06
「あー、眩しい……」
燦々と照りつける太陽に手をかざし、嫌そうに目を細める浩之がいるのは自宅の玄関前。今日も今日とて、憎らしいほどの晴天で。いっそ早く梅雨になれ! ──と内心で盛大に毒づく浩之。
あの後、一晩中泣き腫らした現在の浩之は、隈が酷いし、目も腫れぼったい。眠気による相乗効果も相まって、いつもより太陽が眩しいし、頭は鈍いしで、コンディションは控えめに言って最の悪。
「ふあーあ……。けど、涙って本当に枯れるんだな」
大きなあくびをしながら浩之が思い出すのは昨晩得た知見。脱水症状で死ぬんじゃなかろうか、というほど涙を流し続けた浩之だが、朝日が昇る頃にはスッカリ涙は枯れ果てて、ガサガサになった目は逆に乾燥して充血しだす始末。
そこから血の涙とかに移行したら恐怖な浩之だったが、そんな事もなく。涙と共にストレスホルモンをデトックスした結果、なんとか起き上がれる程度には精神が回復していた。
とはいえ、体調は悪いし、心は痛いしで、浩之的には学校を休みたいのが本音なわけだが。それを母親に伝えたところ、「いいから行ってこい」と玄関から蹴り出されて叶わずじまい。傷心な息子の気持ちを思いやれないとか鬼親である。
とはいえ、父親が死んでからは女手一つで自分を育ててくれている恩人であり、反抗期でもない浩之は渋々と言われた通りに学校へと向かい始める。
気だるい体をズリズリと引きずり、車の脇に停めてある自転車の籠に鞄をポイ。鍵を外して、スタンドを上げ。そのままカラカラと押し進めて、アコーディオン式の門扉をスライドしつつ敷地外に出てみれば、
「ヒロ、遅い!」
「────うぉうッ!?」
可愛らしくも怒気を孕んだ声が急に向けられ、浩之は肩をビクつかせて無様な悲鳴。
その声は浩之がよく知るものだが昨晩に絶縁を言い渡された間柄。あり得ぬはずだと、恐る恐る目を向けてみると、自宅の塀のそばで少女を発見。
しゃがんだ体勢でスマホを両手で持ちながら、不満げな瞳で浩之を睨んでいる亜麻色の髪の超絶美少女──完膚なきまでに藤堂唯花、その人である。
「は? え?」
ありえぬ人物との不意打ちエンカウントに、浩之は盛大にパニック。
もう二度と会うことがない想定で一晩泣き腫らした浩之なわけで。にもかかわらず、さもそんな事はなかったかのように普段どおりに待っていた様子の唯花。
確かに昨日までは一緒に登校していた仲なわけだが、昨晩の唯花からの絶縁宣言を以って、その関係には完全に終止符が打たれたはずで。けれど、ここにいるということは、そうではなくなるミステリー。つまり、ここにいるのは、
「唯花の偽物?」
「────は?」
「イエ、ナンデモナイデス」
眇められた亜麻色の瞳が放つ怒気が紛れもなく唯花の覇王色だと本能が感知。浩之は即座に自身の推論を完全放棄の上、諸手を挙げての全面降伏を決行。
しかし、では何故、唯花がここにいるのか浩之には理解ができない。
確かにハッキリキッパリ唯花から絶縁を言い渡された記憶持ちの浩之なわけで。あれが夢ではないのは一晩寝ていない浩之の体が証拠品。そもそも浩之が唯花の家の前でストーキングしている不審者なら納得だが、逆は不可解。
唯花の行動理由が皆目見当もつかず、両手を上げた姿勢のまま浩之が首を傾げていると、
「スマホ、なんで電源切ってるの?」
「──え?」
咎めるように睨んでくる唯花に対し、意味が分からず困惑の浩之。
確かに電源切りっぱなしな浩之だが、だからなんだ、という話である。浩之のスマホの電源が入っていようがなかろうが、絶縁した唯花には関係がないわけで。
