7
「この時間にこの方角から、か。カイナル、見えるか?」
「旗は二枚。ミルデハルトと……うちの紋章ですね」
早口で交わされた会話にシュリアの理解が追い付かない。
(旗? 旗なんてどこにあるの!)
するとカイナルが、街道のど真ん中へと躍り出た。
「止まれ! 止まるんだ!」
迫り来る早馬に向け、自身を盾に停止を求めている。
(何てことを! カイナル様!)
訓練された騎士だから絶対に大丈夫と分かっていても、シュリアから見れば完全に自殺行為だ。
(あの人は騎士、心配することはない!)
それに相手も、馬に慣れていなければあの速さで走らせまい。ちゃんと止まるなり、最悪でもカイナルにぶつからないよう何とかするはず。
胸の前で両手を組み、一生懸命に言い聞かせた。
ところが、カイナルに気付いた馬上の人は、全くもってそれどころではなかったらしい。
「止まれないんだよぉぉぉ! 頼むっ、退いてくれぇぇぇっ!」
涙混じりの警告が辺り一帯に響き渡った。
(と、止まれないっ?)
大問題だ。見守る使用人の間にざわめきが走る。
「速度を落とせ! 体を使って手綱を引け!」
どんなにカイナルが説得しても、返る言葉は退けろの一点張り。押し問答の間にも距離は詰まり、馬にしがみつく馬上の人がはっきりと見て取れるようになった。
(このままじゃカイナル様がっ!)
今や、体を揺らす原因が地響きなのか鼓動なのかも分からない。
視界の両端にカイナルと猛進する騎馬を捉えたシュリアは、大惨事を予感して目を閉じた。
「ライル! お前ならできる!」
「無茶言うなぁぁぁ!」
そこで、振動が止まった。
「死んだらどうするんだ! 俺を人殺しにするつもりか!」
「現に止まれただろう。ちゃんと馬に乗れるようになって良かったな」
「乗れてねえよ、乗せられてたんだよ!」
紋章が染め抜かれた二種類の旗。一枚はミルデハルト伯爵家の図柄で、もう一枚はザックハルト子爵家のもの。
体に固定した旗の長い柄を乱暴に外し、乱れた黒い頭を更に掻き乱す闖入者は、どう見ても親しい様子でカイナルと向き合っている。
(急伝馬、とかおっしゃっていたけれど)
何か、重大な知らせを運ぶ役割の人だろうか。
(それにしては馬術に問題があったわ!)
じゃれ合うように言葉を交わす二人へと、ミルデハルト伯爵が歩み寄る。
「君はザックハルト子爵家の急伝馬なのかね?」
「そうだった、こんな所で足止めされてる暇はなかった!」
任務を思い出して勢いをぶり返した男を、ライル、と再びカイナルが呼んだ。
「王都まで行ったら、伯爵様は領都に向けて出発したばかりだって!」
「やむなくお前に急使を任せざるを得ないとは、一体何が起きたんだ」
「本当にそのとおりだけど失礼だな!」
屋敷に賊が入ったのだと、一転して低く落とされた声は、かろうじてシュリアにまで届いた。
襲われたのは、書庫と書斎。
(それは、まさか……)
可能性に思い至ったのは、シュリアだけではない。
「久し振りだなライル。気付いて貰えないようたが、私はここだ。話を聞こう」
ミルデハルト伯爵は、シュリアたちが乗っていた箱馬車に向けて歩き出した。
その後ろ姿をちらちら見ながら、思いがけない展開に男は戸惑ったようだ。
「興奮のあまりご本人を無視してしまった……」
「気付いて欲しかったようだぞ」
「ですよね……」
伯爵の最新式豪華馬車は修理途中だ。意図を察した女衆は、箱馬車から離れて手持ち無沙汰に修理の様子を眺めていた。
急伝馬とは、緊急かつ重要な要件を伝達する際の非常手段で、各領地を治める家の旗を掲げた馬を指すそうだ。
