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バスの恋人  作者: 夜月暁
第五章
10/25

5-前編

「あの時はごめんなさいね…」

 あの人がトイレに立った後、病室に残された私に小夜子がそう口にしたのだ。

「いえ…」

 私は小さく首を振った。

「びっくりしたでしょう」

「はい。少し…」

 私は正直にうなずいた。

「時々、辛抱できない痛みが私を襲うのよ。何かが身体の中で暴れるような感覚…。もうコントロールできなくてね…」

 申し訳なさそうに目を伏せた小夜子に、私はどんな言葉をかけたらいいのか、正直わからなかった。


 あれから3週間ほど経った今日、仕切り直しで私たちはお見舞いに訪れたのだ。

「大丈夫ですよ…。辛いかもしれないけど、こうやってできるだけ会いに来ますから」

 そんな返事で大丈夫なのかわからなかったが、精一杯伝えることしか私にはできない。すると、小夜子は嬉しそうに私の顔を見つめていた。

「…何か顔に付いてますか?」

 やんわりとそう尋ねると、彼女は首を横に振った。

「貴女を見ていると、懐かしい気持ちになるの。」

「懐かしい?」

 頭の中に、以前駅前のマックでポテトを食べていた時に真美が言っていた言葉が過っていた。

「わ、私、誰かに似てるんですか?」

 恐る恐る尋ねてみると、小夜子は小さく首を横に振る。

「雰囲気が、私の娘に似てるのかも。正也の姉に当たるんだけど」

 初めて聞く話に、私は黙って耳を傾ける。

「…事故で随分前に亡くなってしまってて。あの子から聞いてない?」

 私は首を横に振った。

「亡くなっているんですか」

「えぇ。10年くらい前かしら。私が離婚してすぐだった…」

 3人で暮らし始めてからすぐ、姉の真理が当時中学生だったあの人と父親のことで大喧嘩し、家を飛び出して行った彼女が車道で車にはねられて亡くなった、という痛ましい話だった。

 家を飛び出してしまうくらいの喧嘩って、何があったのだろう…


「貴女を見てると…」

 小夜子は右手を突き出した。そして私はついその手をそっと握る。

「抱き締めたくなるわ…」

 そう口にした彼女は、疲れてしまったのか目を閉じ、眠ってしまった。

 なかなか戻ってこない彼が気がかりだったが、今はつないだ手をそのままにして、その寝顔を見つめていた。




 彼が私を選んだ理由って、こういうことだったのだろうか。赤の他人を連れてきてもなんの意味もないが、確実に母親の希望になるような存在を探していて、ちょうどそれが“姉”に雰囲気が似ている私だった?

 もう聞かないと決めたのに、私の中で再び生まれた疑問。しかし、雰囲気が似てるだけで、顔が似ていると言われたわけではない。

(考えすぎかな…)

 穏やかなうちに終了した面会の後、私たちは病院を後にした。新たな情報として、他の家族の存在を聞いたので、単純に興味があるのは正直なところだ。

 100の質問には、もちろん兄弟のことも含まれていた。彼は、『一人っ子』と答えていたのに、過去に姉がいたという事実。お姉さんのことを詳しく聞きたかったが、さすがに躊躇いがあった。隠すほど、トラウマ級の傷を負っているはずだからだ。土足で踏み込むわけにはいかない。私は黙って彼の横を歩いていた。

一度駅に出て、お昼ご飯をテイクアウトしてから駅で来たバスに乗り、彼の部屋へと向かう。いくら学校関係者がいない街だとしても、誰に見られているかわからないため、私たちは不用意に二人で出歩くことはなかった。


 学校の後も病院の後も、二人で過ごす場所はいつも彼の部屋だ。買ってもらったデリを食べるのも、食べた後の昼寝もここ。

今日は日中、日が差していて、窓から部屋を照らしていた。着ていた上着を脱ぎ、ハンガーに二人分かけると、私たちはテーブルを挟んで向かい合わせに座った。彼は穏やかな笑顔を浮かべながら、買ってきたご飯を並べている。

