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「おはよう、唯花」
「──ッ、ヒ、ヒロッ!?」
自宅の塀の側でしゃがんで空を見上げていた浩之は、亜麻色の髪の幼馴染──藤堂唯花が家から出てきたことに気づくと、シュタッと手を挙げて声を掛けた。
すると、予期せぬ出来事に驚いたようで、肩をビクつかせた唯花は驚きの声を上げて、唖然と固まる。
それもそのはずで。
朝が弱い浩之はいつも予定時刻より数分は遅れるのが当たり前で、最後に唯花より先に外で待っていたのがいつだったかなど思い出すのも困難な有様だった。
そんな珍しく早く待っていた浩之だが、それはもちろん昨日の出来事による副産物だ。
昨晩、心の友ランキング暫定二位のクラスメイト──的場武との電話を終えた浩之は結局、昼に寝すぎた影響であまり眠れずじまいに陥り。結果、遅寝早起きで手持ち無沙汰となり、珍しく早めに外で待つに至ったわけだ。
そんな浩之だが、その心境は昨日に引き続き、非常に晴れ晴れとしたものだった。
その脳裏はスッキリと冴え渡り、澱などスッカリ消え失せた胸中はサワサワと心地よい風がそよぐ快晴の様相。それは実に三年以上振りの良好状態であった。
そんな浩之が唯一不満を覚えるのが現在の天気だ。
昨日までの晴天とは打って変わって、ぶ厚い雲に覆われた曇天模様。そろそろ梅雨入りなので仕方がないとはいえ、あれほど晴れ渡っていたにもかかわらず、今日という輝かしい日に限っていきなり曇ることはないだろう──とオコな浩之。
しかし、そんな事は些事であり、その心に一切の陰りはない。曇ったものは仕方がない──直ぐさま、そう諦めて気持ちを切り替える、ただそれだけの事。
そしてそれは唯花と会ってもまさにそうで、唯花は自分のことなど決して好きになってはくれない、だからなんだ──ただそう思うのみ。誰を好きになるかなど唯花の勝手であり、もはや浩之にとって、自分には関係のない他人事となった。
そんな浩之なので、今や唯花の顔を不躾に眺めることすら躊躇がなくなり。なんなら、現在の浩之は唯花の顔をジッと見つめ続けている。
「な、なによ……」
出会ってからずっと浩之に見つめられ続けた唯花は、たじろぐようにして一歩身を引く。しかし、浩之は気にも留めず近づくと、唯花の目尻に手を添えて髪を少し退かしながら、
「唯花、寝不足なのか? 隈ができてんぞ?」
「────ッ、え?」
ファンデーションで薄まった隈を見ながら、そう問いかける浩之。当の唯花は、躊躇なく顔に触れられたことに驚いたのか、頬をほのかに染めて瞠目するばかり。しかし、そんな様子など気にもしない浩之は、労わるように目尻を下げると、
「あんまり無理すんなよな。せっかく可愛いんだから勿体ないだろ」
「え、えっと……そのぉ……」
諭すようにそんな甘い慰撫を投げかける浩之。そんな仕草も言葉も今までであれば絶対にあり得なかったもので。まさにそう思ったのか、当の唯花は、戸惑いと恥じらいを綯い交ぜにしたような複雑な面持ちで視線を彷徨わせるばかり。けれど、その頬には朱が差し、口元には仄かな緩みが浮かんでいた。
すると浩之は、今度は唯花の目尻に触れている手とは逆の手を自身の顎に当てて、暫らく考えるように唯花の顔を眺めたのち、
「うん、それでも唯花は十分可愛いし、問題ないか」
「────ふえ?」
満足気に頷いた浩之は、目尻を緩めた笑みを浮かべて、さも当たり前のように、そう唯花をベタ褒めした。
その様子を目の当たりにした唯花は、浩之と視線を合わせたまま、気の抜けたような声を漏らして、ただ瞠目するばかり。しかし、その頬はニヤけるように緩み切っており、その姿を見た浩之は、
「ぷっ、なんだよ、そのふやけ口」
「──ッ、えっと、その……違うのッ」
噴き出すようにした浩之がカラカラと笑いかけると、瞬時に顔を真っ赤にした唯花は、素早く頬に手を当て、隠すように顔を背けたのち、意味を成さない言い訳を叫んだ。
