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バスの恋人  作者: 夜月暁
第九章
19/25

9-後編

(なんで…)

 泣きそうになるのを必死に堪えていた。そして、助けてくれた人の声を私は知っている。

「探したよ…。見つかってよかった…」

 後ろから抱きすくめられ、彼の冷たい鼻先が首筋に触れた。そして鼻を掠める彼の匂いと体温が、私の目の奥を熱くさせた。しばらくそのま抱きしめていた彼だったが、やがて抱き締めるのをやめると、私の手を取り指を絡めるようにつないだ。

「送るよ」

 歩き出す彼だったが、私は下を向いたまま足を踏み出さなかった。手を繋いだままついてこない私に足を止めてそっと振り返り、「ゆい」と私の名前を呼ぶ。

「…帰ってもどうせひとりだもん。帰りたくない」

 帰ろうとして自宅に向かっていたのに、自分が天邪鬼のようなことを言っている自覚はあった。帰りたくない、なんて言われても困らせるだけなことも解っている。それでもそれが今の正直な気持ちだった。

「お前を巻き込んだことを心底後悔した。俺がどうしようもないせいで、本当に悪かった」

 私の手を包み込むように両手で握るその力が込められ、私は彼の顔を見た。

 あぁ、ついに別れるのか。私はそう覚悟した。

「私では役不足だった…よね。役に立たなくてごめんね」

 もう、私の役目は終わった。この人のそばにいる理由はもうない。やっぱり最後は、私が気が済むまで泣けば静かに終わりを告げるのだ。それは、最初から覚悟していたことだ。

 私はそっと彼の手を離した。そして泣きながら笑った。

「さよなら…」

 それが精一杯だった。目の前で私たちの関係が終わっていく様を無理して笑った顔で見送ると、彼を追い抜いて歩き始めた。

「ゆい!」

 彼の、私の名前を何度も呼ぶ声が何度も頭の中でこだまする。振り向かない。止まらない。お願いだからもうこれ以上、期待させないで…

「ゆい」

 私の腕を捕まえるその手は、震えていた。

「違うんだ…。行かないでくれ…。頼む…」

 その声は震え、今にも崩れ落ちそうだった。この人も、私と同じように寂しさで疲れ果てている。

「見せたくなかった…。手に余るような俺の醜態を。…ふたりの話し声で目を覚まして、お前が出て行った後、舞が俺にキスしたことを聞いたけど、それには応えられなかった。アイツをまた泣かせちゃったけど、俺に必要なのは舞じゃない」

 あんな愛おしそうにキスをしていた舞の顔を忘れたいのに、また心が勝手に苦しくなって胸を締め付けられる。

「…もっと私を信じてよ。強引に婚約者に仕立てて自分の母親に紹介して巻き込んだのは誰よ…」

 やっとこの人の顔をちゃんと見ることができた。弱々しく寂しそうに笑うその顔に、無性に抱きしめたくなる衝動に駆られる。”そんなふうに笑わなくていい”って言ってあげたくなるのは、なぜ?

「…今から俺の話を聞いてくれるか」

 彼は掴んでいる私の腕を離し、あの大きな手を差し出した。私はうなずきながら、その手に飛びつくように手を伸ばし、ぎゅっと握ぎる。そして、いつもの道のりをふたりで歩き始めたのだ。


 彼の部屋に戻ると、そこには舞はいなかった。ガランとした空っぽの部屋にふたりで入ると、酒の空き瓶で散らかっていた部屋は簡単に片付けられていた。

(舞さんが…)

 彼女がせめてもの気持ちで片付けていったのだろうか。

 彼はすぐにキッチンに立ち、戸棚からいつものマグカップを出した。私は膝を抱えながら床に座り、彼のその後ろ姿を見つめていた。

 エアコンを入れっぱなしにしてあったおかげで、凍えることなくここにいるが、足や手の指先は千切れてしまうほどに冷え切っており、頬も寒さで赤くなっている。

 湯気の上がるカップを差し出され、黙って受け取ると、カップから伝わる熱とコーヒーの甘く香ばしい香りが私を安心へと誘った。彼は一度カップをテーブルに置くと、押し入れから毛布を取り出し、私に差し出してくれた。おもむろにそれを受け取ると、私は足を包み込むように毛布をかけた。その様子を見てから、彼はカップに手を伸ばし、ひと息ついた。

「舞が、部屋を訪ねてきたところまでは覚えてるんだ。心配して、様子を見に来てくれたみだいだった。アイツとは、5年くらい前に同じように酒を飲んで、酔って突っかかって、傷つけて別れたんだ。それなのに、一緒に飲もうって…。でも今更、昔の関係に戻る選択肢なんて俺にはない。俺とは関係ないところで幸せになってくれたらいいって、正直にそう思ってる」

 膝を立てて座る彼は、昔の思い出を断ち切るように目を閉じた。

「…舞さんはずっと後悔してたみたいだったけど、ね…」

 消えない残像。見たこともない切ない表情で訴えてくるあの瞳に、私はどうしても干渉できない過去に苛立ちを覚えてしまう。

「部屋飲みの時、あなたはいとことして付き合ったんだとしても、舞さんからしたら違ってたかもしれないね。大丈夫なふりをしてても、本当はあなたに甘えたかった…」

 蒸し返したい訳じゃないのに、言わずにはいられない。醜い気持ちがドロドロと込み上げてくるのがわかる。苦しいのに、止めることができないのだ。

「お前に見られたことを、心底後悔してた。自分は何をやっているんだろう…って。傷つけてごめんなさい、って何度も口にしてたよ…」

 眠るこの人の顔をあの細くて白い指で包み込んで、キスを落とす。衝動を抑えられなかったあの光景がどうしたら消えるのだろうか。思えば思うほど、目の奥が熱くなっていくのがわかる。それは自分では止められなくて、目の前がすぐに霞んでぼんやりとしてしまうのだ。