つまりこれは、昨晩は浩之が一方的に通話を切った上に、電源も切ったので、もっと文句が言いたかった唯花が不燃焼で不機嫌な事態だと把握。
しかし、あれ以上は流石に無理だったので、浩之としては納得してもらうしかない。なので、その旨を伝えようと口を開こうとした瞬間、
「いいから、早く電源入れてッ!!」
「────ッ、イエス・マム!」
頭を下げて塞ぎ込む姿勢になった唯花が苛立ち全開で怒声を放ち、ビリビリと身の危険を感じた浩之は跳ねるように背筋をピンと伸ばして、軍隊式で全力敬礼。すぐさま鬼将軍の命に従い、鞄に手を突っ込んでスマホの捜索を開始した。
──けれど、どうしてこう急ぐ時ほど見つからないものなのだろう。
と、嘆くのは浩之だ。
ガサゴソと鞄の中を漁っても一向に見当たらない。確かに持参した記憶があるので、家ではないはずで。けれど、いくら懸命に探しても見つからず、時間ばかりが浪費され、唯花のイライラは増すばかり。時限爆弾な唯花が大爆発する前になんとかしたい浩之だが、捜索のスペシャリストではないため四苦八苦。
いつもの場所にも、他の場所にも見当たらない。尻目に捉える唯花の目の据わり具合から、そろそろ限界だと冷や汗な浩之。最後の手段で鞄を逆さにして中身を全て道路にぶちまけて、
「────ッ!?」
しかし、その中にも見当たらず、浩之は焦りの最高潮。唯花に目を向ければ、射殺しそうな視線で一触即発の臨界点。
もう駄目だ──そう浩之が諦めかけたその時、
「────あッ!」
天啓を得た浩之は、自らのズボンのポケットに手を素早くイン。そこに感じた確かな感触に、浩之の頬は自然と緩む。握ったその手を勢いよく天へと掲げてみれば、
光に晒され、露わになったそれは、まさしく浩之のスマホ。
実は、あとで電源を入れようと思った浩之が、いつも鞄にしまうところをポケットにしまったというオチで。浩之は先入観から鞄のみに意識を集中してしまった愚か者。
だが、間に合った。まさに紙一重の攻防で。しかし、浩之はやり遂げたのだ。
「うおおおおおおッ!!」
達成感に満たされた浩之は、天を仰いで叫んだ。
どれだけ探しても見つからず、もう駄目だと一度は諦めかけた。しかし、天は最後に浩之に味方したのだ。
目に映る晴天を見て、空はこんなにも青かったのかと浩之は感動した。辛い事もあった。悲しい事もあった。だが、今の自分を満たすのは充実感で。
この感動を分かち合おうと、意気揚々と唯花に振り向いた浩之は、
「電源、早く」
「あ、はい」
唯花から向けられる冷めきった瞳を見て、徹夜明けでおかしくなったテンションは一瞬で素に戻り、浩之は電源ボタンを長押しした。
*
「着信件数がエゲツねえ……」
自転車のハンドルに両手の前腕を置いて器用に自転車を操作している浩之は、ペダルを漕いで学校に向かいつつ、先ほど電源を入れたばかりの己のスマホを見て呆れ顔。
画面に映っているのは100件超えのバッジが付いたメッセージアプリ。二桁になることすら滅多にないのに、まさかの三桁でドン引きの浩之。何を隠そう、その偉業を達成した人物こそ、
「うっさい! ヒロがいきなり電話を切ったのがいけないんでしょ!」
浩之と並走している亜麻色の髪の超絶美少女は、顔を赤らめながら、そんな理不尽を怒鳴ってくる。
浩之としては、絶縁を言い渡された時点で精神が死んでいたので、死体撃ちしたかったとか言われても、無理ゲーである。
