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バスの恋人  作者: 夜月暁
第五章
11/25

5-後編

 翌週の月曜から、私は彼の部屋に足が向かなかった。きっと彼はいつものように部屋に私がいたら、笑顔で帰ってきてくれる。あの寝言のことなど気付くことなく、いつも通り優しく接してくれるだろう。

 私はまた、自分を優先してしまった。すごく悲しい夢を見た気がする、と言った彼を受け入れず、自分の受けたショックを隠すためだけに、あの場所から逃げた。そばにいると約束したのに、私はまだオトナにはなり切れない。この挑戦は、好きとか嫌いとか以前の問題で、なぜ私は無謀なことに足を突っ込んでいるんだろうと、自己嫌悪に陥っていた。

 私は、どうしてあの人の横にいるのだろう。あの人が本当に私を必要としているなら、その言葉を信じてそばにいる、と決めたというのに、私はまた揺れ動いている。

 本当は、他に好きな人がいる…? 夢にまで見てしまうほど大事な人で、私を替わりにしようとしているのかと、勘繰ってしまうのだ。そんな自分が心底嫌になる。


 あれから3日ほど過ぎた夜、風呂から上がって部屋に戻ると、私のスマホが鳴っていた。

(あ…)

 ディスプレイには、彼の名前が表示されている。私は躊躇ったが、その電話に出ることにした。

「はい」

『寝てた?』

 そんな時間だっけ? と思いながら、部屋の時計に目を遣った。まだ10時過ぎだ。

「ううん」

『そっか』

 いつものようにどうでもいい話題で十分楽しいのに、今日に限って気の利いた話題が思いつかなくて、私たちは沈黙してしまう。しかし、そんな沈黙を破ったのは、彼の方だった。

『土曜日さ、せっかく映画見てたのに寝ちゃって悪かった』

「それは、もう聞いたよ…」

『だけど、あの時のお前の辛そうな顔が気になってて。あの時以来、来てくれないから』

 あの時、そんなに酷い顔をしていたのか…

 私は今が電話でよかったと心の底からそう思った。

『申し訳ないんだけど、その理由がわからなくて、今電話してる』

 そりゃそうだろう。もう3日も前の夢の話だ。覚えてなんかいないだろう。それなのに、たかが夢の中にいたこの人を許せないなんて、自分がどれだけ小さいんだ。

『ゆい。理由を教えてくれ』

 彼の口は、惜しむことなく私の名前を簡単に呼ぶ。簡単に私を隣に置こうとする。手を繋ごうとする。その度に、私にその資格があるのか思い悩み、苦しくなることなんて知らないんだろうな…

「…私はなんでオトナじゃないんだろうね?」

 つい、そんなことを口にしていた。懐が広くない自分が醜く感じる。他の誰かを想いながら私に触れてくるならば、やはりあなたの言葉を信じるわけにはいかない。

「…私は単なる代用品なのかな」

『え?』

 想定外の問いだったのか、電話の向こうからは戸惑っている様子が窺える。私は躊躇うこともなく爆弾を落とした。

「他に好きな人がいるんじゃない? 『まり、行くな』って寝言を言ってて泣いてるの見たら、私はどうしてあげたらよかったのかな…」

 彼が戸惑っている今、寝言の内容を伝えると、急に訪れたのは静寂だった。静まり返る二人の通話。受話器の向こうで、絶句しているのが分かる。

今、自分がどんな顔をしているのか。どんなに醜い顔をしているのだろうか。本当に電話でよかったと思わずにはいられなかった。

「…もう覚えてないような夢の話で私は」

この会話を早く終わらせたくて、今度は私がその沈黙を破った。

「たかが夢だと流せなくて、誰かの替わりなら、浮かれてる場合じゃないなって…」

 あぁ、胸が痛い…

 濡れた髪にタオルをかぶせた状態で、溢れた涙がスマホの画面に落ちていく。

「ゆい、待って」

 その声はさっきとは全く違い、明らかに動揺している。

「お前が帰った理由はわかった。俺が本当に悪かった」

「でも、なんだか納得しちゃった。だって、どう考えたっておかしいもの」

 私を選んだ理由がそれなら、充分納得がいく。

「お前は、真理の替わりなんかじゃない」

「私はその"まり"さんに並ぶことすらもできない?」

「そうじゃない!!」

 その叫び声は必死だった。こんなにも動揺して大声を出してしまうほど、彼女は大事な人なのだろうか。

「…私がその人じゃないってことは、一番よくわかってるよ」

 酷く冷静だった。怒りでもなく呆れでもなく、納得してしまっている私は、それ以上の感情が湧かなかった。

 引き止められた時、心が揺れた。

 もしかして、なんて期待して。

 でも、違った。それだけだ。

 ため息を漏らさずにはいられなかった。

「3日も前の夢の話だよ? いつまでも私もバカだよね…」

 頭を冷やしたい。何も考えたくない。今は会いたくないし、少しだけ時間をくれたら、自分の気持ちを落ち着かせることができるだろう。私はそれだけ伝えて、この会話を終わらせたのだった。


