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 お尻が痛い。

 そこそこ蓄えたお肉も、その奥にある骨も、初めての体験に泣いている。

 それだけではない。バランスを取ろうと意識しすぎて、背中も悲鳴を上げ始めた。

「う、うわぁっ!」

 突然の大きな浮遊感に、色気も何もなく悲鳴が漏れる。

「着く頃には慣れるわよ。危ないからちゃんと持ってなさい」

 天井からぶら下がる縄を親切に差し出したのは、うんと年下の澄ました侍女だ。

「あ、はい、ありがとうございます」

「こんな安物の馬車、わたくしだってお尻が痛いわ。気分を悪くしないように背筋を伸ばしていなさいな」

「そうね、背筋を伸ばした方が揺れにも強いわね」

 同年代の侍女からも指摘されて、言われたとおりの姿勢を取る。

 そこへ再び。

「わわ、わぁっ!」

 車体が大きく上下した。

 座面の上で跳ねる勢いを殺しきれず、掴んだばかりの縄にしがみつく。

 打ち付けたお尻が、本当に痛い。

 涙を浮かべながら一人で騒ぐシュリアの様子に、同乗する二人の侍女は顔を見合わせた。

「あと二日以上もあるのに大丈夫かしら……」

「せめて、もう少し可愛らしい悲鳴にならないと……」



 簡素な内装の箱馬車で顔を突き合わせているのは、ミルデハルト伯爵家の女性使用人である。

 一行は、ミルデハルト領へ向けて街道をひた走る。

 二人の侍女は、シュリアの同乗など許されようもない領都出身のお嬢様だ。女主人不在のタウンハウスで細かな残務を片付けていたが、冬を前にようやく本拠地へ戻れるのだとか。

「町と町の間は道が悪いから我慢なさい。もう少し行けば揺れも収まるわ」

「次の町に着けば昼食ね。頑張りなさい」

 涼しい顔をしていられる秘訣があるなら、今すぐ教えてもらいたい。

 こんな安物と扱き下ろされてしまったが、乗り合いの辻馬車しか知らないシュリアには十分に立派な貴族仕様である。

 しかし、その乗り心地は。

(ザファルを出て、まだ、半日も、経っていないのに!)

 とっくに辟易していた。

 思い出すのは子供向けの書物。馬車に揺られるお姫様は、お菓子を摘みながら楽しいお喋りに興じていたはず。

(お菓子、なんて、舌を噛むわ!)

 まるでお姫様の馬車みたいと、内心で舞い上がった今朝の自分を殴りたい。

「あら、どうしたのかしら?」

 不意に、年若い侍女が窓の外へ顔を向けた。

「止まるみたいだわ」

 言われてやっと、車輪が地面を割る単調な音が静まり、揺れが小さくなったことに気が付いた。

(か、神の救い……)