唯花の発言を無視しつつ、浩之はメッセージアプリをタップする。そのまま、唯花との個人トークを開くと、
「え? 何? 俺、こんなに恨まれてんの?」
トーク画面を埋め尽くすは怨嗟の念。『もう許さない!』『いい加減にして!』『ホントなんなの!』とバリエーションが豊富すぎるツラミ。
これほどの鬱憤が溜まっていたなら、確かに待ち伏せすら辞さないだろう、と納得の浩之。しかし、浩之の声を耳聡く拾った唯花は、
「ち、違うの! いきなり電話を切られて、しかも繋がらなくなるし、何かあったんじゃないかって本当に心配だったの! ──でも、部屋の電気はついてるのに、全然連絡つかないし、段々ムカついてきて、寝不足でイライラもしてたから、つい……そうなっちゃっただけなのッ!!」
「──────ッ」
その口調は怒鳴るようであり、しかし浩之の制服の袖を必死に掴むその指先はむしろ健気さに溢れていて、縋るように眉尻の下がった上目遣いを見てしまえば、それにどれほどの気持ちが伴っているかなど一目瞭然で。
その姿を見た瞬間、浩之は直ぐさま全力で顔を反対に背けて口元を手で覆った。何故なら、今の自分の顔を見られるのは非常にマズイ──そう瞬時に判断したから。
──ヤバいッ! 超・絶・かわ・いいッッ!!
浩之の胸中は、己に向けられた唯花の愛くるしさに魅了され尽くしていた。
いつもは勝気な唯花が浮かべる健気でイジらしい姿──そのギャップが浩之にとっての急所なのだと本能が理解してしまい、理性が一瞬で崩壊。
元々勝気で可愛い唯花だが、そんな存在に健気に縋られるとか男冥利に尽き過ぎて、もはや可愛いの暴力であり、長年被ってきた浩之の仮面は完膚なきまでに爆散して粉々。今や浩之に残された自衛手段は顔を見せぬまま時間を稼ぎ、自然と治まるのを待つことのみ。
しかし、顔を背けている状態にもかかわらず、先ほどの愛くるしい唯花の姿が脳内でリフレインし続けて頭の沸騰は一向に治まらず。顔には濁流の如く熱が押し寄せて赤みを増すばかり。心臓はバクバクと轟音をがなり立てて耳が痛く。手によって抑えられているはずの口角はなおも緩もうとして足掻き続け。荒れ狂う心には歓喜の津波が去来し続け、静まる気配が一向にない。
端的に言って最高であり、最高なのが唯花であり、浩之の思考はメロメロでドロドロ。
どうにかしなければ──と思う浩之だが、そんな事よりもう一度唯花の顔が見たい、という蕩けきった願望が頭をよぎる。が、最後の理性が警鐘を鳴らす──こんな顔見られたら一発でアウトだぞ、と。
唯花から顔を背けた浩之はプルプルと体を震わせながら必死に耐える。それを見てどう思ったのか唯花は、
「ヒロ、ホントにそんなつもりじゃなかったの! お願いだから、そんなに怒らないでよ!」
「お、怒ってない……から……」
懸命に服を引っ張りながら縋ってくる唯花。そのひたむきさに当てられて、理性の崩壊が更に加速する浩之は、悟られぬように必死に声を絞り出すも、それによって唯花は更に焦りを増していき、
「嘘! だって、こっち見てくれないし! 耳だって真っ赤だし! ねえ、ヒロぉ……お願いだから、こっち見てよぉ……」
「ちょ……ホントやめて……」
最後の理性さえ溶かしにかかってくる、グズグズと泣くような甘えた声。堪らなくなった浩之は自転車を停め、ハンドルに額を押し付けて顔を突っ伏し、手で胸を強く握りしめながら、ゼエゼエと荒い呼吸を繰り返す。しかし、いくらやったところで顔の赤みは引くことがなく、冷や汗すら滲みだす始末。
