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バスの恋人  作者: 夜月暁
第八章
16/25

8-前編

 やれることをやる、という目標を立てた私は、とりあえず期末テストを落とすことなくパスすることが第一だと考えた。その上で、彼を救う手立てを考える。簡単なことではないけれど、やらないといけないのは間違いない。

 12月に入り、駅前の通りはますますクリスマスに彩られていた。色とりどりのイルミネーションとBMGで溢れかえる駅ビルを背にして、バス乗り場でバスを待つ間、寒さで凍えながらも彼へのプレゼントのことを考えていた。

(今年もらったお年玉の残りがいくらかあるはずだから、それを足しにして今月は少し我慢すれば、またお年玉で臨時収入が得られる…よし)

 何を買うかをまだ決めていないが、使ってもらえるものがいい。

(やっぱり、コインケースかなぁ…)

 先日お店で見ていた革のコインケースが、色も形もジャストフィットという感じだったのだ。

(この間、お昼買うときに使ってたコインケースが擦れて穴が空きそうだったんだよな)

 渡せるかわからないプレゼントだが、あれこれと悩むことさえも楽しくて、それだけで胸がいっぱいになる。

 ただ喜ぶ顔が見たい。いつも笑っててほしいだけで…

 私ができることなんて、本当に少ない。だから、私を大事に思っていてくれてる人を信じることぐらいしか思いつかないのだが、何もしないよりはずっといい。

 確かめるように小さくうなずきながら、やっとバス乗り場に入っていたバスに乗り込んだ。


 クリスマスは会えないかもしれない、と言った彼だったが、平日の放課後にこの部屋に来ることは拒絶しなかった。部屋飲み事件の時に一度返した鍵だったが、再び手元に戻ってきたので、それを使って私は彼の部屋に通っていた。ここで勉強に集中して、彼が帰ってきたら解らないことを聞いたり、他愛ない話をしたりと、とにかく会わない期間を少しでも減らしたいと考えたのだ。

 それでも、テスト直前は彼が残業で私が帰るまでに帰宅するのは難しくなるだろうが、私の”会えなくてもそばにいる気持ち”を残しておきたい。漠然とそんなふうに考えていた。

 バスを降りた後、飲み物とおやつを調達するためにコンビニに寄った。何気なく手にしたおやつのチョコレートは、彼から初めてもらったチョコレートと同じものだった。

 初めて”オトナ”を体験したチョコレート… 

 売り場で見かけるたびにあの時のキスを思い出すのだ。何気ないただのチョコレートなのに、あれ以来自分にとって特別なものになっていた。今日はそれを買って、カバンにそっと忍ばせた。

 コンビニを出て、坂を上がって彼のアパートに向かう途中、チョコレートと一緒に買った肉まんを頬張りながら歩いていると、食べ終わる頃には到着する。身体が温まって、ホクホクしながら軽い足取りで部屋の鍵を開けた。相変わらず何もない部屋だが、いつの間にか愛着が湧いていた。私とあの人の唯一、自由に過ごせる空間。誰にも侵されたくない大事な場所だ。

 いつものようにコートを脱いでハンガーにかけると、すぐさまエアコンのスイッチを入れる。生活感のない部屋だが、私が来ることを意識してくれているのか、ゴミだけは溜めないで捨ててくれるため、いつ来ても綺麗だった。部屋が温まるまでくつろいでいると、思い出したかのように立ち上がる。私が寒いと言ったら買っておいてくれたクッションと膝掛けを押し入れから引っ張り出して、膝掛けを肩にかけてからクッションを座布団替わりにお尻に敷いた。

 勉強を開始して2時間くらいで、ドアノブの回る音がする。時計を見ると7時過ぎだ。いつもと大体同じくらいの時間に今日も帰ってきた。自然と笑みが溢れ、ドアが開くのを待った。

「おかえり」

 ドアの前まで駆け寄ると、大きな掌が私の頭に触れた。

「ただいま」

 数時間前まで同じ建物にいたというのに、全く別の顔をして、私にだけに答えてくれる。ただただこんな普通のやり取りが私にとっては特別で、私を見る目が優しさでいっぱいであることが解ると、たまらなく愛おしいと思う。外から帰ってきた彼に自分の体温を分けるようにぎゅっと抱きしめ合っていると、すぐに帰る時間になる。名残惜しくとも、また明日がある。明日のこの時間、きっと私は同じことを思うのだろう。

