01 プロローグ
「俺と付き合ってほしい」
中学校の夏服に身を包んだ、まだ幼さが残る十三歳の少年──長谷川浩之は真剣な眼差しで目の前の少女にそう告げた。
二人がいるのは見晴らしがよい丘の上の公園で、夜の帳を下ろす手前の色濃い夕暮れが描くのは背高くなった二つの影法師。
一つは、たった今、想いを告げた浩之のもので。もう一つは、その向かいに佇む亜麻色の髪の少女──浩之とは十年来の幼馴染である藤堂唯花のものだった。
告白を終えた浩之は、唯花の反応が気になりジッとその顔を見つめる。けれど、夕日を背にした彼女の顔は影に覆われており、その表情を見ることは叶わない。
今更ながら、もっと立ち位置を考えてから告白すべきだった──そう浩之は後悔する。
しかしそれは、どう思われているか読めないことへの恐怖ではなく。どちらかといえば、色好い返事をくれるであろう唯花がどんな表情なのか見れないことへの勿体なさからだった。
唯花と付き合える──そう確信している浩之だが、彼はなんの勝算もなくこの場に臨んだわけではない。
三歳で唯花と出会ってから早十年。家が隣同士である浩之と唯花は、誰よりも長い時間を共に過ごし、誰よりも心を許しあい、二人の間には確固たる絆がある──そう浩之は確信していた。
ただ、唯花から向けられているものが自分と同じ感情──恋慕であるか浩之には分からない。けれど、近しい感情ではあるはずで。少なくとも、試しに恋人になってもいい──そう思われる程度には慕われている自信があった。だからこそ浩之は今までの幼馴染という関係を壊しうる禁断の行為──告白に及んだのだ。
中学生となり思春期となった今、このまま幼馴染という関係を続けているだけでは、いつか他の誰かに恋人という形で唯花が奪われてしまう──そう気付いた浩之は絶対に嫌だと奮起して、恋人となるべくこうして唯花に想いを告げる決心をした。
一緒に居続けた時間に比べれば唯花のことを異性として意識してからの日はまだ浅い。けれど、出会ってからの十年間、ずっと唯花の隣に在り続けたのだ。今更、他の誰かにその座を奪われるなど浩之には絶対に我慢ならなかった。
だからこそ、なんとしてでも自分の元に引き留めようと、強い決意を持ってこの場に臨んだのだ。これから先も彼女の隣に居続けるために。彼女の一番であり続けるために。
けれど、その想いは全て──
「そういうのは、まだ早いんじゃない……かな?」
戸惑いを含んだ唯花のその一言によって全て無残に散ることとなった。
──十年一緒にいて、まだ早いとはこれ如何に。
なら、何時ならいいのか。あと何年経てばいいのか。そんな思いばかりが浩之の頭の中をグルグルと駆け巡る。
しかし、ややあって、これはつまり遠回しに『親友としては良いが異性としては見れない』──そう告げられたのだと浩之は思い至った。
そして、ハッキリと断らなかったのは自分を傷つけないための彼女なりの優しさに違いない──そう考えた浩之は、
「あはは、だよなー」
後頭部に手を当てながら軽い調子でそう笑い飛ばした。
しかし、その声に覇気はなく、心は酷く傷ついていた。
ふとした拍子に向けられる熱や恥じらう姿は異性に対するそれだと思った。けれど、それは全て浩之の勘違いで。思春期を迎えた唯花はただ羞恥を感じやすくなっただけのようだ。
完全に一方通行の想いだった──その事実に浩之の胸には抉られるような痛みが走る。
いっそこのまま蹲って泣きじゃくりたい。しかし、それは絶対に出来ない。何故ならそれは、心優しい幼馴染の厚意を踏みにじることになるから。
乾いた笑いを続けながら浩之はまた唯花に目を向ける。けれど、その表情はやはり影に覆われていて見ることは叶わない。
だけどきっと、想ってもいない幼馴染の告白に戸惑い、困ったような曖昧な笑みを浮かべているに違いない──そう浩之は思った。
*
「あー、彼女が欲しい」