 数日後。

 そろそろ中間テストが始まるせいか、彼の仕事は忙しそうだった。担任を持っていないからかあまり廊下などで見かけることがなくなったが、少なからずこの数日の間に授業で何度か彼の姿を見ている。そこで言葉を交わすことはないが、元気かどうかくらいはわかる。

「…少しやつれてたな」

『まり』と呼ぶあの人の声が、頭から離れなかった。切なく響くその声を思い出すだけで、自分の馬鹿さ加減に後悔するのだ。時間が欲しいとか言いながら、まったく頭の整理などできていなかった。しかし、考えても仕方がない。

「テスト勉強しよ…」

 私は制服をハンガーにかけて部屋着に着替えると、机に向かった。

 本屋で適当に買ってきた数学の問題集を開き、テスト範囲に付箋をつける。ペン立てからシャープペンを取り出すと、問題を解き始めた。

 数学をある程度こなした後、次は現代文をチェックする。その時だった。メールを知らせる通知音が鳴ったのだ。

 この音は…

 特別に設定した専用の通知音だ。

 しかしそんなことは無視をして、また勉強に戻り、集中しようとする。ところが2分後にもう一度通知が鳴ると、私は握っていたシャープペンを置いてしまった。そして乱暴に携帯を掴むと、メールを開いたのだ。

 写真付きのメールだった。添付されていた写真は、アルバムに収まっていたものを撮影したようだった。少しだけ古ぼけたその写真に写っていたのは、幼い少女と少女よりさらに幼い少年だった。小学生くらいだろうか。どこかの家の前で二人が横に絶妙な距離を置いて並んで写っているそんな写真だった。

 少年の方を目にした時、既視感を覚えた。あの人の面影が目の辺りにあったからだ。

 子どもの頃の写真?

 じゃぁ、隣の女の子は…

 そんなことを考えていると、今度はメールではなく電話が鳴った。

「もしもし」

 私が電話に出ると、受話器の向こうで安堵している気配を感じた。

「久しぶり。メール、見た?」

「…既読がついたから電話くれたんじゃないの?」

 質問を質問で返すと、苦笑いを浮かべている様子が窺えた。

「送った写真は、俺の子どもの頃の写真だよ。小さい方が俺で、隣に写っているのが姉の真理」

 彼は、はっきりとした口調でそう告げたのだ。

「え?」

 そう呟きながら、彼の言葉を消化する。

 姉の真理…

 "まり"は、お姉さん

 この人は、お姉さんの夢を見ていた。つまり、『まり、行くな』の意味は…

「お袋が話してたのは、真理のことだったんだ。俺にとってはちょっとしたトラウマで、俺から姉のことについてはあまり話せることはないんだけど、つまりそういうことで…」

 悲しい夢を見た気がする、と言った彼は、本当に悲しい夢を見ていた。昔の出来事が彼に夢を見せていた? なぜ、今更? 私は、ハッとした。

「お見舞いに行った時、お母さんが真理さんのことを話題にしたから?」

「お袋は、多分お前の真面目なところが姉貴の性格と似てると思っているのかもしれないけど、姉貴はもっとガサツだったから、全然似てないよ」

 この人は、喧嘩をして部屋を飛び出していった姉を止めようとした夢を見て涙を流した…

 私はそんなことすらも受け止められなくて、嫉妬していた。いかに自分がコドモであるかを痛感せずにはいられない。

「私…」

 本当に馬鹿だ。

「お前は悪くないよ」

「だって…。こんなの、ただのヤキモチ…」

 泣きたくなるくらい、自分は小さい。こんな私がこの人の隣にいていいの?

