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「ほら、長年の鬱憤があったとはいえ、今朝はほんのちょっぴりだけ私も欲しがり過ぎちゃったでしょ? だから、まあ、基本的にはほぼ全てヒロが悪いとはいえ、あんな事になっちゃったわけだし、多少は我慢しよっかなーって思った私って偉いでしょ? ねえ、褒めて?」
学食へ向かう道すがら、浩之の隣を歩く、女王様ごっこ狂いの超絶美少女──藤堂唯花は後ろ手を組んだ前傾姿勢で浩之の顔を覗き込みつつ、そんな弁明に見せかけた賛辞を強要してきた。
その態度からして然程反省の色は見えないものの、それでも五分毎に訪れていたあの恐怖から解放されたのだと理解した浩之は、
「ああ……唯花は偉いよ……本当にッ……!」
天を仰ぎながら噛みしめるようにそう零し、熱くなった目頭を手で抑えながら歓喜に震えていた。
それもそのはずで。
あの後、幾ら考えても打開策が浮かばなかった浩之は戦々恐々と唯花の訪れを待つに至り。次第に胃がキリキリと痛みだすわ、目眩はしだすわで、かなり精神的に参っていた。それこそ最終的には、嫌がるだろう唯花を騙してでも精神科医に連れていくべきだろう、とまで思い悩む始末だった。
しかし、唯花はこうして少なからず反省をしており、五分毎に愛を囁くという日常生活すらまともに送れないだろう破綻した状況から解放されたと分かった浩之の感動は、咽び泣きたいほどに──ひとしおだった。
そんな感涙する浩之の様子に気をよくしたようで、唯花は手を合わせてニパッと笑うと、
「でね、お詫びも兼ねて、今度は私がしてあげよっかなって思ってるの!」
「──ッ、ゆ、唯花がッ……!?」
唯花からの提案に驚いた浩之は瞠目し──しかし、つい期待に胸が膨らむあまり、頬が緩みだす。
あれだけ散々、愛の言葉を搾取され続けた浩之なわけで、それを今度は唯花がやってくれるということは即ち──唯花から愛の言葉を貰えるということであり。もしかすると今朝のも実は女王様ごっこではなく、たまたまそうっぽくなってしまっただけなのでは? ──と期待せずにはいられないわけで。
逸る気持ちを抑えながら、次の言葉を今か今かと浩之が待ちわびていると。唯花は指で作ったVサインを突き出してきながら、
「今日のお昼は私が、DXランチを奢ってあげるから一緒に食べよっか!」
「あー、そういう感じかー」
自信満々にドヤ顔を披露する唯花とは裏腹に、浩之は遠い目をして渡り廊下から見える空を見つめてチベットスナギツネの様相に至る。
期待してしまった分だけ、その虚しさはひとしおで──どうやら女王様な唯花は精神的な寵愛ではなく、物質的な褒美を下賜してくださるらしい。
なので結局、今朝のやりとりは女王様ごっこだったのが確定したわけで。浩之の淡い期待は直ぐさま儚く散る羽目と相成ったで候──南無三。
*
そんな傷心な浩之は、現在さらなる苦難に見舞われており。学食の席に座った状態で頬を引きつらせていた。何を隠そう、それを成し得ている人物こそ、
「はい、ヒロ。あーんして」
DXランチの主役とも言えるサイコロステーキを箸で摘んで浩之に向ける、上機嫌な絶対女王──藤堂唯花、その人である。
下賜されているそれを凝視している浩之は、取り皿を貰わない時点で薄々嫌な予感はしていたものの、それが現実となってしまったことに冷や汗が止まらなかった。