理性が完全に崩壊しかけている浩之は、自身が如何に唯花に弱いのかを身を以って再認識。
とはいえ、このままだと八方塞がりでバレるのは時間の問題。なんとしてでも顔の赤みと体の火照りを鎮める必要がある。どうにかしなければ──と必死に思考を巡らした末に浩之は、
「なあ、俺達って幼馴染を解消してるよな?」
「────────は?」
そもそも今の状況がおかしいのだと気づいた浩之は事実確認のためにそう質問を投げかけた。すると、それに対する返答は、体を芯から震わせるほどの冷めきった鈴の音で。その声色には先ほどまでの愛らしさなど欠片もなく、ただひたすら冷え切っていた。
理解が及ばぬ浩之が視線を向けると、そこにあるのは絶対零度の瞳で浩之を見下ろしている唯花の姿。その表情は能面なのに剣呑で、冷酷なのに怒気を孕み。それは決して刺激してはならない二面性を有した不可侵な修羅なのだと、浩之の本能が最大級の警鐘を以って知らせてくる。
先ほどまでの浮つきた気持ちは一気に冷め、サァと顔色が青ざめた浩之の心を支配するのは強者に対する絶対的な服従心のみ。
古武術を習っている唯花の一撃は人体を優に破壊する威力を持つことを重々承知な浩之は頬を引きつらせながら固唾を呑んで、ただひたすら下されるだろう沙汰を待つ。
──それは、〝バレる心配〟から〝殺される心配〟に内容がシフトした瞬間だった。
昏い光を瞳に宿した唯花は、浩之の首を片手で鷲掴みにすると、そのまま上半身を強制的に起こした。そしてそのまま、浩之の顔を自身の正面にまで持ってきた唯花は、口角を上げて仄暗い笑みを浮かべると、
「ねえ、ヒロ?」
「は、はい。なんでございませうか……」
その声は低く昏く淡々としていて──けれどそれすら魅力の一つではないかと錯覚するほど浩之の耳朶を艶やかに震わし、酔いしれそうになる浩之は上擦りながらも敬意を持っての応答を示す。すると、浩之のそんな従順な態度をよく思ったのか、唯花は更に笑みを深めると、
「世の中には言っていい冗談と悪い冗談があると思わない?」
「お、大いにそう思いますです、はい……」
「じゃあ、今言った冗談は?」
「も、もちろん謹んで撤回させていただきたく存じ上げる所存です、はい……」
「なら、今回は赦してあげる。──けど、もしまた、そんな冗談を言ったら、今度は絶対に赦さないから──ね?」
「しょ、承知つかまつりましてございますです、はい……」
尋ねるように小首を傾げた唯花の髪がサラリと頬を伝って顔にかかる。それは深淵を想起させるほどの昏い瞳を以って冷酷な微笑を浮かべる唯花に更なる闇色を彩るに至り。その姿はまさに地獄から訪れた妖艶な堕天使の様相。本来なら震えるべきその姿を見てなお浩之が思うことは、
──ダークサイドな唯花も可愛いな!!
という呆れるばかりの懸想であった。
色々と葛藤して一度は精神を壊しかけた浩之だが、結局は唯花のことが大好き過ぎて、唯花に構ってもらえたら全ての思考を放棄するというチョロインならぬチョーローの有様。
唯花に彼氏がいるという事実などスッカリ頭から抜け落ちて、唯花の怖かわいい姿を脳裏に焼き付けようと、ただひたすら惚けるのみ。
こうして、浩之と唯花の一夜限りの絶縁関係は、浩之的には何一つ理解が及ばぬまま、要約すると『次に絶縁とかほざいたら殺す』という唯花からの最後通告を以って、世にも奇妙な終わりを迎えた。
ここまでのすれ違いのみ、浩之視点だけでは補足しきれないため、最終話の後に唯花視点を投稿します。