07
「お前、だいぶ酷い顔してるけど大丈夫か?」
登校して着席直後の浩之に声を掛けてきたのは、仲の良いクラスメイト──的場武だ。机に手をついて心配そうに浩之の顔を覗き込んできており、何故そのような顔を向けられているか分からない浩之は不思議に思って首を傾げるばかり。
すると、そんな浩之の反応に肩透かしを食らったようで、呆れ顔へと変貌した武は、浩之の目の辺りを両手の人差し指でクルクルと回して指差しながら、
「いや、なんか、隈とか酷いし、目も腫れぼったいしで、全体的に死にかけてるぞ?」
「ああ、なるほど」
まるで目を回すトンボのようにクルクル回る武の指先を視線で追いながらも、浩之はようやく自身が昨晩は一睡もせずに大号泣し続けたのだと思い出す。
唯花に絶縁されて一晩泣き腫らした浩之だが、今朝の可愛いが過ぎる唯花のインパクトが強すぎて、すっかり頭から抜け落ちて過去の出来事となり果てていた。
ただ、今思い出しても今朝の出来事は不可解である。
浩之は間違いなく唯花から絶縁を言い渡された。にもかかわらず、何故か唯花的には絶縁などなかったと認識している様子で。
何故、お互いの認識にこのような齟齬が生じるパラドックスが発生しているのか──と頭を悩ませる浩之。しかし、ややあって、ひょっとして昨晩の感情の高ぶりで違う世界線に到達したんじゃなかろうか、と持論を展開。
唯花がいない世界で生きていける気がせず、絶望にも近しい負のエネルギーを放出し続けた結果。過去にまで影響を及ぼすほどの逆因果律を発生させてしまい、唯花と絶縁していない今の世界線を生み出してしまったのでは? ──というのが浩之が到達した推論だった。
であれば腑に落ちはするが、流石に突拍子が無さすぎてすんなりとは受け入れづらい。けど、いくら考えてもそれ以外の考えは思いつかず、一人で考え続けたところで埒が明かない──そう思い立った浩之は、思考を中断して武に目を向けると、
「なあ、武」
「ん? どうした?」
「俺、昨日の夜、唯花に絶縁されたんだけどさ」
「──────は?」
突然、浩之からとんでもないカミングアウトをされた武は、瞠目したまま口をハクハクと動かして「え?」「は?」と声にならない疑問符を漏らし続ける。すると、その動揺は周囲へも次第に伝わっていき。終いにはクラスのいたる所から「嘘?」「ホントに?」「なんで?」と驚愕の声が漏れ始める。
しかし、どのようにして端的且的確に武に伝えようかと悩む浩之は、顎に手を当てての思案に忙しく、周囲の様子になど一切気づくことはなく、武にのみ意識を集中したまま、
「まあ、絶縁されたのは俺がバカをやらかしたせいなんだけどさ。でも俺、悲しくってさ。一晩中泣き腫らしたんだよ」
「…………みたいだな」
労るようにして徐に頷いた武は、痛ましそうに浩之の目元の隈を見やる。それは周囲も同様で、「あんなになるまで」「ずっと一緒だったんだろ」「可哀想に」と、その声は憐れむものへと変化していく。
「そんなわけで寝ずに朝を迎えて、そのまま学校に向かおうと家を出たんだけどさ。そしたら、なんと──唯花がいつも通り家の外で俺を待っててくれてたんだよ」
「────ッ、浩之……お前ッ……」
浩之がハハと笑いかけると、武はいっそ泣いてしまいそうなくらい顔を歪めて浩之を凝視しだす。周囲からの声も「そこまで精神が」「そんなに病んで」「まさか幻覚まで」と浩之の精神状態を心配する内容に変貌を遂げていた。
「いや、俺もビックリしたんだけどさ。そんなわけで唯花と話してみたら、なんか俺、絶縁されてなかったらしくってさ。それってなんでだと思う?」
「もういいッ……もういいからッ……!」
今朝の唯花の可愛さを思い出した浩之は、自身の憔悴しきった顔色のことなどすっかり忘れて、朗らかな笑みを浮かべて武に問いかけた。すると武は、答えを返すでもなく、浩之の肩に手を置いてフルフルと頭を振りながら涙を流しつつ、ただ宥めてくるだけ。