 大通りのところまで送ってもらい、そこでついに私たちの時間が終わる。そうして、勉強と彼の心のケアの両立を頑張っていた。

 大丈夫。私はいつでもあの人のことを考えている。そう思って過ごしていることは、無駄にはならない。

 今思えば、何が自分をそう思わせていたのか、あの瞬間を見るまでは、そんな疑問さえも考えつかなかった。自分がいかに幼くて、無力で、綺麗事を並べていただけだと気付かされたのだ。


 12月の半ば、月曜日からの5日間は、テスト週間だ。前の週の土日は残念だがテスト勉強に費やし、さすがに会うことはしなかったが、電話で話したり何らかのアクションで繋ぎとめ、彼が孤独に手を伸ばさないように気を付けた。

 テストが始まると、ついその後のことを考える。テスト週間の翌週は、成績処理があるため、彼は残業になるだろう。クリスマスイヴの前の23日は2学期の終業式があり、冬休みに入る。23日は職員の忘年会だそうだが、早めに切り上げて帰ってくると言っていた。夜に電話くらいはできるだろうということだったが、その日、何を話したらいいのだろうか。

 そんなことを思っていると、雪崩のようにテスト期間が終わり、クリスマスイヴの1週間前の週末になった。

 ふたりで小夜子のお見舞いへと出かけると、駅前の花屋の軒先に出ている真っ赤なポインセチアがたくさん並んでいた。その中の小さなポインセチアの鉢植えを手に取り、可愛い赤い葉が生い茂り、見ているだけで心が浮かれてしまう。

「買っていい? 病室に置いたら華やぎそう」

 彼も穏やかに微笑みながら、うなずいた。私はふふ、と笑みをこぼしながらポインセチアの鉢植えを手に入れると、手をつないでふたりで病室へと向かった。

 最近、小夜子の部屋を訪れると、彼女は眠っている時間のほうが長いように思えた。目を覚まして私たちがいることに気付くと、嬉しそうに笑ってくれる。今日もポインセチアを買ってきたことを報告すると、その情熱的に赤い葉を、目を細めて眺めていた。

 クリスマスが近いせいか、小夜子はしきりに彼の手を握りたがる。子を思う母の目は優しく、しわしわの小さな手で、大きな彼の手を包み込むようにしていると、その親子はもはや言葉など必要なかった。穏やかな表情でその時間を過ごしている彼らを見ていると、とてもじゃないが自分がここにいるのが場違いな気がして、私はそっと病室を出た。そして廊下にあるベンチに腰を下ろして、窓の外を眺めていた。

 少しだけ雲がかかっている空は、冬の寒空を連想させる。雲間から挿す日の光がまるで後光のようで、神秘的に私の目に映っていた。廊下は室内よりも少しだけ気温が低く、思わず手に息を吹きかけ温めていると、後ろから肩に私の上着をかけてくれた彼が立っていた。振り返り、彼の顔を見たときに、私は今までに感じたことのない切なさを覚えた。

 さっきまで母の手を握っていた彼は、窓の外を黙って眺めている。その視線は、ずっと遠く、心がここにいないことがわかった。それがいたたまれなくて、思わず彼に抱きついてしまった。

 驚く彼の瞳が揺れていたのも束の間、彼は私を見つめながら首を横に振った。それが何を意味しているのか、すぐにわかる。

「…最近、記憶が混同することが多いみたいで、俺のことを別れた親父の若いころに思っているみたいだった。小さい声で親父の名前を呼んで、嬉しそうに微笑んで…。裏切られるというのに」

 今まで面倒を見ていたのは彼なのに、20年も前に捨てられた男の名を呼んで喜んでいる母親に、彼は複雑そうにしていた。今や他の家庭を築いている父親に、声をかけるつもりはないようだが、最期に会わせてあげたいような気もする、と心の内を明かした彼。そんな話に、小夜子の命の長さがうかがえた。

「さっき、すごい幸せそうに笑ってて、切なくなって…」

 私は声を詰まらせ、言葉は途切れた。胸が痛い。

「幸せだった時を思い出しているのかもしれない。親父もいて、真理もいて、俺がいてお袋がいて、どこにでもある家庭で普通だったけど、それが俺たちにとっての一番の幸せで…」

 大きな手が私の髪に触れ、そこから伝わる温かい体温が胸の痛みを和らげた。私もこの人を癒したい。どうしたらいい? そんなふうに見つめると、ふっと目を細め彼は笑った。

「今日はもう帰ろうか」

 眠ってしまった小夜子の寝顔を一目だけ見てから、私たちは病室を去った。彼女は明日、どんな幸せを思い出すのだろう。どんな笑顔を咲かすのだろう。私には想像もつかないその幸せは、どこにたどり着くのだろう。


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