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バスの恋人  作者: 夜月暁
第六章
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6-後編

 思わず来てしまった、あの人の部屋。ひと言文句を言ってやらないと気が済まない。私は預かっているスペアキーで部屋の中に入った。開け放ったドアの向こうからは、変な匂いがする。アルコールが充満した部屋から漂ってくるその匂いに、私は思わず顔をしかめた。部屋を見渡すと、テーブルとその周辺には大量の空き缶が散乱したまま、部屋の隅で布団にくるまって寝ている家主を発見した。

 さっきのバスの車内で見た石原舞と同じように、気持ち悪そうにぐったりとした顔で眠る彼に、私は腹が立って仕方ない。私は寝ている家主に配慮することなく、窓を全開にした。

 外の冷たい空気が一気に入り込み、部屋の気温が一気に下がる。すると、冷たい風が顔を掠めたことに気づいた彼が、窓辺に立っている人影に驚いていた。

「誰…?」

 目を細めながら、その人影が私だとわかると、さらに驚いていた。

 しかし、私はそんな彼を無視してキッチンの引き出しからゴミ袋を取り出し、散乱した空き缶を片付け始めると、その様子を、彼は黙って見ていた。ゴミ袋いっぱいになった大量の空き缶をキッチン横に置き、部屋の中の匂いが和らいだことを確認して窓を閉める。そして、ようやく私は彼の前へと移動した。

「なんで…」

 二日酔いの頭痛で顔を歪ませながら尋ねる彼に、私は無表情で口を開く。

「さっき偶然、グッタリした石原先生と同じバスに乗り合わせたの」

 私の言葉を聞き、彼がハッとした顔をしたのを見逃すわけがない。

「…やましいことはしていない。店で夕飯を兼ねて飲んで話し込んでたら、もう終電がないって言うから…、仕方なくここで朝まで飲んでただけで…」

 彼の口にした言い訳は、あながち嘘ではないとわかる。しかし、私は簡単には許せなかった。

「学校であなたたちがなんて言われてるか知ってる? そんな噂が飛び交っている時に、こんなことやって、自覚あるの?」

「…ごめん、大きな声出さないでくれ」

 青い顔で頭の激痛に耐えながら、興奮する私を窘めるその態度は、私の大声が苦痛だと思っているだけで、きっと私の言葉など届いていない。石原舞も同じような状態だったことを思うと、今のこの人に何を言っても時間の無駄だ。そう悟った私は、さっき使った鍵をテーブルに置いて部屋を後にした。

 どうせヘロヘロで追いかけてなんか来ない。私はゆっくりと歩きながら、駅へと向かった。


 電車の座席に座っていると、携帯が鳴り出した。通話のようだ。しかし車内でその電話に出るわけにもいかない。というか、しばらくは話をしたくない。無視を決め込み、放っておくが、電話は何度もかかってくる。次の駅に到着した時に、私は仕方なくその電話に出た。

「…なに」

 とても、好きな人への対応とは思えない私の態度に、電話の向こうの人は恐縮していた。

『…さっきはごめん』

「それじゃぁ、何について謝ってるのか解らない」

『…』

 彼は言葉に詰まって言い淀んでいたが、私は小さくため息を吐いた。

「残業なのは仕方ない。仕事だし、それについては怒ってない。親戚のことだし、付き合いもあるんだろうとも思う。だけど、ただでさえ時間が限られてるのに、いつまで我慢したらいいの?」

 まくし立てながら不満を口にしてしまう自分が嫌だ。もっと聞き分けのいい彼女のほうがいいに決まってる。でも、今はそんなふうに『いい子』でなんていられない。これが受け入れられないなら、もう諦めるしかないのかもしれない。