 全く気にしないと言えば、またそれは違うのだが、例えばもしそう言うつもりで私を選んだとしたら、思い出さないのか、心配だった。

 しかし、今は何も問題なさそうに、買ってきたハンバーグを頬張っている。実際のところ、小夜子がそう感じるだけで、彼は気付いていないかもしれない。

「どうかした?」

 考え事をしている私に、彼の食べている手が止まった。そして私の顔を覗き込んでいる。

「あ、ううん。なんでもない」

 つい作り笑いを浮かべてそう答えてしまったが、口の側にソースをつけている彼の顔を見て、クスっと笑いながらつい指で拭ってしまった。

「ちょっ…、恥ずかしいからやめて」

 恥ずかしそうに口を手で覆いながら、彼はティッシュで口を拭う。

「あ、ごめん…」

 恋人のような振る舞いはもうしないと決めたのは自分だったことを思い出し、へらっと笑いながら気まずそうに手を引っ込める。ごまかすために、目の前のご飯を「おいしいね!」とか言いながらパクパクと頬張った。


 恥ずかしくて、まともに彼の顔を見ることができない。何か話題が必要だった。

「…さっきお母さんに聞いたんだけど、お姉さんがいたんだってね」

 当たり障りなく、決して踏み込まないようにサラリと話題に出し、彼の反応を窺った。

「あぁ。もう10年前に亡くなってるんだけど」

 食べながら彼は普通にそう返してきた。自然な会話だ。

「ほら、100の質問を返してくれた時、『一人っ子』って書いてあったから、びっくりした」

 私がさらにそう返すと、彼は一瞬だけ瞳孔を開いたが、すぐに目を伏せたのだ。

「…そうだっけ」

 彼は小さく笑いながらそう答えるのだが、それ以上は何も言わなかった。


 やはり、この話題はタブーなのか。だとしたら、余計に気になってしまうところではあるが…。お姉さんが亡くなる直前、喧嘩をしていたらしいから、やはり触れられたくないことなのだろう。

「なんか、私を見ると抱きしめなくなるって言われて、そんなこと言われるとなんかくすぐったいね」

 ふふふ、と笑いながら、私はプラスチックの容器の蓋を閉めた。そして、買ってきたペットボトルのお茶を飲んで、ふーっと息を吐き、ひと息つく。

「お袋、そんなこと言ってたのか」

 相変わらず彼も微笑みながら、食べ終わって空になった容器の蓋を閉め、空いているビニール袋に食べ終わったごみを片付け始める。やはり、目が合わない。

「こんな私でも役に立てるんだな、って思うと嬉しくなるね」

 それでも最後のひと押しにと私がそう口にしてみるが、やはり彼はそれについて話してくれようとはしなかった。話したくないなら仕方ない。これ以上、詮索するのをやめた。私も同じように食べ終わった容器を袋に入れ、口を縛った。そして、「ごちそうさまでした」と言いながら両手を顔の前で合わせた。


「…あ、この後、まだ時間平気? サブスクで、映画でも見る?」

 彼が立ち上がり、ゴミの入った袋をキッチン横に置いてあるゴミ箱に捨てると、こちらを見ながらこれからの予定をサクッと提案する。しかし私は首を横に振って、帰る準備を始めた。

「そんなに気を使わなくていいよ」

(だってこれ以上いたら、モヤモヤしてしまう…)

 話したくないと思っていることに理解はしているが、ついもどかしさを感じていた。しかしまだ何でも話せるような仲ではないということだろう。こんな関係になったのにもまだ日が浅い。当たり前だ。

「…今日は帰るよ」

 だから、今日はこれ以上聞かないために帰る選択をした。

小さく手を振り、立ち尽くしたままの彼に背を向ける。玄関先でロングブーツを履くのに手間取っていると、不意に彼の匂いがした。

 気が付くまでに数分かかった。今、自分は後ろから肩を抱きすくめられているようだ。次第に体温が上がっていくのがわかり、耳まで赤くなっていた。

「た、頼んでない。こういうのは…」

「ん…、俺がしたくてしてるの」

 耳元で囁く声は、とても甘かった。泣きたくなるくらい切なくて、振り切れない…

「ひとりになりたくないなぁ…」

「子どもか」

 気にしないふりをしてくすくす笑いながら私は突っ込むが、話してもらえないもどかしさはやっぱり消えてはいない。

それでもあなたは、私がそばにいたほうがいいの?