「…どうしたら、消えると思う?」

 私は目にいっぱいの涙を溜めながら、問いかけた。

「消えるって…」

「あんな悲しそうな顔をしてあなたにキスをする舞さんの顔…。思い出すだけで…。私はあなたが今日こんなふうに過ごしていることすらも知らなくて、私が一番近いんだと思ってたけどでもやっぱり何も知らなくて、あなたの悲しみを受け止めようとしていた舞さんを、私はどうしたら…」

 すると、その瞬間これでもかというほどの力で、抱きしめられていた。

「ごめん…」

 誰が悪いのか、という問いがあるとしたら、答えは、きっと誰も悪くない。私は、その答えがそうであることを解っている。それなのに、わざとそんな愚問を吹っ掛けて、誰かを悪者にしようとしてる。彼が謝るのは当然だ。彼は、諸悪の根源は自分だと思っている。しかし、そうじゃない。こんな時でも自分がどんどんと子どもの考えであることを思い知らされる。こんなことをしたいんじゃない。こんなことを思ってほしいんじゃない。

(私はただ、舞さんに嫉妬しているだけだ)

 私は彼の胸に両手を当て、ふたりの体を引き離した。そんな私を見ながら、彼は言葉を続けた。

「ケーキを一緒に食べた日、本当はお前が落ち込んでいたことには気づいてた。ごめん」

 不意に口を開いた彼は、申し訳なさそうに頭を下げた。私はハッとして、目を伏せた。

(分かってたんだ…)

 苦しかったあの日。プレゼントもくれたのに、泣きたいくらい悲しかったことを思い出して、胸がチクリと痛む。

「それでも、あの時はあれが最善策だと思っていた。クリスマスに平然といられる自信がなかった」

「…私には、荷が重いと?」

 すると彼は首を横に振る。

「違うよ。お前が大切な存在になればなるほど、俺のせいで壊れるのが怖かった。まだ、自分を信用してないからな…」

 余裕がなかった。

 彼はそう言った。もう10年経つというのに、まだ怖いと言うこの人に、当時何があったのか。

「あなたが抱えているそのわだかまりを、教えてください」

 きっと踏み込んではいけないことなんだと分かっていても、もう引き返すことなどできない。一歩間違えれば、私が彼の抱えている傷に追い打ちをかけることになるかもしれないが、この話を聞かないで私たちはきっと前に進めないだろう。彼が私に言えないなら、きっと今までと同じように彼は、私との関係もおしまいにするはずだ。

 だが、私は微かな望みに賭けたかった。こんな子どもの私が話を聞いたからとて、何もできないかもしれない。しかし、この人が私を大事に思ってくれているなら、私は全てを受け止める覚悟をしなければならないと思うから…

 彼は言葉を探しているようだった。何から話すべきかを迷いながら、視線を彷徨わせている。握ったコーヒーカップを口元に持って行った時、彼は決意したようにコーヒーをひと口飲み込むと、うなずきながらカップを静かに置いたのだった。

「10年前。親父とお袋が離婚してから、お袋は俺たちを育てるために、とにかく働いていたよ。姉貴が鬱と診断されてからも仕事をしながら姉貴の面倒も見てて、本当に大変だった。お袋も姉貴の不調が自分のせいだと思っているから、それはもう必死で。いつ発作が出るか解らない状態だったから、家族は全員疲弊していた」

 深く長いため息が彼の口から漏れていた。目を閉じながら回想している彼の顔色は悪く、眉間にはしわが寄っている。それでもあの頃の記憶を巡らし、言葉にしていた。そんな様子を私は黙って真剣に耳を傾けていた。

「明るい自分を演じている時の姉貴は、俺の世話を焼いてくれたりして普通に話をすることができたんだけど、一旦発作が出てしまうと、ダークサイドに落ちたみたいに目が虚ろになりながらリストカットするようになって、とにかく目が離せなくて、俺が学校を休んで自傷行為を止めたりしてたんだよ」

 真理の自傷行為は、父親の愛の矛先が自分たちから外へと移ったからではないか、という医師の診断だった。つまり、母や弟がいくらい愛情を持って接しても、原因となる父親が不在である加藤家にとって、それは致命的だった。正也は物心がつく前から父親の存在すら薄く感じており、可愛がられた経験があまりない。しかし、姉の真理は父のことが大好きだった。母とうまくいっていないことを子どもながらに解っていたが、自分が鎹となれば、家族がバラバラになることはない。彼女はそう思っていたのだろう。

 ところが、父は家族の前から姿を消した。仕事すらも捨てて、すべて手放して家族を捨てたのだ。鎹になれなかった真理の心には穴が空いた。

「その穴が、いつまでも塞がらなくて、姉は壊れていった…」

 彼は壁にもたれながら温くなったカップに入っているコーヒーを飲み干して、テーブルに置いた。その目は青く染まっている。それでも順を追って話そうと、彼は再び口を開いたのだった。


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