9-前編
息を切らしながら、私は彼のアパートのそばまで来ていた。ひと息ついてから呼吸を整え、相変わらずギシギシ鳴る階段を上り始める。そして、一番奥の部屋に目指して歩いた。玄関先の小窓からは中の明かりは見えず、人の気配は感じられなかったが、ドアの横にある小さな呼び鈴を鳴らした。しかし音は鳴らず、何度押してもボタンを押し込んだ時のプラスチックのあの乾いた音が微かに聞こえるだけで、呼び鈴としての機能を果たしてはいなかった。
(電池、切れてるのかな…)
私はバッグからあのポーチを取り出して、銀色の鍵を鍵穴に鍵を差し込んだ。そしていつも通りに右に回して鍵を開けた。ドアノブに触れて、静かにドアを開ける。耳を澄まして中の様子を伺うと、電気は消えているが、玄関先にはいつもの靴が転がっているのが見えた。しかし、意外なものが彼の靴の隣にあり、ドクンと心臓の跳ねるのを感じた。嫌な予感がして、そのまま部屋に上がりこみ、部屋の灯りのスイッチを入れた。
真っ暗だった部屋に明かりが灯り、一気に視界が開けると、目の前の光景に私は絶句した。
「何、してるの…、舞さん」
床で眠りこけている彼にキスしていた石原舞が、そこにいた。部屋には飲みかけの酒が入ったガラスコップ、ビールの空き缶などゴミが散乱していた。その中で、彼の顔に自分の顔を近づけて愛おしそうに見つめながらキスをする姿は、今までの舞のイメージからかけ離れたものだった。
下駄箱にあった女性モノのヒールは、舞のものだったようだ。
(やっぱり舞さんは…この人のことを…)
どんな気持ちで、この間カフェで話を聞いてくれていたのだろう。どんな気持ちで、私のことを『いい子』と言っていたの…
「…ゆいちゃん!」
私に気付き、顔を上げた舞は、驚きで瞳が揺れていた。
「…ごめん。悪いと思ったんだけど、どうしても止められなかった」
彼女は私の目も見ず、今しがた離したばかりの唇を手で隠しながら、しんと静まり返るこの部屋でそう告げた。
舞のその顔を見た瞬間、私は気付きたくないことに気付いてしまった。
『あたしは敵じゃないよ!』とニッコリと笑うあの笑顔は…
『うまくいくことを願ってる。あたしができることは協力するから』と言って別れたあの時も…
「全部、嘘だったんですね…」
私の顔から目を逸らすようにして目を伏せて、床で眠る彼を見つめながら舞は口を開いた。
「嘘なんかじゃないの。だけど、またあんな姿見たら、どうしても…」
涙を流しながら、舞は目を伏せた。
「また、あんな姿?」
状況がわからない私は、そんな彼女の様子に苛ついていた。
「…様子を見に来たら案の定ひとりで飲んでて、すごく荒れてて。あたしはあの時何もできなかったから…」
その細い指先で彼の頬に触れながら、潤んだ瞳で見つめている舞の様子は、まるで…
考えただけで、震えが止まらなくなってしまう。
そんな目で、彼を見つめないで…
「5年前、あたしは正也を救えなかった。今だってなにもできない。だけど…」
私は思わず、舞に手に持っていた紙袋を投げつけた。
「聞きたくないです!」
しかし、紙袋は舞のところまで飛んでは行かず、私たちの間に無様に着地した。この怒りは、誰にぶつければいいのだろうか。舞のこの愚行を止めたいのに、彼女はそれでも言葉を紡ごうとする。
「…あの時、本当は失いたくなかった。子どものころからずっと好きだったから…」
聞きたくなかった。心にずっと留めておいてほしかった。どうして…
少しずつ明らかになる彼らの過去。点々とした記憶や伝え聞いた言葉が繋がってしまった瞬間だった。彼が大学2年の時に付き合っていたのは、舞だった。いとこ同士は結婚できる。だから恋愛に発展することだってある。この二人は、実際にそういう関係だった時があった。それは、消せない過去。そしてその過去に私が触れられるわけがなく、ただ”事実”と伝えられることに、苦しさを感じた。誰も消すことができないし、なかったことにはならない。
「…だけど、今正也が本当に好きなのはゆいちゃんだよ。だから…」
縋るような目をして、土下座に近い姿勢で懇願する舞。その姿があのいつもの舞と同じなのかと思うほど、似ても似つかない。もちろん「いいですよ」なんて言えるはずなく、私は部屋を飛び出して行った。
部屋を飛び出し、走っていた私はちょうど終点から折り返すために時間待ちにしていたバスに乗り込んだ。どこに行くわけではないが、家に帰ったってどうせひとりだ。目的地はもうどこでもよかった。
深く眠ってしまうほど飲んでいた、あの人。きっと毎年、お酒を飲んで紛らわして来たんだと思うと、切なくなった。確かに、私の出番などあるはずがない。一緒に過ごすことを望むはずがない。そして、長い間自分の気持ちを封印していたのにどうしても抑えられなくなってしまった舞のことを考えると苦して、心が痛かった。過去を引きずっていないフリをして近づいて、どんな眼差しであの人を見ていたのだろうか。
『あたしは敵じゃないよ!』
屈託のない笑顔で、彼女は私にそう言った。あの時、それが嘘じゃないと信じることができた。それなのに…
窓に流れているのは、温かい光に包まれている見慣れている街だ。子どもの頃から見慣れているはずなのに、直視できないほど眩しかった。それは今の私には程遠い、幸せの光だ。