「前にお前のこと興味ある、って言ったの、覚えてるか」

 彼は続けた。その問いかけに答えなかったが、もちろん覚えている。言うことを聞かせるための方便だと理解していた。

「あれは嘘じゃない。俺の本心なんだ」

 穏やかな声が、私の耳元で響いている。

「俺はバスで出会った時から、お前を好きだよ」

 なぜ、そんなことを今言うの…

「…待ってるから、来いよ」

「え…」

 次の絞り出すように口にしたその言葉が、波紋のように頭の中に広がっていった。

「会いたい…」

 私が好きになった人は、どんな時も私を雑に扱わなかった。

 本当に、私を好き?

 何故?

 そんな疑問も消えないのに、私は通話を切って立ち上がっていた。そして、適当な服に着替え、家を飛び出していた。


 夢中で走り、ボロアパートの前まで来ていた。もう夜7時をとっくに回っていて、辺りは真っ暗だった。息を整え、ゆっくりと階段を登る。そしてコンクリートの外廊下を静かに歩いて、一番奥の部屋を目指した。

 呼び鈴を震えた指で押すと、すぐにドアが開いた。そして、伸びてきた腕が私の腕を掴み、ぐっと引き寄せたのだ。気付いたら、彼の腕の中に閉じ込められていた。だらしない伸び伸びのグレーのスウェット姿の彼が、私を抱きしめながら、髪に顔を埋めていた。

「不安にさせてごめんな…」

 消え入るような小さな声での謝罪ではあったが、ふたりの今の距離なら充分だった。

 自分の胸の鼓動と彼のが重なり、私は面食らったのだ。

「変な夢を見ても、一緒にいたいって思うのはお前だけで、そこに嘘はないんだよ」

 私みたいな特別でもなんでもないただの高校生なのに、どうしてそんな甘い顔を向けるの?

 思わず、彼のヨレヨレのスウェットを握りしめていた。

 本気で好きだと言うつもり?

「…もっといい人と出会えるだろうに」

 あなたなら。きっとそんなふうに甘えたら、他の女性は黙っていないだろうに。若い先生だって多くはないが学校にはいる。わざわざ手近なコドモに手を出さなくても、合コンとか同窓会とか出会いはいろいろあるだろうに。自分が、学校で憧れの的であることを知らないはずがないだろう。

「…え」

「私なんかを相手にするより、他にいい人なんていっぱいいるよ…」

 私がそうつぶやくと、抱きしめる腕の力が強くなった。

「…苦しい」

 顔を歪めながら、彼の胸を両方の手のひらで押して離れたのだ。

 赤い顔を背けながら下を向く。外はだいぶ気温が下がっていて肌寒かったというのに、汗をかいてしまいそうなくらい体温が上がっている。

 彼はそんな私の片手をぎゅっと握ると、手を引いて部屋の中へと歩いた。そして改めて私の姿を見て、彼は微笑んでいた。手近にあった、薄い紫のパーカーに、濃紺のスキニーデニムといった、今までにないくらいラフなものだったが、「可愛い」と言いながら、頭を撫でたのだ。

 私は恥ずかしさから、首を横に振る。まともに彼の顔を見れなかった。しかし、そんなこと彼が許さなかった。彼は両手で私の顔を挟み、顔を上げて私の顔を無理やり覗き込んでくる。目が合わないように逸らすも、追うように覗き込む。観念して目をぎゅっと瞑ってしまった。

(そ、そんなに見つめないで…)

 どうしていいかわからず足が震えてしまう。目を閉じてシャットアウトしたつもりが、触れ合うような短いキスを額に落とされたのだ。びっくりして思わず目を開けると、目の前にあったのは、愛おしそうに目を細め、優しい微笑を浮かべている彼の顔だ。

「やっと見てくれた」

 微笑から、しっかりにっこりと笑って見せる。私はその笑顔に弱い。しかし、今度は視線を逸らすことができなかった。どんなに嘘をついていても、私に触れているときは、嘘をついているときの笑顔ではないからと知っているからだ。

 顔が熱い…

 漏れる吐息も熱い。

 間近に迫る彼の顔。その微かな吐息さえも絡め取られ、奪われる唇。一瞬で頭の中が真っ白になる。

 好きだから、キスするんだよね…?

 なんて考えても、すぐに自分の思考が奪われていく。

 ずっと一緒にいられると信じてもいい…?

 幾度となく考えていたことだ。

 嘘が本当になる瞬間だと信じてもいい…?

 好きになってから、ずっと望んでいたことだ。

 気付いたら、私は彼の首に腕を回していた。唇が息継ぎで離れても、すぐに重ねられるように。あなたでいっぱいにしてほしいと願いながら…


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