天を仰ぎながら気怠そうにそんな事をボヤくのは先ほど十年来の幼馴染に告白して、見事に玉砕してしまった悲しい少年──長谷川浩之だ。
だが、その顔立ちからは幼さが無くなりつつあり、少年から青年に近づいているのが見て取れる。
それもそのはずで。
あれから三年が経ち、現在の浩之は高校二年生。地元の公立高校に進学し、今は自転車通学の真っ最中。
背高になった青田が生い茂る広大な田園風景が視界の端を掠めて行く中、陽を浴びて熱を帯びたアスファルトの車道脇を気怠げに走行しており。気晴らしに天を仰げば、そこに広がるのは雲ひとつない晴天で。
あの日からずっと曇り模様な自分の気持ちとは裏腹な天候を鬱陶しく思い、浩之が目を細めて睨んでいると、
「こんなに可愛い幼馴染がいるんだし、彼女なんて要らないんじゃないかな?」
「さいですか……」
隣から響く鈴を転がしたような声の持ち主に目を向けることなく、天を仰いだまま、気の無い返事をする浩之。
その対応が不満だったらしく、隣からは「むぅー」と拗ねたような唸り声が発せられるも、浩之がそちらに目を向けることは決してない。何故なら、目を向けると更なる小言を言われると熟知しているから。
なんせ浩之と隣で並走する少女との付き合いは十年足す三年で、早十三年。浩之が彼女について知らない事は、異性として見てくれない理由と、異性との交流を邪魔してくる理由くらいなものである。
そう、ここまで言えば分かると思うが、隣で並走する少女は、三年前に浩之が一世一代の告白をして玉砕した相手──幼馴染の藤堂唯花だ。
唯花とはあれ以降もズルズルと関係が続いており、今も仲良く並んで同じ高校に登校中。
傷心の浩之は気まずさから唯花と距離を置こうとしたのだが、何故だか唯花がそれを許してくれず。浩之が距離を置いた分だけ必ず詰められて、結局は元のまま、仲の良い幼馴染の関係であった。
精々変わった事といえば、浩之が女子と話したりすると、必ずと言っていい程、唯花が割り込んでくるようになったことくらいだろうか。本人曰く、「たまたまじゃない?」とのことなのだが、ほぼ100%発生するイベントをたまたまとは誰も呼ばない。
バッサリとフッておいて一体何がしたいのか分からない浩之だが、未だに唯花のことが好きなため、結局は何も言えず、現状維持に甘んじているのが実情で、
「けどもう、流石に高二だしなぁ……」
天を仰いだまま零すようにして浩之は溜め息を吐く。
このままズルズルと流され続けるのはお互いにとって良くない──そう浩之は思い始めていた。
唯花の妨害もあり、今まで浩之には恋人がいたことがない。だが、それは唯花も同様だった。
けれど、その内実は全く異なるもので。色恋沙汰と無縁な浩之とは違い、唯花は週一以上のハイペースで告白をされているらしい。
いっそ、その中の誰かと付き合ってくれれば自分も踏ん切りがつくと思う浩之だったが、そんなのは絶対に嫌だと思う気持ちの方が強いわけで。
結局は唯花に対して未練タラタラで、全く諦められない惨めな自分に嫌気がさして、浩之は溜め息混じりに、
「どこか遠くに行きたい……」
「いいねー。もうすぐ夏だし、今度は海にでも行こっか」
「…………」
虚空に向かって誰とはなく零した呟きは、耳聡い幼馴染に拾われすぐさま返信。しかし、それに対して浩之は、無言を以っての拒否に徹する。
隣にいる唯花は、はにかむような可愛らしい笑みをこちらに向けているに違いない──そう予想をつける浩之。だが、決して視認による答え合わせは行わない。何故なら、自身がその笑顔にすこぶる弱いと熟知しているから。
もし見てしまえば、またいつものように絆されて、約束を取り付けられる予定調和なのは日常茶飯事。だから、決して見たりはしな──
「ねえ、聞いてるの?」
「────ぐあッ!?」
唯花に片手で口元を鷲掴みにされた浩之は、そのまま頭部のみの強制的な方向転換転を強いられ、グギリと鈍い音を立てながら唯花へと振り向かされた。
