1-後編
「私、付き合うって言ってないじゃん…」
何事もないように走り去るバスの後姿を見つめながら、私は未練たらしくつぶやいた。
「暇つぶしにはなるぜ。先ずはあっちな」
加藤はバス通り沿いにある花屋を指差し、歩き出していた。
(そういえば、このバス停名…)
私は振り返り、バス停名を確認した。
『双葉総合病院入口』
(誰かのお見舞い…?)
首を傾げながら、私は花屋に入っていった加藤の後についていった。
「誰かのお見舞いですか?」
「そ」
鮮やかなピンク色のバラの花束を手に持って加藤は、私の手を引いて病院の入り口の自動ドアをくぐっていった。その状況に私は困惑していたが、加藤が私の手を握る力は優しく、強引に連れて来られた割には丁寧に扱われていることに気づく。
受付を済ませ、混み合うエレベータに乗り込むと、加藤は5階のボタンを押した。そして、ナースステーションの看護師に軽く挨拶をした後、ある病室の前で足を止めた。
「私、外で待ってますよ。…というか、帰っていいですか」
「ダメ」
にっこりとした笑顔で即答した加藤は、逃さないと言わんばかりに私の右手を握って、指を絡ませてきたのだ。焦る私を気にすることなく、彼は病室のドアを開けたのだ。
「あら、よく来てくれたわね」
部屋の中には、60歳前後の女性が浴衣姿でベッドに横になっていた。彼女は、ドアのほうに顔を向け、にっこりと笑ってそう口にしたのだ。
「母さん、具合はどう?」
バラの花束を差し出し、彼は「母さん」と呼ぶその女性に渡したのだ。
(え、母さん…?!)
「彼女は? どなた?」
うれしそうに花を眺めた後、ドアの前に突っ立っている私に気づいたその女性は、加藤に尋ねていた。
「あ、紹介するよ。結婚を前提に付き合っている彼女だよ。花村ゆいさんだ。」
にこやかに嘘をつく加藤に、私は絶句していた。
「まぁ、ステキなお嬢さんね。もっとこっちにいらっしゃい」
上品な笑顔を私に向けて、加藤の母親は手招きする。私はたどたどしく加藤に視線を送るが、彼はやはりにこやかに無視をしたのだ。
(む、無視…!!)
何も説明をされていない挙句、なにやらとんでもない茶番につき合わされているとこだけをよく理解した私の足は、動かなかった。早くここから逃げたいのに、それを許さない彼の母親の笑顔が私の足を動かなくしていたのだ。
繊細で上品な顔立ちの彼の母親は、どこか可憐な少女のような目を私に向ける。その視線は意外にも力強く、興味津々な目だった。
「あら、ずいぶん若いじゃない。あなた、おいくつ?」
「え…」
「二十歳だよ、母さん。初めて会うもんだから緊張してるみたいだね。あ、そうだ。ゆい、この花瓶にこのバラを生けてきてくれないか?」
加藤はそう言うと、戸棚から取り出した花瓶とさっき手渡したバラの花束を私に押し付けてきたのだ。プチパニックを起こしていたが、バラと花瓶を持たされた私は、仕方なく近くの水道へ向かった。
(なんなんだ…??? 私がいつ加藤の…?)
綺麗にラッピングされている包装紙を剥がし、ピンクのバラとカスミソウを水の入った花瓶に挿す。花に罪はないけれど、なんで私は知りもしない人のお見舞いの花を生けているんだろう? 当然ながらそんな疑問が私の頭の中をいっぱいにした。
(この花を選ぶときの先生の顔…)
直感で決めたと言っていたが、選ぶのを楽しんでいたように思えた。そこに少なくとも嘘を感じなかった。そんな彼が、同じ顔をしてありもしない嘘をついるのだ。
(だいたい、婚約者ってどういうこと?)
それに、『ゆい』って呼び捨てにするなんて…
(家族や友達以外、そんな風に呼ばれたことないのに…!)