 そばにいる、と約束をしたのは私で、彼はそれを要求しているだけだ。私はブーツのファスナーを上げる手を止め、再びブーツを脱いだ。


「…映画、何見よっか?」

 抱きすくめられたまま私がそう口にすると、その力がフワッと抜ける。

「いいの?」

「…うん」

 すると、ぱっと彼の顔が明るくなるのだ。私がそばにいることになっただけで、彼が見せる嬉しそうに笑うその顔に、驚くほど胸の鼓動が跳ねている。そんなことを思いながら、私はまた上着を脱いだのだ。




 テレビの前に二人並び、私が選んだ映画を見ることになった。

見たかった長編シリーズのアニメ映画をリクエストすると、彼はそれを検索して再生してくれた。壁を背に座り、少しだけ暗くした部屋で、会話もせず流れている映画に集中していると、私の肩に彼の頭がもたれかかってきたのだ。

次第に隣から寝息が聞こえてくるのに、大した時間はかからなかった。


 え、早くない?

 びっくりしながら、恐る恐る横を見てみると、角度がズレたためか今度は彼の首は反対側に傾き、そのゆるゆるな彼の寝顔が私の目に飛び込んでくる。

「油断しすぎでしょ…」

 私は苦笑いを浮かべていた。ただでさえ仕事が忙しいのに、土日もなんだかんだで今日みたいに予定を入れてしまうから、ちゃんと休めていないのではないだろうか。この人は、私を決して粗末に扱ったりしない。子ども扱いをしない。そして、小夜子のあの発作以来、強がったりもしない。信用されている、と思ってもいいのだろうか。だが、まだすべてを信じていいのか、迷っている自分がいるのは確かだ。

 穏やかな顔をして眠る彼の甲に自分の手のひらを重ねた。

暖かい…

 いつでも手が届く距離にいるのが不思議に思えてくるほどだった。しかし今、指先から感じるその彼の体温が現実だと私に教えてくれる。


「キスだって、したくない訳じゃないんだよ…」

 眠っている彼に、私はつい思わずそう呟いていた。反応がない。きっと聞こえていない。

 お互いの思いが本当に通じ合っているなら、意味のある行為だと思う。だけど、今を取り繕うだけの関係かもしれないふたりがキスをしても、あとで寂しくなるだけだ。あなたはそれでもできてしまうのだろう。でも私はそんな悲しいキスはしたくない。

もう一度、繋いだ手の力を込めた。

 大きい手に包まれる感触は、心地いい。今だけは、素直に好きだと思ってもいいかな…

 テレビの光が眠っている彼の顔に反射している。眩しいかな?

穏やかに目を閉じるその寝顔に、私は心の中で呟いてみる。

 ねぇ、今、どんな夢を見てるの?

 今日は小春日和ともいえる、暖かな日だ。こんな穏やかな日に見る夢は、きっと幸せな夢に違いない。


「…ん…っ…」

 なんか、寝言言ってる…?

 耳元でムニャムニャ言っている彼に笑いながら、何を言っているのか耳を澄ましてみる。

 その時だった。

「まり…行くな…」

 微かに動いた彼の唇から溢れた言葉がはっきりと私の耳にこびりついて離れず、血の気が引く音を聞いた気がした。今さっき見た幸せそうな寝顔とは違い、急に眉間に深いしわが寄り、苦しそうな顔をしている。

 聞き間違えかと思ったが、私の名を呼んだ訳ではないことだけはわかる。

「まり…?」

 誰? と言う疑問が頭の中でいっぱいになる。(行くな…?)

 どんな場面?

 そしてもう一度、横で眠る彼の寝顔を見た。すると、頬が涙で濡れている。

(え…?)

 その涙を見た時、私は彼の体を揺らした。


「先生、起きて」

 何度か体を揺らすと、彼はゆっくりと目を開けた。

「あ…ごめん。寝ちゃってたな」

 そんなことを言いながらあくびをする彼を、私は眉をひそめながら見つめていた。

「…どうした」

 私の視線に気付き、彼はその理由を尋ねる。

「…急に険しい顔になって、寝言言って涙が…」

 戸惑いながら私がそう説明すると、彼はとっさに自分の頬を指で触った。そして自分の涙に触れると、「あ…」と声を漏らしたのだ。

「…なんかすごい悲しい夢を見た気がする」

 ポツリと呟く彼の顔を間近で見つめていた私は、彼が寝言で呟いていた「まり、行くな」が気になっていた。

「…そう」

 胸が痛い。しかし、そばにいるという約束をしたのは、私だ。それなのに、この息苦しさは何…

「…ごめん、やっぱり今日はもう帰るね」

 私は、泣きそうになるのを必死で堪えながら、彼を残して部屋を後にしたのだった。




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