだろう。その大きな後悔が、私の体を動かしていた。向かいに座る彼を頭から抱きしめたのだ。そうすることしかできなかった。また、そうしてあげたいと心から思った。
「話してくれてありがとう…。だけど、あなたは充分苦しんだよ? 10年もこの現実に向き合ってきたんだよ。だから、もう自分を許してもいいと思う」
私の言葉など、響かないかもしれない。それでも、もう充分に苦しんだ。もう、苦しまなくていい…
「きっとあなたのその罪の意識は消えないかもしれない。でも、思い出せなくなるくらい私があなたに幸せをあげる。だから思い出すのは、時々でいい。年に一度、こうしてささやかに思い出してあげて」
私の方がずっと年下なのに、子どもに言い聞かせるように抱きしめる。次第に抱きしめ返してくれる彼の手が、腕が、いつの間にか私の体を閉じ込めていた。
「…ゆいはすごいね」
ぽつりと呟くその言葉を聞いて、私は彼の顔を覗き込んだ。
「え?」
さっきまでとは違い、穏やかな目で私を見つめる彼がの顔がそこにあった。
「お袋の話を聞いて、重いって思っただろうなって思ったし、それなのに一緒に乗り越えてくれようとしてくれて…。正直お前のこと舐めてた」
彼の膝の上で、私は首を横に振った。そんな立派なものではない。何をどう言ってあげるのが正解なのか、自信などない。しかし、彼にそんな私の頬にそっと触れられる。
「…私はすごくなんてないよ。話を聞いたって、自分が何をできるのかなんて解らない。解らないけど、私しかできないことを探したいって思うし、一緒に答えを考えたいって、思う」
それが、すべてだった。苦しんでいるなら、分けてほしい。幸せだったらふたりでもっと増やせばいい。彼は、そうしたいと思える人だ。心の苦しみを溶かすこと。ひとりでできなくても、ふたりならできるという選択肢があっていい。それにどうか気付いてほしい。
「大学の時の舞には申し訳ないことをしたと思う。アイツはうちの詳しい事情を知らなかったみたいで。後から知って支えようとしてくれたけど、俺はそれには応えられなかった」
一度閉ざしてしまった扉を再びその人のために開けるのは勇気がいる。期待をしてしまう。
彼は目を閉じ、大きなため息を吐いた。そして、視線を彷徨えわせた後、私の目をじっと見つめる。
「…背負わせるのが怖かった」
私の胸の中でストンと落ちたその答えに、何度もうなずいていた。
「今の舞にも、申し訳ないな。こんなことをいつまでも引きずらせてしまって」
過去の思い出にできなかった人が目の前で苦しんでいたら…。きっと心が張り裂けそうなくらいの痛みを感じるはずだ。
「立ち直ったと思っていたはずなんだけど、この時期になると、どうしても自分を許せなくて、抑えられなくなってしまう。そのうち繰り返すのがしんどくなって、誰かと付き合うことすらやめてしまった」
舞が言っていた、付き合っている人がいてもクリスマスを境に別れていた、ということだろう。事情がわからない人なら、きっと彼のことを理解するのは難しいかもしれない。そのうちに、打ち明けることすらも負担に感じ、自分の殻に閉じこもってしまう。それは負のループに陥るだけで、誰も救われない。そんなことがあっていいはずがないのだ。
「だけど、心強いな…。ゆいにはかなわない」
彼は、きっと解ってくれた。
(嬉しい…)
これからきっとふたりで乗り越えられる。私たちはこれからだ。