この旗があれば領境の出入検査が免除され、場合によっては夜間閉鎖中の関門すら開けさせることができる。情報を速やかに運ぶ必要性から、あらゆる面での優遇措置が認められていた。
ただし、使用するにはそれなりの理由が必要で、王城への事後報告義務がある。悪用や濫用を防止するため、他にも細かい約束事があるのだのか。
「ミルデハルト領は各地に領主代理がいらっしゃるので、伯爵家の下に自分たちの家の旗を掲げるのですけれど」
「急伝馬が運ぶのは明るい話ではありません。ザックハルト子爵家に何かあったのかしら」
ライルと呼ばれた男の声が届かなかった侍女たちは、そう言って顔を曇らせる。
もしも聞こえていたとしても、彼女たちがその意味を理解することはない。「歴の書」を狙った集団の存在は、使用人にすら伏せられていたからだ。
(書庫と書斎が襲われたということは、やっぱりそうよね)
ミルデハルト伯爵家のタウンハウスを襲った「闇の光」が本拠地を狙わない訳はない。そう睨んだからこそ、夏の事件の後、ミルデハルト領の各地に注意を促したとも聞いていた。
だから、急伝馬を使ってまで伯爵家に伝えようとしたのだ。
(でも、ザックハルト子爵様のお屋敷を?)
普通ならば領都のミルデハルト城を襲うだろうに。
考えても答えが出ず悶々としていると、話し合いも早々に箱馬車の扉が開いた。
最初に姿を見せたミルデハルト伯爵の厳しい眼差しが、シュリアを捉えてはっと見開かれる。
「カイナル、シュリアは……」
名前を出されて首を傾げる間もなく。
「お連れします」
続いて現れたカイナルが、力強く言い切った。
「馬車はどうする、馬一頭しか貸してやれないぞ」
「十分です。ここからレンブルクは近い。馬車を用意する時間があれば着いてしまうでしょう」
「分かった。私は予定どおり動くから、くれぐれも頼む」
話の流れからして行き先が変更されたようだが、おろおろするシュリアに答えを与える者はいない。
(ねえ、どういうこと?)
ザックハルト子爵の屋敷に「闇の光」が現れ、カイナル=ザックハルトが急遽レンブルクの屋敷に向かう。
そこまでは分かる。
(私まで?)
目を瞬いているうちに、荷物の付け替えだ何だと、あれよあれよと準備が整えられる。
「素敵ねぇ。あなたを離さない、ですって!」
「よろしくて? 子爵夫人を必ず味方になさい。味方にできなければ未来はないと思いなさい!」
シュリアの肩を抱くように交わされた夢見がちな台詞は、完全に耳を通り抜けた。
何の説明もないまま、我に返ったときには馬の上。馬体から放たれる熱をスカート越しに感じて、生々しさのおかげで現実が戻った。
(わわわ、高い、馬の上って高すぎです!)
同行するはずだった一団の不安そうな顔を見下ろすと、一気に混乱が押し寄せる。
しかし、すぐ後ろに乗ったカイナルの片腕が腹に回され、しっかり抱き込まれてしまえば、別の焦りが先立ってそれどころではなくなった。
「目を閉じていればすぐ着きますよ。少し飛ばしますから絶対に喋らないでください」
聞き返そうにも、短い挨拶を終えて馬首をかえたカイナルに取り合う雰囲気はなく。
シュリアは、腹をくくって身を任せた。
ところがカイナルは。
素人を同乗させ、さらには後続にも素人が操る馬を連れていることを忘れたかのように、現場へ急ぐ騎士団そのものの様相で馬を走らせた。
(どこが、少し、飛ばす、なのよ!)
確かにこれならすぐ着きそうだ。
顔面を打つ凄まじい向かい風に、注意されるまでもなくシュリアの口は引き結ばれた。