「これから、私も遊びに行ってくるよ。男の子と二人だけど、別にやましいことなんてないから」

『それはダメだろ』

 声を荒げて反対する彼に、私の顔が紅潮する。

「自分はOKでも、私にはダメだって言うんだね。あなたは、昨日、同じことしたのに」

『今更、いとこと変な仲になんてならないよ、全然違う』

「いとこ同士は結婚できるよ。間違いが起きてもおかしくない」

『何も起こらないって!』

「相手が同じように思ってるとは限らないでしょ」

 学校での噂が、彼らの耳に入っていないわけないだろう。そして、バスで見た石原舞の満足そうな顔…。彼女より自分を取ったという優越感からくる笑みにしか見えないあの顔が彼への感情を物語っている。

『ずっと連絡できなくて悪かった。だけど、舞とは何もない。これからどうにかなる予定もないよ』

 あぁ、この人は何もわかっていない。そんなことを言ってほしいわけじゃない。

「それでもあの人を家にあげて朝まで飲むのを優先して。それは、私との時間を犠牲にしてでも、必要なことだったんでしょ」

『さすがに女子ひとり、放って帰れないだろ。いとこだし』

 これ以上は平行線のままだ。頭に血が上っている私でもそれは解る。でも、そうじゃない。何故わかってくれないの…

「じゃぁ聞くけど、昨日の夜、あなたはどこから電話かけていたの?」

 その問いに、彼は黙ってしまった。

「時間的にはもう終電は終わっていたんじゃない? ふたりであなたの家に行くことはもう決まってて、あの人がトイレにでも行ってる間とかに電話してくれたんじゃないの? ちょっとご機嫌を取るつもりでかけてきてくれたのかな」

『そんなんじゃない』

「私は出られなかった。だって理不尽に責めてしまいそうだったから。でも、あなたの仕事のことだから、ずーっと我慢してた。待ってたの!」

 あの石原舞の顔がさっきから脳裏にチラつき、離れない。

「信じる信じないの問題じゃない。あなたはすでに、私の嫌だと思うことをやってるの」

 私はそう彼に伝えると、彼の言葉を待たずにそのまま電話を切ってしまった。もし、私の価値観が間違っているなら、きっとそれは埋められない溝なのだろう。


 昨日の夜、圭太くんから会わない?と誘われた時、私はすぐに返信することはできなかった。

(フツーに、会うのはダメだよな…)

 いくら寂しいからと、ホイホイとついていくことはしないが、こんなふうに自分で出会いを広げていく人もいるんだな、と駅の彼に感心する。

『あ、もしかして彼氏いた?』

 私が返信できないでいると、そんなメッセージが入ってきた。

『そうだね。だから二人で会うのは無理かも』と返すと、頭の中には正也の顔が浮かんでいた。

『そっか。じゃぁ、仕方ないね。怪我させて本当にごめんね。また駅で見かけたら、声かけていい? 友達になろうよ』

 なんてコミュ力の高い彼なんだ! と思いながら、ヨロシクのスタンプを返した。すると、『またLINEするね!おやすみ!』とメッセージが届いて、やり取りが終わったのだった。


 乗り換えの駅のホームで、私はひとり取り残されていた。近くのベンチに腰掛け、今の状況を考える。ひとりで買い物に行こうと思って電車に乗ったのだが、そんな気もなくなってしまった。

(帰ろうかな…、もう服なんていいや)

 しかし、体が思うように動かない。ため息をひとつ吐き、私はしばらく行き交う人の波をぼんやりと眺めていた。するとなぜ私が失恋したように落ち込んでいるのか、ふと疑問に思い、苦笑いを浮かべた。結局のところ、オトナの事情なんてわからない私が彼と同じ土俵には上がれない。ただ、それだけなのだろう。

 私の色づきはじめた日常が再びモノクロームに戻っていく。退屈でただ時間だけが過ぎていく、あの日常にだ。

(…元に戻っただけだ。問題ない)

 2、3本の電車を見送ったあと、私は反対側のホームに移動をしようと立ち上がろうとしたその時、もう一本ホームに電車が入ってきた。この人の群れが引いたら移動しようと思いベンチに座り直すと、改札へと向かって行く人々が捌けるのを待った。するとひとりの人が私の前に立ちはだかった。その人の顔を見上げると、彼がそこにいたのだ。

