もうひとつの人魚姫物語
もしアンデルセンの人魚姫が「赤いろうそくと人魚」の人魚と出会ったら。
海に面した城では王子の婚礼を祝う宴の音楽が聞こえていた。
そのベランダで泣いている亜麻色の髪の娘がいた。
彼女は人間の姿になった人魚であった。
(王子様。嵐の海で溺れていたあなたを助けたのは私。人魚は人間に姿を見られてはいけない掟。気を失ったあなたを浜辺に置いて見守るしかなかった。あなたのそばにいるために私は人間の姿になる薬を飲んだ。私の「声」を代償にして)
人魚だった娘は空を見上げた。ベランダの下の海は、葡萄酒色の夕闇に染まっていた。
(あなたは私を城に置いてくれた。だけど「声」を失った私は、あなたを助けたのは私だと告げられなかった。あなたが花嫁に選んだ娘は浜辺であなたを見つけて介抱しただけ)
ーあなたと結ばれなければ私は海の泡になってしまう。
娘は手の中のナイフを握り締める。(
このナイフで彼の心臓を刺し、その血を足に受ければ私は人魚にもどることができる。でも…)
娘は決意し、ベランダに足をかけ、海に身をおどらせようとした。
そのとき「待って!」という声がした。
水が泡立ち、黒髪の人魚があらわれた。
「私は東の国の人魚。私の話を聞いて!」
彼女は語った
。母親が暗い海の世界で暮すよりも人間の世界で生きるほうが子どもにとって幸せだと思い、ろうそく屋を営む老夫婦に赤子の自分を託したこと。夫婦に育てられた恩返しにと、ろうそくに貝殻の絵を描いて売ったところ店が繁盛したこと。
しかし、香具師にそそのかされた夫婦が自分を大金で売ってしまったこと。
運ばれていた船が嵐で沈んだおかげで檻から抜け出せたこと。
つらい思い出の故郷を離れ、西の海にやってきたのだという。
「あなたのことをずっと見ていたわ。人間なんかのためにあなたが犠牲になることは無いのよ」
しかし西の人魚は
(王子様を殺すなんてできない)と声の出ない唇で答えた。
黒髪の人魚は「それならば」と言って自分の鱗を一枚はぎとった。虹色に輝く鱗の根元には少しだけ人魚の肉がついていた。
「これを王子に食べさせなさい。西の人魚たちは知らないらしいけど、人魚の肉を食べた人間は、不老不死に…ヒトではないものになる。いつかはあなたのものになる」
その夜、亜麻色の髪の娘が城から消えた。
人魚だった娘が城から姿を消して何年かが過ぎ、王子は「王」になった。
しかし王はいつまでも若いままだった。后が老いさらばえて死んでも王の姿は変わらなかった。
家来たちは王を「悪魔」だと怖れ、地下室に幽閉した。
王の甥の孫が王位を継ぎ、長い時が過ぎ王国は歴史の流れのなかに消滅していった。
さらに長い時が流れた。かつて城であったそこは観光地となっていた。
たくさんの観光客がスマホでその城跡の写真を撮っていた。
それを見つめている青年がいた。端正な顔立ちで、どこか老成したような雰囲気をかもしだしていた。
(この城…。見覚えがある…もしや…)
そう思っている彼の背後で声がした。
「待っていたわ」
振り向くと亜麻色の髪の娘が立っていた。
「君はだれだ?どこかで見たような気がするが…そんなはずは…」
娘は青年の手を取り
「お話しましょう。これから始まるの。私たちの時間が」
と、あきらかに機械で合成された声で言った