普段とは違うそんな唯花も可愛いな──そう思って言っただけの浩之は、妙に恥じらう唯花の様子を不思議に思うものの、そろそろ学校に向かうべきだろうと思い至り、
「ほら、そろそろ行こうぜ。このままだと時間がヤバそうだ」
「──ッ、う、うん……」
急かすように声をかけた浩之は、自転車に跨がるとペダルを強く踏み込んで颯爽と駆け出す。
その姿を見た唯花はまだ平静には至っていない様子ながらも、急いで自転車に乗ると追従するように加速を強めて浩之の後を追っていく。
そのまま暫く進むと、自転車を漕ぎながら天を仰いでいた浩之は、
「あー、マジで天気わりーな。こりゃ、一雨来そうだなー」
カラカラと笑いながら、誰とはなくそんな呟きを発した。
すると、そんな後ろ姿をジッと見つめていた唯花は、赤くなった頬を隠すようにして俯くと、「そうだね……」と頬を緩めて返信を零す。
しかし、その喜色を含んだ言の葉は、次第に黒みを増し、淀んでいく湿り気に妨害され、笑みを浮かべながら前を走る浩之の耳に届くことは叶わなかった。
*
「ちゃんと約束を守ったか?」
登校して着席直後の浩之に声を掛けたのは、相も変わらず、心の友ランキング暫定二位の友人──的場武だ。
毎日、着席直後に話しかけられている気がするので、いっそ、そういった連続記録でも狙っているのでは? ──と疑いの目を向けたい浩之だが、今回は理由が明確なため、親指を上にグッと力強く突き立てると、
「おう、バッチリだ! ちゃんと包み隠さず思いの丈を伝え続けたぜ!」
やり切った達成感に満たされている浩之は、そうドヤ顔を返した。
何を隠そう、今朝方、浩之が行った唯花への態度は全て、武との約束によるものだった。
その約束とは、今の浩之にとっては至極簡単なもので、『一週間、気持ちを隠さずに、唯花に伝えろ』というものだった。
元々の浩之であれば、異性と意識してませんムーブに徹していたこともあり、決してそんな事は出来なかっただろう。しかし、唯花への想いが壊れてしまった今の浩之にとっては造作もないことで、ただ感じた事を口にするだけという流れ作業ですらあった。
「……そうか。で、どんな反応だった?」
「え? 反応?」
武に問われた瞬間、困惑に陥った浩之はドヤ顔を引きつらせた。
確かに武との約束通り、自分の気持ちを包み隠さず唯花に伝えた浩之だったが、それに対して唯花がどのような反応をしたのか、何一つ覚えていなかった。そして、思い出そうにも、その表情は霞がかったように曖昧で、その上、直ぐさま掻き消えて見失う始末。
しかし、その事が言いづらく感じた浩之は視線を彷徨わせながら、
「あー、確かいつも通りだったと思う、ぞ?」
「……ほう、そうか」
頬を掻きながら、曖昧にそう誤魔化す浩之。しかし武は、細めた瞳でそんな浩之を見定めるようにするばかりで。
その視線に居心地悪さを感じた浩之は、話題を変えるために慌てた様子で、
「そ、それにしても、本当にこんな報酬でいいのかよ? その……ほら、学食のDXランチとかの方が、全然コスパいいだろ? ──せっかくだし、今ならまだ、そっちに変えたっていいんだぜ?」
「いや、このままでいい」
「けどよ……」
「このままがいいんだ。──そのまま続けてくれ」
「ゔッ……わ、わかったよ……」
武の意志は固く、浩之の提案はすげなく一蹴された。
スゴスゴと引き下がった浩之だったが、このまま続けることに一抹の不安を覚えており──しかし、でもまあ、気のせいだろう、と直ぐさま思考を諦めて放棄した。
結果、気分が戻った浩之は、カラカラと笑いながら、
「武が要らないってんなら、せっかくだし今日の昼はDXランチにすっかな。──あっ、今更やっぱりそっちがいいって言っても、もう駄目だかんな?」
「ああ、名残惜しいが、そっちはお前に譲るよ」
「ははっ、なんだよ。やっぱ、どっちにするか悩んでたんじゃねーか。お前は無愛想だから分かりづらいんだよ」