その表情は悔しそうに歪んでおり、まるで何かを必死に耐えている様子で。けれど、意味が分からない浩之は首を傾げて疑問符を浮かべるばかり。すると、そんな浩之の様子に、武は諭すような優しい声で、
「浩之……お前さ、ちょっと疲れてるみたいだから……保健室で……休んでこいよ……。そしたら、きっと……きっと、元に戻るからッ……!」
武の言葉を皮切りに、周囲からは嗚咽が漏れ始める。男子は腕で目を覆いながら天を仰いで男泣きし、女子は俯きながら口を抑えて咽び泣く。その光景はまさにお通夜の様相。
けれどそんな中、周囲の様子に気づくことなく、武を見ながら首を傾げているのが浩之だ。
浩之としては、寝不足で体調が悪いのは認めるが、それは耐えられる範疇であり。それよりも、今朝方起きた絶縁に関するパラドックスの真相の方が気掛かりなわけで。しかし、何故だか武は男泣きするばかりで一向に協力してくれる気配がない。
そしてその上、感情で力加減がバカになっているのか、浩之の肩に置かれた武の手には力が入りすぎており、先ほどからギチギチと嫌な音を立てて指が肌に食い込んでいる。そのため、浩之の肩には激痛が走っていた。
野球部で四番バッターな武の握力で以って、このまま握り潰され続けると肩が壊死しそうだと考えた浩之は、苦悶の表情を浮かべながらも、
「武……俺は大丈夫だから、さ……少し、落ち着いてくれ、よ……」
「ああ、無理はするな……ちゃんと……ちゃんと、分かってるからッ……!」
「いだああああッ……!」
「そうだよなッ……やっぱり、心が……痛いよなッ……!」
「ああああああああッ……!」
「そうだ、泣いていいんだッ! 好きなだけ……泣けばいいんだッ!!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ……!!」
浩之の発言が起爆剤となり、号泣しながら悲痛な面持ちで男語りする武の握力が増大。それによって肩へのダメージが悪化した浩之が苦鳴を上げ。それによって武が更なる男語りをして握力が更に増大。それによって肩へのダメージが悪化した浩之が更なる苦鳴を上げ。それによって武が更なる男語りをして握力が更なる増大をみせて……
──完全に負のスパイラルが出来上がっていた。
訳が分からぬままそのシステムに組み込まれてしまった浩之に許されたのは、ただひたすら苦鳴を上げる装置に徹することのみ。
まるで秘孔でも突かれたかのような刺す痛みによって、浩之の末梢神経は全ての制御が奪われており、指先一つ動かすことが叶わない有様となっていた。
そのため、もはや自力での脱出は不可能だと悟った浩之は、第三者による助けを求めて、苦痛に耐えながらもなんとか顔を動かして周囲に目を向ける。
するとそこに広がっていたのは、全員が全員、こちらなど一切見ずに男泣き、ないしは咽び泣きに浸っているという、訳の分からない光景だった。
一人残らず悲嘆に暮れた様相で己の世界に没入しており、救いを求める浩之の視線に気づく者など居はしない。教室内は浩之の苦鳴と相まって、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。
そんな中、肩を掴んでいたはずの武は、いつの間にか浩之を立たせて、羽交い締めと言う名の鯖折りに移行しており。
武の無駄にムキムキに鍛え上げられた鋼の筋肉によって、内臓ごと締め上げられる浩之の苦鳴は更なる高まりを見せ、負のスパイラルによるダメージ悪化は更なる次元の無限螺旋へ進化を遂げていた。
そんな中、ただの苦鳴製造機と化した浩之は、薄れゆく意識の中で、『お前もう野球部辞めてプロレス同好会とか立ち上げろよ!』と、盛大に武を罵倒するも、これ以上は本気でヤバい──そう本能が警鐘を送ってきて、危機感が臨界点を突破し、
──誰か助けてッ!!
