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1/39

1.


 没落しかけた男爵家から逃げるように家を出て、はや三年。

 私、ソフィア・ラングレンは政略結婚の身代わりとして実家に連れ戻されることになった。


 政略結婚の身代わり。

 政略結婚させられるのではなく、その身代わりにさせられる。

 いまいちピンとこないけど、要は別人として他国に嫁ぐということ。

 遠縁の侯爵家の娘がその婚約を嫌がったため、私が彼女になり代わり、隣国の貴族に娶られるのだ。

 背格好と歳が近いからという、それだけの理由で。


 そんな身勝手がまかり通るのかと思ったが、彼女の両親も承諾済みというからわからない。

 何を考えているのか。

 バレたら両家の不和どころか外交問題にまで発展しかねないのに。

 正気の沙汰とは思えない。


 くだんの侯爵令嬢は、私を屋敷に呼びつけるなりこう言った。


「ああ嫌だ。こんな女が私として嫁いでいくだなんて」


 ……そっちが私を指名してきたんだろうが。


 横っ面をひっぱたいてやろうかと思った。

 でも、それができるならこんなところまで出向いたりしない。

 五つ下の弟のことを思えば、一人で逃げ出すわけにもいかなかった。

 

 私が弟と一緒に家を出たのは、弟が十にも満たない頃。

 つまりは私が連れ去ったようなもの。

 だから両親と姉達の仕打ちから逃れるためとはいえ、いくらかの負い目はあった。

 その子の生活は見てやると言われれば、黙って従うほかはない。


 それでもこの三年間、私はそれなりに幸せだった。

 身分を偽り騎士団に入った後は、一人で弟を養えるくらいには稼げていた。

 末席とはいえ剣の腕も立つ方だと自負している。

 爵位などなくても、この身一つでやっていくだけの力はあるつもりだった。


 けど、そんなささやかな生活も、上からの声一つで終わりを告げる。


 仕方がないと諦めるしかなかった。

 逃げてもきっとまた見つかる。

 一時でも自由だった時間があったのだ。それで良しとせねばならない。


 腹をくくり、ひとまずの生活は保障されると前向きに考えることにした。

 身代わりとして過ごすことも、それ自体はさほど苦ではない。

 地金は粗野でも元は貴族。心に仮面をつけて、演技で騙し通せるはず。

 幸い相手の男も、こちらの令嬢とはまだ会ったことがないと聞いていた。

 ならば別人だとバレることもない。

 そう自分に言い聞かせ、たかくくっていた。



 それなのに。



「見くびられたものだな。まさか別の女をよこしてくるとは」


 会った瞬間、一目で見破られた。

 

 何故。

 どこを見てそう思ったのか。

 よくよく考えれば、お忍びで遠間から覗き見たとか、色々と方法はあったように思う。

 けれどこの時の私はそんなことまで思い至らず、ただ心のままに尋ねてしまった。


「どうしてわかったのですか」


「お前からは何も感じないのでな」


 それがどういう意味かはわからない。

 失望されたような表情だけが、私の心に突き刺さる。


 男は問い返す。


「本物のディートリンデ嬢はどうしている。嫁いでいくはずの娘が生家に留まっていれば、いずれ身代わりを立てたことが知れるだろうに。お前らは阿呆なのか」


 ごもっともなお言葉だった。


「駆け落ちしました」


「何?」


「もともと彼女が婚約を嫌がったのは、好き合っていた男がいたからです。私がこちらへ向かうと同時に、彼女も国外へ発ちました。今頃はどこか別の場所で、その男と暮らしていることでしょう」


 これ以上隠す意味もないと思い、私はすべてを話すことにした。


 にわかに信じがたい話だが、エルファシオ侯爵家の令嬢──ディートリンデは、家の助けを受け、平民の男とともに王都から旅立った。


 彼女の両親が後押ししたそれを、駆け落ちと呼ぶのは違うのだろう。

 でも、なんとなくそう表現するのが合っているような気がした。


 家を飛び出したといっても、私のように暮らしに困ることはない。

 ありったけの金を持って出ただろうし、今後実家から送られもするだろうから。


 私は身代わりがバレたことよりも、むしろそちらの方が不可解だった。

 令嬢ディートリンデ、彼女の行いと、それがもたらす結果が。

 傍若無人な振る舞いをとがめられず、皆が従うなど。

 物語のお姫様の方がまだ我慢を知っているというものだ。


「己の力を過信したわけか。無理もないことだな」

 

 婚約者の男はそう言ってため息をついた。

 力とは何のことだろう。私には判然としない。

 銀色の髪と赤の瞳が、燭台の灯りに照らされてきらめく。

 こんな状況なのに、彼が放つ輝きに、一瞬心奪われた。


「だが、愚かな娘だ。これで自らの首を絞めてしまったわけだ」


 その一言で、はっと我に返る。


 首を絞めるどころの話ではなかった。

 

 身代わりがバレた今、もはやエルファシオ侯爵家に明日はない。

 隣国を欺き、彼らの顔に泥を塗ったのだ。それは戦争の火種にもなりかねず、最悪の場合、とがは外患の罪に値する。

 当然、実行犯で身分の低い私などは極刑を免れないはずだ。


 何の感慨もない表情でつぶやいたその男、ジュリアス・ファルケノス。

 隣国アルマタシオの貴族でも、最も力を持つファルケノス公爵家。

 若くして北の領土一帯を治める、新進気鋭の銀髪の当主。

 目の前の、氷のような男に己の命運がかかっていることを、この時私はようやく理解した。


「あの」


 声をかけてみたものの、言葉が続かなかった。


 どうすればいい?

