愛しい教室
彼は教室で生徒に空手を指導している。
もっと踏み込んで力強く動け、もっと声を出せと時に厳しく声を荒らげる姿は
顔全体に生えた髭も男らしく短く切りそろえられた髪も、への字に屈折した表情も
無骨な風貌であったためにより威圧的に映った。
生徒の親御からは熱心で厳しくも生徒思いなよき指導者といわれる事もあれば
偏屈で厄介者だと思われることもあった。
彼は自分の教室に熱心に通う生徒を大層気にかけていた。
そしてやる気のない生徒にはほとんど関心がなかった。
彼の人への関心は殊更疎かった。
今月に一人、15歳の男の子が通い始めた。
元気はないが素直で従順な子で教えるには苦にならなかったが会話がたどたどしく
度々気に障るのだった。それでついに厳しく接するようになった。
厳しいというよりかは卑しく貶めようとした攻撃的な態度でとにかく罵声を浴びせた。
涙ぐむ男の子をみて己の権威を認識すると罪悪感よりかは教室に入りこんだ不順物を追い払いたいために、熱心な生徒のためだとかやる気がないのはお前の心持ちのせいだとか自己肯定的な考えが沸き上がった。
それから生徒は遅れて来たり、時に休むようになったがなぜか辞めることはなかった。
予想が外れたためにどうしようかと思ったが人を怒鳴るのにも退屈したので諦めて無関心でいようと決めた。彼はやる気のない生徒にはほとんど関心がないのだ。
自分が絶対的な主導権を握っている空間に取り除けない厄介な不純物を疎ましく思いながら、彼のいつもの日常は滞りなく続いていた。
*
空手を始めたのは母に進められたからであった。背の小さく華奢な少年で人と接するのが下手で良く同級生にからかわれた。気弱で今にも吹き飛びそうな少年の未来を案じて強く自信のある男になって欲しいと母は空手を習わしてみることにしたのだ。
通った空手教室の指導者はいかにも偏屈な男で好きになれなかったが気の合う仲間がいたこと、そして何より体を動かすことに楽しみを覚えたのだった。
空手から興味が離れることもあったが大人になるまで続け、空手の段位も技能も人に教えられるほど立派になった。彼は弱かった自分を認識している。そして今は人一倍、逞しくなったと自負している。空手に
打ち込んだ努力と時間が彼を成長させたのだと誇らしく思った。だから自分も空手教室を開いてこの体験を共有したいと考えたのだ。
彼が教室で特に熱心に指導している生徒が3人いる。才能があってどんな空手の型でも卒なくこなしてしまう天才型の細身な青年。小さい頃から通い続けてくれている熱心な大学生の男の子と高校生の女の子だ。来月には昇段試験をする予定で指導に更に熱がこもった。
ここはこうした方がいい。こうするんだと技を見せながら何度も練習して磨きあげていった。ただ教室にはほかにも生徒はいるわけで3人だけに掛かり切りなるわけにはいかなかった。完全に熱が上がり切った彼はやる気のない生徒をみては酷く苛立った。なぜ教えているのか、これに意味があるのかと疑問に思った。そしてこの空間にこびりついた不純物がとにかく気に入らなかった。彼の理想の空間を汚されるのが、彼の誇りを軽視されるのが心底腹立たしかったのだ。
指導中に一人がいかにも眠たそうに眼を半分閉じてふらふら立っていた。最初は注意することに留めたが一向に直らず眠たそうにしていた。また次の日も眠たそうにふらふらしていた。注意しても変わらなかった。それで手がでてしまった。
彼の鍛え抜かれた拳は彼の顔ごと壁まで吹き飛ばした。続けざまに蹴りを入れようとして誰かが止めに入ったのに気付いたが振り上げらた敵意は突然下せるわけもなく無意識の中にその者を蹴りつけた。
止めに入ったのは高校生の女の子だった。彼女は怯えた表情で震えながら軽蔑の眼差しを彼に向けていた。小さい頃は我儘で聞き分けのなかった彼女だったが空手に打ち込むにつれて輝いた尊敬の眼差しで彼を見るようになっていた。彼女が初めて見せた敵意に得体の知れない恐怖を覚えた彼は途端に自分の過ちに気づき血が引く。悪気はなかった、つい熱が入ってしまったと誤って取り直そうとしたがもう手遅れだった。
*
殴られた男の子が骨折していたことと止めに入った女の子も少なからず怪我をしていたこと、傷害の罪で訴えられたことで教室は続けられなくなった。彼は誇りである空手と人からの信頼と生きていく術を同時に一瞬で失った。鍛え上げられた体と磨き上げられた技能は他の者より明らかに頑強で母の望み通りに気弱で今にも吹き飛びそうな少年の姿はどこにもなかった。それなのに彼の未来は一瞬で消え失せた。
時より、事件の瞬間の風景が鮮明に思い出された。いったいどうしてこうなってしまったのだろう。あの少年さえいなければ、いなればこうはならなかったのにと思った。だがその度に冷ややかな女の子の視線が思い出されて酷く自責の念にかられるのだった。
彼はあまりにも孤独だった。磨きあげた上っ面だけ眺めていつの間にか別の挌上の存在になったと思っていた。彼の人への態度は昔の気弱でからかわれていた少年時代が作りあげた屈折した人間理解のままにどこまでも歪み続けていた。そしてどこにも居場所のない彼は唯一の安らぎの場を、自分が最大限に幸福な空間を教室に求めた。彼の心の拠り所はもうない。どこにも居場所のない彼はあてもなくふらふらと気怠けにさまよい続けるのだった。彼のいつもの日常は滞りなく続くのだ。