しかし、念の為という名の最後の悪あがきで、浩之は差し出されているサイコロステーキを指差しながら、
「あの、唯花さん。これはいったい……」
「ん? さっき言ったでしょ? 『今度は私がしてあげる』って」
「ははっ、なるほどね……」
さも当たり前のことを何故聞くのだ、とでも言わんばかりに小首を傾げる唯花。対して浩之は、望まぬ事態に頬を引きつらせて乾いた笑いを浮かべるばかり。
今のこの状況を一言で表すなら──公開羞恥プレイ、である。
こういう食べさせてくれる行為は、二人きりのような非公開の場だからこそご褒美になりえるわけで、学食という今後も毎日顔を合わすだろう数多の視線に晒されながらの場合は、完全に罰ゲームである。
事実、周囲からも『え? 本当にやるの? 今朝、男の方ぶっ飛ばされてなかったっけ?』的な期待少々驚き大半の奇異の目を多数向けられており、浩之の背中は汗でビッショリ。
今朝にアッパーでのされた相手に、昼にはあーんされている光景を目の当たりにするとか、一体どんな気持ちなのか浩之には全く想像がつかないし、いっそ浩之自身も今どんな気持ちでいればいいのか全く理解が追いついていない。
しかし、そんな事には何一つ気づいていない様子の唯花は、いつまでも食べない浩之を不審に思ったらしく、
「ヒロ、嬉しくないの?」
眉尻を下げて不安そうにそう問うてきた。しかし、唯花ファーストな浩之がそんな姿に耐えられるはずもなく、
「ははっ、感動して固まってただけだし! マジ嬉しいなー! いっただっきまーす!」
直ぐさま腹をくくり、引きつる頬を全力で抑えて笑みを浮かべると、感謝の言葉を述べて箸をパクリと咥える。
そのまま肉だけ引き抜くとモグモグと咀嚼を開始。羞恥で熱を帯びた口の中に広がるのは相も変わらずジューシーな肉汁と肉の旨味。それはとても美味しいはずなのだが、今は感情がパニックに陥っており、一切の味覚を失っていた。
しかしそんな事はつゆ知らず、浩之が食べたことに気を良くした唯花は、
「えへへ、よかったー。じゃあ、私も食ーべよっと」
「──────ッ!」
また一つサイコロステーキを箸で摘んで、今度はその愛らしいぷっくりピンクの唇でパクリと咥えて──その姿を目の当たりにした瞬間、浩之の全身に衝撃が走る。
──間接キス。
今、紛れもなく唯花は先ほど浩之が咥えたその箸を口に含んでおり、それは紛うことなき間接キスである。その事実を理解した瞬間、浩之はゴクリと喉を鳴らして固唾と共に肉を飲み込んだ──ので、少しむせそうにはなったものの、なんとか耐えると。次いで訪れるだろう事態に備えて、ただひたすらその箸の先端を凝視し続ける。
浩之の視線を惹きつけてやまないそれは、唯花が頬を含まらせながら咀嚼している間、唯花の唇から離れて宙で停滞していて──その湿り気を帯びた先端は天井から降り注ぐ光を浴びてキラキラと神々しい煌めきを放っており。その光景を目の当たりにした浩之は、また一つ喉を鳴らす。
焦ってはならない。顔に出してはならない。
あくまでも平静を装って、訪れるであろうその時を待ち続ける浩之。そして遂に、その愛らしい白亜の喉をコクリと鳴らした唯花は、その手に持つ箸を熱を上げる鉄板へと伸ばしてサイコロステーキをまた一つ摘むと、そのままそれを浩之へと差し出しながら、
「次はヒロの番だね。はい、あーん」
──遂に来た!