「花村」
花瓶を持ったまま水場で立ちすくんでいる私に、後ろから加藤が声をかけてきた。
(二人のときは『花村』なわけね)
なんだか無性にムカついた。体よく扱われているのが良くわかる。
「行ったっきり、遅いから。ごめんな、こんなこと頼んじゃって」
加藤は私の手から花瓶の口を掴み、持ち上げた。
「……」
私はもう一言も話すまいと決めた。勝手なことをしているこの男を許せるわけがない。
「棘で手ぇ怪我しなかったか」
加藤は私にそう声をかけ、黙っている私の顔を覗き込んだ。その顔は、さっき病室でしれっと人を無視したような意地悪な顔ではなく、気を遣っているか、私の感情を窺っていた。
(悪いことをしてるっていう意識はあるんだ)
私はわざと視線をずらした。
「お店で売ってる花に、棘なんてあるはずないでしょ」
そう言い返すと、加藤は「そっか」と口にしながら踵を返す。私は病室に戻る彼の後を付いていった。
「ありがとう。ゆいさん、またいらしてね」
彼らが他愛のない話を数分した後、加藤の母親は嬉しそうに微笑みながら私の手を握った。
「母さんも早くよくならないとね。結婚式には出てもらわないと」
"結婚式"と聞いて、私は思わず眉間にしわを寄せていた。
「そうね」
そんな私に気にも留めない様子で、彼女が楽しいそうに答える。目の前の親子は、嘘の上で他愛なく笑い合っているのだ。私には違和感しかなかった。病室を出るとき、病室のネームプレートを確認した。
(加藤小夜子・・・)
繊細な名前だと私は思った。あの母親にぴったりの名だ。静かにドアを閉め、黙ったままエレベータまで向かう。エレベータ前で扉が開くのを待っていると、間もなく下行きのエレベータが到着し、私たちは黙って乗り込んだ。なんとなく横にいる加藤の横顔を見上げると、物憂げな遠い目をしていたのだ。
「先生、ひどい」
病院を離れ、バス停まで歩いている時、沈黙を破ったのは私だった。
「うん、悪かった」
少しだけ罪悪感を感じているのか、その笑顔にはさっきまでの覇気がなかった。
「それもそうだけど…」
私は加藤の前に立ちふさがるように飛び出した。
「…結婚なんてしないじゃん、私たち。あんな喜ばせ方って…」
そう口にして、私はうつむいた。
「…そうなんだよな」
風に吹かれ、私たちの髪がふわりと揺れた。そんな風を断ち切るかのように加藤は手を天に伸ばし、ぐっと背伸びをした。
「まだ時間平気?」
彼の問いに私は疑いの眼差しで彼を見た。。
「邪推すんなよー、約束どおり飯、奢るからさ」
病院入口のバス停から駅までの距離はしれている。私たちは歩いて駅前に出ることにした。
駅ビルの上のほうの階にあるレストラン街を訪れた私たちは、イタリアンレストランの席に向かい合っていた。一通り注文を終え、飲み物が来るまで手持ち無沙汰に感じた私は、氷の入った冷たいお冷グラスに口をつけた。
「この辺って、あんまりうちの学校の生徒いないだろ?」
落ち着いた声でそう切り出してきたのは、加藤だった。
「まぁ、そうだね。私くらいじゃないかな」
「だから、新居もこの辺にしたんだけどな」
生徒の情報は、学校にいくらでもあるだろう。
(そうやって住むところを決めるのか、教師って・・・)
「いや、違うよ」
ニヤッとした顔で私の顔を覗き込む加藤に、私は焦りで顔を赤くした。
「何にも言ってないでしょ」
「心の声が駄々漏れ」
くくく、と向かいに座る彼は笑い声を殺していた。
「お、お母さんの病院のためでしょ、近いほうが便利だもん」
やっぱり小バカにされた気がしてならない。協力してあげたのに…
口をぷくっとさせながら怒っている私に彼が謝っていると、ちょうど注文したコーヒーが運ばれてきたのだ。
「そ。もう、長くないんだよ、お袋」
「…だからって、関係も年もごまかして紹介するなんて…」
あの繊細な笑顔が脳裏に浮かび、私はますます胸が痛くなった。この人の嘘の片棒を担がされるとは…
「花村って優しいのな」
さっきと180度違う真剣な顔をして加藤がそう口にする。切ない、と表現するのが一番ぴったりだった。その顔を見たら、クドクドと文句を言う気が失せてくる。きっと、こんな茶番を演じなくてはいけない理由があるのだろう。
「…そんなこと今は関係ないでしょ」
「関係あるさ。人の気持ちをよく理解できるってことは、歩み寄れるってことだろう? 優しくなきゃできないよ」
コーヒーカップに口を付け、彼はそのまま窓を見つめていた。
「先生は、その『優しい』私を利用してるの!!」
「運命を感じるだろ?」
白い歯を見せてニヤリと笑う。
(ほら、また私をバカにする)
この人はコロコロと表情が変わる。すべてを冗談にしたいのか、本気でこの茶番に臨むつもりのか…
(本心が見えない…)
「お前ってさ、他の教科はそこそこできるのに、英語だけダメなのな」
「え?」
何の話をしてるのか、と唐突に彼は話し出す。
「俺とバスで出会っちゃったのは、運命だったってことでさ」
「なっ…! この茶番に最後まで付き合えって言うの?!」
何を言い出すのか思ったら!! 正気なのか、この人?!