「まあ、俺もアレは好きだからな。──ただ、せっかくだし、藤堂さんにも分けてやれよ?」
「おう、もちろんそうするぞ。ああ見えて、唯花はすげー食うしな。──ホント、あんな細身のどこに消えるのか、マジでミステリーすぎる」
昔から不思議に思っている唯花の胃の異次元っぷりを思い出した浩之は、顎に手を当てて首を傾げた。
ちなみに、その事を不思議に思った若き日の浩之は、食後の唯花の服を捲くって、直接お腹をペタペタと触る暴挙に出たことがある。しかし、膨れた様子など一切なく、あまりにも驚いたため「どうなってんの!?」と興味津々に瞳を輝かせて唯花に直接尋ねた。結果、顔を真っ赤にした唯花から全力のアッパーカットを繰り出されて意識を刈り取られた──という過去を持つ。
それは小学校の中学年くらいの出来事だったはずだが、その頃から既に唯花の凶暴性が垣間見えていたんだな──と浩之が感慨に耽っていると、
「じゃあ、その調子で一週間頑張れよ」
「おう! 楽勝だぜ!」
武からの激励に、なんの気負いもなくニカリと笑って親指立てを返す浩之。すると武はすれ違いざまに、浩之の肩をポンと軽く叩いて、「だといいがな……」と、そんな激励とも取れない不穏な言葉を残して、自分の席へと戻っていった。
その態度を不思議に思う浩之だったが、直ぐに切り替えて、これから食べるDXランチへと思いを馳せ始めた。
*
「ヒロ、お昼食べに行こう!」
慣れた様子で元気よく浩之の教室である2−Aに飛び込んできたのは十三年来の幼馴染──藤堂唯花だ。彼女の教室は2−Bで、残念なことに浩之とは別なわけだが──なってしまったものは仕方がない、と気にも留めない浩之は、
「おう、行こうぜ!」
そう溌剌と相槌を打って席から立ち、学食に向かうために、唯花と一緒に廊下へと出ていく。
そのまま廊下を暫く進むと、扉が開け放たれた状態の渡り廊下に辿り着き、今度はそちらに向かって歩を進める。
二年の教室は西棟の二階で、学食は東棟の一階にあるため、渡り廊下を通るのが一番の近道となる。
ただ、二階の渡り廊下には天井はあるものの、側面には一メートル強程度の高さの壁があるのみで密閉はされておらず、雨の日──特に風が強い日には使いづらいという欠点がある。
たぶん中庭に陽を差すためにそうしたのだと思うが、その為に利便性を捨てるのは如何なものかと浩之的には思うものの、天井すらない三階の渡り廊下よりはまだマシか──などと、朝より黒みが増した曇り空を眺めながら浩之が考えていると、
「今日のヒロはいつもと、その……少し雰囲気が違うみたいだけど、えっと──何かあったの?」
「ん?」
声を掛けられた方を見やると、横に並んで歩いている唯花が、後ろ手を組んで少し前傾姿勢で浩之の顔を覗き込んでいる姿があった。
その頬は少し赤く、瞳には何かを期待するような潤みを感じる──が、浩之は上目遣いで可愛いな、とは思うものの、それ以上は深く気にせず。顎に手を置いてフムと暫く思案したのち、
「いや、今までゴチャゴチャと色々考えてたんだけど。なんかもう、そういうのいいかなって思ってさ。過去ばっかり気にしてても、結局は今が動けなくなっちまうわけだし。──ならまあ、そういうのは一旦、全部忘れて、思うように生きてみようかなって思ったんだよ」
「ふ、ふーん。だから、今朝は、その……私のことも褒めてくれたの?」
「まあ、その一環だな。せっかく可愛い幼馴染がいるんだし、思ったままを伝えたまでだ」
「そ、そっか……えへへ」
浩之がさも当たり前だとばかりに笑いかけると、唯花ははにかむように頬を緩めた。すると丁度、
「あっ、雨が降ってきたな。──とっとと渡るぞ」
「────あっ」
横から入り込む雨で濡れぬようにと、唯花の手を取った浩之は、足早に渡り廊下を進んでいく。急に手を取られた唯花は驚きの声を漏らすものの、赤い顔を俯かせて、「うん……」と小さく返事をした。
しかし、間近にせまるDXランチで頭がいっぱいの浩之に、その声が届くことはなかった。