窓に映るその光景から逃げるようにして目を閉じ、『私』という存在を考える。結局のところ、自分が思うより世間はまだまだ広くて、全然知らない定石や暗黙のルールなどがたくさんあって、今の私にはまだ背伸びしなければいけない状況にある。そんな私が、『好き』だけであの人の隣にいてもいいのだろうか。
(大事な時にそばにいられないなら、意味ない…)
舞は知っていた。彼があんなふうにクリスマスを過ごすことを。知っていて、私には教えてくれなかった。彼を受け止める役を私ではなく、自分が引き受けることをきっと決めていたから、言わなかったのだろう。
バスの行き先はいつもの駅だった。バスが駅に到着してしまったら、私はこれからどこへ行けばいいのだろう。どこでもいいはずなのに、どこへ行ったらいいのかすらも解らない。行くあてなんてない。
この町にいたら苦しいのに、結局この町から出られない。自分という存在がどれだけちっぽけな子どもなんだろうと思わずにはいられないのだ。それでもバスは無常にも、見慣れたいつものバス停に停車した。惨めさだけを持ってバスを降りた私は、賑やかな駅前を背にし、線路と並行して流れている大きな河を渡している人道橋の方へと歩き出した。河の向こうには、規模の大きな商業施設があり、橋はそちらから歩いて駅へ向かう人で埋まっていた。その多くの人の波をくぐり抜け、橋の中ほどまで歩くと、私は足を止めた。
(気持ちが落ち着くまで、ここにいよう)
私の胸の高さまである橋の柵に肘を付き、水面を覗いてみた。しかし一定間隔に立っている街灯の白い光が水面に反射して、何も見えない。
背後で人の動きを感じながら、私はゆったりと流れていく河を眺めていた。しかし河のせせらぎを見ているようで、頭は全く別のことを考えている。冷静になるためには、必要な時間だった。
歩いていく人たちが私を見て不審に思っているのも気配で解る。鼻を赤くさせて寒い中、川の流れを見つめている年若い女の子がひとり、人気がなくなったら飛び込むのではないか、とそんな目で行き交う人の視線を感じ、苦笑を浮かべた。
どれくらい経ったか解らないが、さすがに寒さで足がかじかんでしまった。手も冷え切って赤くなっている。小さくため息を吐くと、白い息が煙のように吐き出された。そういえば、今夜は今年一番の寒波が迫っていると、今朝見た天気予報で言っていた。そんな寒さの中、目的もなく出歩いている愚かさは自分が一番知っている。その時、不意に空からひらひらと舞い落ちてきた。思わず手のひらを胸の前で上に向けると、小さな雪の粒が手の熱で消えていった。
(雪…)
厚い雲が広がる真っ暗な空を見上げると、白い雪の粒がしんしんと降りてくるのがはっきりと見えた。ここにいるのは、もう限界だ。頭もすっかり冷えた。
(帰ろう…)
自分の不甲斐なさにがっかりしながら、私は来た道を戻っていった。
いつものバス停の時刻表を見ようと時間をスマホで確認しようとすると、電池が切れていて、電源が落ちていた。駅前の柱時計を見に行って時間を調べると、もう23時半を回っている。とっくに終バスが終わっていることを知り、寒かったが私はバス通りを歩いて帰ることにした。家までの間に、よく使うコンビニがある。そこでなにか温かいものを買って、家に帰ったらすぐにお風呂に入って…
すっかりと冷え切ってしまった身体を縮こませながら、私は一歩一歩と歩いていた。
こんな時間にひとりで外を出歩くのは、初めてだった。バス通りのせいか、こんな時間でもまだ車の通りは普通にあった。夜道に不安を抱くことなく、私はただ心を無にして歩いていた。
間もなく、いつも使っているコンビニが見えてくる。しかし、見慣れているはずの店の前は、いつも利用する時間にはいないような酔っぱらいや柄の良くないような人がたむろしていた。今日がクリスマスだからか、たむろしている数人の手には、缶のお酒が握られている。そんな人々に悟られないようにしつつも警戒しながら早足で店内に入った。
手持ちがそんなになく、肉まんと温かいお茶だけ買って、またすぐに店の外に出る。そして足早に通り過ぎようとすると、私の前にふたりの男たちが立ちはだかった。
(まずい…)
さっきまで歩道のガードレールで寄りかかってしゃべっていた男二人組がニヤニヤしながら、「こんな時間に一人で危ないよ!」と言って近づいて来たのだ。
「大丈夫なんで…」
引き攣った笑顔だったかもしれないが、彼らには関係ない。
「そんな怖い顔しなくても大丈夫だよ。俺らと遊ぼうよ」
一人は私の腕を掴み、もう一人は馴れ馴れしく肩を抱いてきて、私の身体中の毛穴という毛穴が立ち上がり寒気がする。
「いや、あの、大丈夫なんで…」
そう答えてもなかなか諦めてくれない彼らに半ば強制的に連行されそうになれ、冷や汗が止まらない。焦っている私を見て、この男たちは面白がっていた。
「今日、寒いじゃん、もっと暖かい場所行こうよ。ね?」
体中冷え切ってて、思ったように身体が動かない。足がもつれそうになりながらも、彼らと揉み合いになってしまう。
(あぁ、こんな時に…!)
恐怖と疲労で泣きそうになっていると、もうひとつ、人の影の気配を感じたのだ。
「いや、『ね?』 じゃねぇよ」
第三者の声の持ち主が、私の腕を掴む男の手を掴み上げてポイッと離すと、その反動で男はよろめいていた。
「んだぁ、テメェ」
もう一人の男が掴みかかっていくが、いとも簡単にあしらわれていた。
二人男は口々に文句を言いながら私を解放し、その場から去って行ったのだ。