「ここにいるって、よくわかったね」

 悲しそうな顔をしている彼に、私はそう口にした。

「…さっきの電話で駅のアナウンスが聞こえてきたから」

 それにしたって、とっくに移動してるかもしれないのに…。そうなったら、どこに探しに行くつもりだったのだろうか。体調はさっきと変わらず良くなさそうだ。顔色も悪いし、足取りもおぼつかない。そんな状況なのに…

(あぁ、もう…)

 イラつきながら、私は目を伏せた。

「男とふたりでって…」

 と、彼が切り出すと、私は首を横に振った。

「…行くわけないじゃない」

すると、彼は少しだけホッとした顔を見せた。

「…もう私は家に帰るところだから」

 ベンチから立ち上がり、反対側のホームに行くために階段向かって歩き出すと、彼は私の手首を捕まえたのだ。私の足が止まる。捕まれた手首は熱を帯び、熱い。それでも、私は振り返らなかった。

(わかってくれなくちゃ、私たちは終わる…)

 探しに来てくれたことは素直に嬉しいと思う。しかし、だからといって自分の気持ちを妥協するつもりはない。なぜなら、ここで自分を曲げたら、同じことで何度も傷付くかもしれない。お互いのためにも良くないはずだ。

「ずっと我慢させて、悪かった」

 私は首を横に振る。すると、彼は掴んだ手首を離し、私の髪にそっと触れた。そして大きなその手で、軽くポンポンする。

「うちに帰って話しよう」

 彼はそう口にして、再び私の手をそっと握り、階段へと歩き始めたのだ。


 電車内では隣同士で座るも、会話を交わすことはなかった。その代わり、彼は私の手をずっと握りながら、目を閉じていた。触れ合う肩からも彼の体温を感じる。私は少しだけ、彼の肩に頭を預けると、彼はそれを自然と受け入れてくれる。こんなふうにこの人に触れるのも久しぶりで、私は泣きたいくらいにドキドキしていた。そして大きくて暖かいその手に包まれるのももっと好きで、切なく胸が締め付けられる。

 私はただ、寂しかった。それだけだったと、今さらながら気付くのだ。言葉なんていらない。寄り添ってもらえなかったことが、ただただ寂しくて…

 電車は警笛を鳴らしながら、私たちの街へと戻ってきた。ほんの15分ほどの乗車時間だったが、隣にいただけで、私の気持ちは落ち着いていた。

「ゆい、お腹は? 空いてない?」

 駅の柱の時計を見ながら、彼は口を開く。私は自分のお腹をさすりながらうなずいた。

「…お腹空いた」

 手をつないだまま、他愛ない会話をしている私たちはいつの間にか元通りになっている。悔しいけど、今のほうが全然心地いい。

「ん。何か買って帰ろう」

 彼の家で、私は買ったお昼を食べていた。私の向かいに座った彼は、ペットボトルの水を浴びるように飲んでいる。

「…匂い、大丈夫?」

「うん、大丈夫」

 なるべく食べ物の匂いが出ないようにとサンドイッチを買ったのだが、怒っていた分のエネルギー消費による空腹には勝てず、躊躇もせず食べていた。

「美味しい?」

 私が余りにもガツガツ食べているものだから、その様子をおかしそうに笑いながら眺めている。その目は愛おしいものを見ているかのような、優しい目…

 そんな目を向けられると、不満を吐き出そうと思っていた心づもりが揺らいでしまう。

(ズルいな…)

 そんなことを思いながら、最後のひと口を押し込むと、よく噛んで飲み込んだ。

 そして私は、今度同じことをしたらもう知らない、と一言だけ告げた。彼は、「わかった」とだけ言って、相変わらず水を飲みまくっていた。

 後日、またちょっとしたゴタゴタが起こることもつゆ知らず、私たちは求めていたお互いの体温を貪るように抱きしめ合う。

 もう手放せないのに…。

 この体温を誰にも渡したくないと、私は思ってしまった。


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