「お礼にみっちり英語の補習の面倒見てやるから」
「その条件おかしいでしょ」
「まぁー、実際に結婚するわけじゃないし?」
「それは当たり前!」
言葉が通じない…。なぜ嘘をつき通さなければならないの?
「いくら心配させたくないからって嘘は…」
すると、加藤は私の困った顔をじっと見つめた後、ニッコリと笑ったのだ。
「じゃぁ、付き合っちゃおうか。この際」
へ?!
「本当に付き合っちゃえば、嘘にはならないだろ?」
「な、何言ってるの…」
彼の口から飛び出したその言葉に、戸惑わないわけがない。それに彼が本気なわけがない。こんオトナが女子高生を相手に本気になるはずがないだろう。
彼を慕っている生徒なら、きっと尻尾を振って彼の言うことを聞くのかもしれないが、私はそんな簡単に攻略させない。初めて付き合う相手がこんな嘘つきでいいはずがない…!
「お断りします!!」
私はテーブルを両手でバンッと叩き、向かいに座る彼の顔を睨みながら叫んでいた。しかし、強気なその視線もすぐに戸惑いで揺らいでいたのだ。さっきまで冗談めいた口調で調子のいいことを言っていたこの男が、また感情を抑えたような憂い顔を浮かべていたのだ。そして、小さく笑う。
「三ヶ月」
右手で三を作り、こちらに見せる。
「余命、あと三ヶ月」
「え…?」
私の眉間に、思わずしわが寄る。
「母の命、もう時間がないんだ。心配させたまま逝ってほしくなくてさ。嘘でもいい。幸福な気持ちで送ってやりたいって思ったんだけど…」
そんな大事なことを嘘で誤魔化していいの…? そんな事を考えていた私は、目を逸らしていた。
「…嘘で幸せになれるのかな」
ポツリと呟き、疑問を呈す。
「だよな」
加藤は諦めたように憂いた笑顔を浮かべてうなずいた。
「花村は本当にまっすぐで優しいんだな」
伏目がちになりながら大きな手でコーヒーカップを包み込み、そのカップに口を付ける所作はすごく落ち着いていて、きっと誰も見たことのない素の加藤なのだろうと思った。
(多分誰も知らない。あんな冗談めいた態度も、悲しそうな顔も…)
みんなの加藤先生は、楽しく優しくてそんな生徒でも同じ笑顔をくれて、物怖じしなくて叱るときはもちろん叱るけど、フォローがうまくて、本当に人気者だ。私はいつも、彼を取り囲む輪の外から比較的冷静に、そして特に接点も持たず高校生活を送っている。そんな彼が、「あえて」私を選ぶ理由などないはずだ。
「…誰にでもそう言ってるんでしょ」
私がそう口にしたとき、注文した料理が運ばれてきた。
目の前に置かれたのはどこにでもありそうなトマトパスタだ。私はささっと粉チーズを振りかけ、味わうことなくさっさと食べてしまおうとカトラリーケースからフォークを拾う。そしてさっそくそのパスタに手を付けた。
そんな私を彼はじっと見つめている。少し気になるが、私は気にしないふりをしてパスタを食べていた。しばらくして、彼が注文したピザとチキンステーキがテーブルに並ぶと、彼は気持ち一息ついたあと、その料理に手を伸ばしたのだった。
味気ない雰囲気のまま始まった食事に、少しだけ居心地の悪さを覚えながらも、黙々と食べる。私たちの会話はこれ以上、成立しなかった。