待ち望んだその時が訪れた浩之の心臓は一気に跳ね上がる。先ほどの煌めきが肉汁によるものなのか唯花によるものなのかは浩之には分からない。だが、その箸を唯花が咥えたという事象は確かに観測された事実であり、そこに疑いの余地は一切ない。
つまり、これをこのまま自らの口に到達することが叶えば、それ即ち間接キスが成立したことの証左であり。存在するかも曖昧な〝幻の初めて〟とは違い、確固たる地盤を持つ〝実在の初めて〟を手に入れることができる。
浩之は緊張と期待からまた一つ喉を鳴らしつつ、求めるそれへと向けて徐々に身を乗りだしていく。ただ、その速度は酷く緩慢で──しかし、確実に距離を詰めていき、瞳に映るそれは次第に存在感を増していく。そして遂に浩之の口がそれに到達したその瞬間、
「────あッ」
気づきの声を上げた唯花は、顔を赤らめながらヒョイと箸を戻してしまい、そしてそのまま自らの口へと入れて、浩之が求めてやまなかったそれを咀嚼し始めてしまった。
「は? へ?」
訳が分からない浩之は口を開けた状態のまま、声にならない声を漏らし、ただただ呆然。
しかし唯花は、そんな浩之の様子に気づきもせずに、恥ずかしそうに視線を逸したまま、小指を立てた手を赤くなった頬に添えつつ咀嚼を続ける。そしてそのままコクリと可愛らしく喉を鳴らして、遂にそれを呑み込んでしまった。
「そん……な……」
その光景を目の当たりにした浩之は、求めるそれを得ることは二度と叶わないのだと悟り、絶望に支配される。あと一歩で手に入るはずだったそれは、スルリと零れ落ちてしまい跡形もなく消え失せてしまった。
そしてそれを為した少女は、浩之を見やると恥ずかしそうにはにかみながら、
「いや、私の唾液がついちゃったし、流石に恥ずかしいなーって思って──ね?」
──可愛いけどもッッ!!
照れ笑いを浮かべて小首を傾げる唯花の姿に当てられながらも、内心でそう大絶叫する浩之。そして、そんな浩之の胸中には愛憎が渦巻きだす。
自分が求めたそれを奪った愛しくも憎らしい唯花。しかし、自分が求めたそれ自体が元々唯花のものであり。しかし、それは自分が手にするはずだったもので。しかし、唯花が望まぬならそれは仕方がないことであり。しかし、自分はどうしてもそれが欲しかったわけで────と、浩之の思考は意味を成さぬまま、ただひらすらグルグルと巡り巡る。
そんな中、いつの間にか席を離れていた愛憎の少女は、また席へと腰掛けると、
「ヒロ用の箸を貰ってきたよ。はい、あーんして」
──そんな絶望を告げてきた。
求めたそれを失った浩之に残されたのは、大衆の面前であーんされるというご褒美という名の恥辱のみであり、真の意味でご褒美となるものは何一つ得られず仕舞い。その事実を目の当たりにした浩之はただ引きつった笑みを浮かべるに留まり。そんな様子を見た唯花は、
「ヒロ、やっぱり嬉しくないの?」
そんな儚くも悲しげな瞳を向けてきたため──もちろん、唯花ファーストな上にヘタレな浩之に文句の一つも言えるわけがなく。即座に表情をにこやかな笑みに切り替えつつ──しかし、せめてもの抵抗で、
「ははっ、唯花にばっかりやってもらうのを申し訳ないなって考えてただけだし! ──というわけで、今度は俺がやろっか?」
「恥ずかしいし、それはいっかな」
「あ、そっすか」
攻勢に回りたかった浩之だが、にこやかスマイルの唯花に一蹴されて、敢えなく撃沈。
そもそも人にやっておいて自分は恥ずかしいとはこれ如何に。
しかも、浩之が咥えた箸を使っている唯花は浩之と間接キスしているわけなので、愛の言葉のみならず、間接キスすら唯花に搾取されるに留まっており。その上、浩之が得たのは公開羞恥プレイという恥辱のみな絶望感。しかもそれはまだまだ継続中なわけで、
「はい、ヒロ。あーん」
「わーい、唯花に食べさせてもらえて幸せだなー」
「もー、ヒロは本当に私のことが大好きで仕方がないんだからー」
「ははっ、モチのロンだぜー」
こうして自暴自棄へと至った浩之は味覚だけは取り戻したため、DXランチを美味しく頂くという最低限のご褒美だけはゲットに至る。ただ、その味は前に食べた時よりも何故か──しょっぱく感じたという。