心の底から浩之がそう願った瞬間、まるでそれを聞きつけたかのように、
「ヒロ、英語の教科書貸して!」
バンッと勢いよく教室の扉を開け放った愛らしい少女の姿を見た瞬間。意識を朦朧とさせた浩之は、教室に天使が舞い降りた──そう本気で思った。
その背に受ける陽光はまるで天使の羽のような煌めきを見せ、艶めく亜麻色の髪は天使の輪を作り出す。
そんな愛くるしい姿の天使は、浩之が置かれている状況を見た瞬間、亜麻色に彩られた目尻を吊り上げて、
「なにヒロに抱きついてんの! この変態がーーーーッ!!」
キラキラと煌めく長い髪を翻したかと思えば、目にも留まらぬ瞬歩にて間合いを詰め、ドンッと床が揺らぐほどの衝撃を伴った踏み込みを轟かせる。
するとそのまま、脚へと返る全ての作用を推進力へと変換させ、腰の捻りでそのベクトルを前方へと押し流し、腕のしなりで速度を更に倍加させ──その全ての作用を余すことなく拳へと集束させるに至り。膨大な質量エネルギーを伴ったそれを、掌底で以って武の鳩尾に刺すようにして深く叩き込んだ。
「ぐぼあッ!!?」
解き放たれたその衝撃のほどは凄まじく、武の体が一瞬ブレたかと思えば、大柄で筋肉質な体が優に地面から足を離して、くの字に折れ曲がった姿勢のまま後方へと吹き飛んでいく。
そのまま教室の端へと到達したその巨体は、ズドンと轟音をがなり立てて壁に背を打ちつけると、「かはッ」と肺にあった全ての空気を口から吐き出し。そのまま壁との摩擦を伴いながらズルズルと地面へと落ちていき、尻骨が地面へと到達した武は、天を仰ぐように白目をむいた姿勢で泡を吹いて失神へと至った。
それはその場にいた誰しもにとって、まさに青天の霹靂であり。いつの間にか教室は、先ほどまでの喧騒が嘘かのように──シン、と静まり返っていた。
たった今起きた事象を細腕の美少女がもたらした──そのあまりにも異質な光景に、その場にいた誰もが瞬きすら忘れて魅せられており。先ほどまで混沌の渦であった教室は、今や吐息でさえ耳朶を掠めるほどの静寂に包まれていた。
皆の視線が集まる中、顔にかかった亜麻色の髪を左手で払った少女は、そのままその手を腰に当て、右手の人差し指を壁際で伸びている武に向かってズビシと突きつけると、
「またヒロに変な事したら、今度は容赦しないんだからねッ!!」
可憐な亜麻色の瞳を釣り上げながら宣言されたそれは、可愛らしくも凛としてよく通り、教室中に響き渡った。
その声を以って耳朶を震わせた者は皆、この愛らしい少女が決して逆らってはならない絶対強者なのだと本能が理解してしまい、青ざめながら身を震わせる。
しかし、これだけの事をしでかしてなお、手心があった──その事実を以って恐怖が更に上書きされた者もおり、この可愛らしい少女に対して畏敬の念と言う名の信仰を抱くに至り、熱い視線を送る者さえ出る始末。
もしこの光景を側から見ている者がいたならば、まるで一枚の絵画のようだと感嘆の声を漏らしたことだろう。それほどまでに、その少女の様相は凛々しくも可憐であり、神々しいまでの美しさを放っていた。
そんな中、寝不足な上に激しく血管を締めつけられ続けた浩之は、『唯花、マジ撲殺天使』──という心の声だけを残して意識を手放した。