結果、浩之の視界には、整った柳眉を釣り上げて、拗ねたように口を尖らせる、少し癖っ毛のある亜麻色の髪をした絶世の美少女──唯花の姿が映り込む。
その姿に見惚れた浩之は、あれから更に綺麗になったよな──と現実逃避するものの、横を向いたままでの運転は危ないため、ブレーキを握って減速開始。合わせるように唯花も減速して、そのまま二人揃って足をついての停車。
口を鷲掴みにされたままの浩之は、ホントこの状況なんなんだろうな──と途方に暮れるも、好きな娘に構ってもらえる嬉しさが込み上げてくる悲しい性で。己のチョロさに溜め息が出そうになると、
「で、行くんでしょ、海?」
いつまで経っても返事をしない浩之に業を煮やしたようで、唯花は小首を傾げた得意げな笑みで以って強制的な催促を発令。その態度からして、浩之に拒否されるなど微塵も考えていないようで。まさにそうである浩之は、塞がれた口の代わりにコクリと首肯を以っての返答。それを見た唯花は満足気に目元を緩ませると、
「素直でよろしい。ほら、遅刻しそうだし、急ごっか」
「……おう」
浩之の口から手を離した唯花は上機嫌なペダリングで颯爽と駆け出していく。ほんのりと頬を染めた浩之は、その姿を眺めながら諦めを含んだ溜め息を一つ吐き、少し遅れてペダルを踏み込む。
そのまま強めに漕ぎ進めた浩之は唯花との距離を縮めると、少し後ろをキープして追走へと移行。そして、少し前を行く鼻歌交じりの唯花の後ろ姿を眺めながら、顎に手を当てて暫し逡巡したのち、
「けど、もし彼女ができたらキャンセルで」
そうシレッと決意表明に及んだ。
残り二年を切った高校生活。浩之としては、やはり一度くらいは交際というものを経験してみたいわけで。
何故だか女子との交流を邪魔してくる唯花なわけだが、実際に付き合ってしまえば流石にそれも無くなるはずで。そのまま距離を取れば、唯花への恋心も多少は冷めてくれるだろう──と、そんな事を浩之が考えていると、
「絶対……認めないんだからッ……」
呻くように──と表現するのが正しいだろうか。
こちらに一切の顔を向けることなく、少し前を進む少女から僅かに零れたそれは、たまたま周囲に一切の音が無い静寂だったため、浩之の耳朶を微かにかすめた。
浩之としては、やはり──という思いより、何故──との思いの方が強かった。
それはそうだろう。
唯花が告白を断ったのは本人の意思なのでまだ分かる──いや、浩之としては本当は分かりたくないが──しかし、フッた相手の恋路を邪魔をする意図が浩之には分からない。
フッたということは付き合う気がないわけで、恋路の邪魔をしても意味がない。しかし、唯花は邪魔をしてくる。それは矛盾を孕んだパラドックスのようであり、浩之の頭を混乱させる。
だが、実際に起っている事象であり、何かあるはずだと考え、自転車を漕ぎながらも、浩之は思考を巡らし始める。ややあって、浩之はある一つの結論を導き出した。
「ひょっとして、ブラコン的な感じなのか?」
それに思い至ると、全てがストンと腑に落ちた。
フッたにもかかわらず幼馴染としての関係を維持しようとする行動は、異性としてではなく、あくまでも家族として接したいからであって。
他の女子と仲良くするのを邪魔するのは、家族に対する独占欲を拗らせたものだと説明できる。
それは即ち、唯花が浩之のことを家族として認識している証拠であった。
「マジかぁ……」
初恋相手が自分のことを異性として見ることのない純然たる身内──家族として認識していると気付いた浩之はガックリと肩を落として項垂れる。
幼い頃からの家族ぐるみでの付き合いが、よもやそんな弊害を生んでいたなど予想だにせず。浩之の初恋は家族でもないのに家族という壁に阻まれて世にも奇妙な終わりを迎えたわけだ。
「あー、太陽が眩しいなー」
天を仰いでみれば、相も変わらず憎らしいほど燦々と照りつける太陽で。それを見ながら浩之はホロリと男泣きした。
奇しくも今日は、あの告白から丁度三年目という節目の日であった。