 何を嘆願すれば聞いてもらえる?

 

 否。何もだ。

 この状況を逆転できる釈明の言葉などありはしない。


 刃を突き付けられたわけでもないのに身体がすくんでいた。

 鼓動が徐々に早くなる。

 視線を落とすと足元の影が歪んで見える。

 死の恐怖で視界がおかしくなったのだと思った。


 だが、その影が突如ぐねりとうごめく。


 ひとりでに。影法師が崩れ落ちるように。

 目を疑い、もう一度そこを凝視すると。


 幻ではなく、本当に影が動いていた。


 その影は静かに、泥水のように公爵へと向かう。

 しかし次の瞬間、それは急速に人の形を為して盛り上がり、中から本物の人間が這い出てくる。


 その手には白銀の剣。

 現れた男は、公爵めがけていきなり斬りかかってきた。


「──危ないっ!」


 我知らず体が動き、私は燭台を襲撃者に投げつけた。

 灯りの火が顔にかかり、相手は怯む。

 その隙に壁に掛けてあった剣を取り、私は公爵をかばうように立ちふさがる。


 状況がまるで理解できなかった。

 けれど、容易に想像のつくことでもある。

 私は思考を無理矢理戦う時のそれに切り替える。


(おそらくは刺客。どこの手の者かは知らないけど、この若き公爵を狙ってきた……!)


 しかし私が剣を構えても、黒ずくめの男は相対する様子を見せず、一歩後退する。


 再び影の中へと溶け落ちる。


 「あっ」と思った時には遅かった。

 悪寒がはしる。

 刹那、公爵の背後──壁際に写った彼の影がゆらぎ、今度はそこから刺客が現れる。


 空間を飛びこえる転移魔法。

 敵は影から影へ、その身を瞬時に移動させていた。


「──下がってッ!」


 私は公爵を押しのけ、刺客との間に割って入った。

 身体は叫ぶより早く動いたが、迎撃が間に合わない。

 白刃が降り下ろされ肩口が斬られる瞬間、すべての動きがゆっくりになって流れてゆく。


 鮮血で世界が真っ赤に染まる。


 自らの体を盾にして刃を受け止める。何故そんな愚かな真似をしたのか。


 後のことなど何も考えていなかった。







「──おい。聞こえているか。おい!」


 遠くから声がした。

 艶のある低い男の声。


 記憶がはっきりしない。

 確か私は公爵をかばって斬られたはず。

 刺客に倒れ込みながら、瀕死の体で敵の喉元に剣を刺したこともおぼろげながら覚えている。

 

「何故俺を助けた。答えろ!」


 これは……公爵の声だ。

 叫ぶことができるのなら、彼は無事なのだろう。

 良かった。

 つまり私は守ることができたのだ。


 どのように説明すれば彼は納得してくれるだろうか。

 意味などない。ただ危ないと思ったから、とっさにそう動いてしまっただけなのに。


 いや、もはやそんなことはどうでもよかった。

 そもそも私は死罪になるはずの女だ。

 絞首台に乗せられるのも、ここで死ぬのも大して変わりはない。

 それより気がかりなのは、私が死んで一人になってしまう弟のこと。

 

 遠縁の侯爵家が取り潰されようと、私がここで果てようと、弟のグスタフだけは幸せに生きてほしかった。

 唯一心残りがあるとすればそれだ。

 不出来な姉がいなくなっても、あの子は笑っていてくれるだろうか。


「……ねがい……ます。どうか……だけは……」


 だから私は最後の力を振りしぼり、目の前の当主にそのことを嘆願した。

 途切れ途切れで伝えられたかはわからない。

 意識が遠のき、確認するすべもなかった。


 だが、銀髪の公爵は苛立ったように私へと叫んだ。


「お前は寵妃でもない! そうなる素質すら持ち合わせていないただの人間だ! なのにどうして俺をかばった!」


 どういう意味だろう。この人は何を言っているのか。

 

「死にたいのか! ただの死にたがりならそこで朽ち往かせるが、それで満足か!」


 よく聞こえない。

 それより弟だけは、グスタフにだけはどうか罰を与えないで。


「俺の問いに答えろ! 質問しているのはこっちだ! お前の弟など知ったことか!」


 ……お願いします。

 私はどうなってもかまいません。

 ですから、どうか。


「……くそっ!」


 声が止んだ。

 彼の気配が少しだけ離れ、すぐにこちらに戻ってくる。


 視界がぼやけて、もうよく見えないけれど。


 剣が鞘から抜かれる音。

 頭上から水滴が落ち、顔にかかる。


 これは……血……?


「選ぶがいい。安らかな死か、煉獄の生か。望む方をくれてやる」


「死にたく……ない……」


 不意に声のトーンが落ちた。

 静かな声音は何故だか優しい響きも伴っていた。

 その声につられて、私はつい本音を漏らす。


「いいだろう」


 口元に侯爵の手首が近づけられ、滴り落ちる赤い液体が私の喉奥に滑り込む。


 そして、新たな命が芽生える感覚とともに、鼓動が再び脈打ち始めた。

 けれど再生に力を使いすぎたのか、急速に意識だけが遠のいていく。


「……許せよ」


(……? 許すって……何を……)


 何もわからない。

 どこか悔いるような謝罪の言葉を聞きながら、私の心は闇に落ちていった。



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