 そして、馬車は完全に停車した。

「お嬢様方、失礼しますよ」

 声と共に外から扉が開かれて、見知った男性使用人が顔を出す。

「何かありまして?」

「旦那様の車の足まわりに少し問題があって、ちょっとお待ちいただけますか」

「それは大変ね。旦那様にお怪我は?」

「部品が駄目になっただけですから。交換用の新しい部品もありますんでご安心を。天気が良いので旦那様方は外で休憩されてますが、どうしますか」

「それじゃあ、わたくしたちも参りましょうか」

 さあ行きましょうと、軽やかな足取りでステップを降りる侍女の後ろ姿は、お尻の痛みなど微塵も感じさせずに美しい。

 一番の下っ端でありながら鈍い動きで最後に降り立ったシュリアは、優雅な所作を生み出す陰の努力に脱帽した。



 道の脇に馬車を寄せ、修理の手を入れる男衆から少し離れ。

「今日は移動日和だな。見ろ、雲の一つもない」

 淡い水色の空を指差すミルデハルト伯爵を遠巻きに、固まった筋肉を解そうとこっそり背を反らしていたシュリアは。

 つんと、背中に誰かの指先を感じた。

「まだまだ練習が必要ね?」

 サリエル夫人に怒られちゃうわよ、と。

 優しい声音は同年代の侍女のものだ。

「あ、はい、そうでした」

 如何なるときも人目を忘れるべからず。ミルデハルト伯爵家に仕える者として恥じない振る舞いを。

 裏方のメイドだろうと容赦ない侍女長サリエル夫人の教えが、四角四面を絵に描いた本人の立ち姿と共に脳裏を過ぎる。

「気をつけます……」

「ふふ。大変だけれど、淑女の振る舞いを身に付けなければですものね」

「淑女、ですか?」

「まずは、可憐で守りたくなるような、愛らしい悲鳴から始めましょうね。わたくしに任せてちょうだい」

 不気味なまでにうふふふと笑われて、得体の知れない不安が湧いた。

 どこに出ても恥ずかしくないメイドにはなりたいが、淑女になる必要はない。ついでに言うと、悲鳴に愛らしさなんて必要ない。

「あら、わたくしもお手伝いするわ。ダンスにはちょっと自信があるのよ」

「ダンス……?」

 一体何を目指すのか、答えを求めて二人の顔を交互に見る。しかし、上品で意味深な微笑みが返されるだけで埒が明かない。

「良いのよ、今は何も聞かないわ。わたくしたちはあなたの味方ですもの」

 聞きたいのはシュリアの方だ。

「お芝居のようなお話が現実にあるだなんて。これはもう、お二人に協力しない訳には参りませんわ!」

 ねぇ、と互いに見つめ合う侍女様は、当のシュリアを置いて結束を固めている。

(あの噂のことかしら……)

 心当たりはある。

 その噂の片棒を担いだ男が、よりにもよって今、空気を読まずに割って入た。

「あと一刻もすれば大きな町に着きますが、具合の方はいかがですか?」

 侍女の目が、ザックハルト子爵家の三男坊の登場で輝きを増した。

(間違いなく、あの噂ね)

 シュリアとカイナルが身分違いの苦しい恋をしているとか、何とかの。

 ちょっとした誤解に背びれ尾びれが付いて、シュリアが実は貴族の隠し子だとかそろそろ駆け落ちするらしいとか、本人の預かり知らぬところで進化を遂げる例の噂だ。

「わたくしたちは旦那様のお相手に参りましょう」

「そうね、そうですわ。では、シュリア……」

 上手くやるのよ!

 声に出さない激励が圧となって頬を叩く。

 うふふふと笑いながら立ち去る二人の後ろ姿は、覗き込むように話しかけるカイナルの秀麗な面差しに遮られた。

「長距離の馬車は辛いものです。遠慮なさらず、我々の車にお乗りください」

 美しい装飾に違わぬ乗り心地の高級馬車に伯父と同乗するカイナルは、本日何度目か知れない誘いを飽きもせず繰り出した。

(お姫様が乗っていたのは伯爵様の馬車の方よね、きっと)

 衝撃を和らげる工夫がされた最新鋭の馬車なのだと、お尻の惨状を見越した屋敷の馬番に聞いていた。

 確かに、カイナルの表情には無理がない。

 何と羨ましいことか。

(だからって、メイドの分際でほいほい甘える訳にもね……)

 これまた何度目か知れないやんわりとした拒絶を口にしたとき。


 どっどっどっ……と、身を横たえた寝台が下から殴られたような、嫌な振動を足裏に感じた。

(じ、地震?)

 乱打する振動は体の芯を這い上がる。徐々に強くなり、やがて心臓にまで届く頃、耳が捉えたのは大地を駆ける重たい音だ。

(地割れ? 爆発? 何なの!)

 目を細め、来た道を凝視していたカイナルが冷静に告げる。

「早馬ですよ。だが、何か見えるな」

 言われて、規則正しい音の並びに気が付いた。

(馬って、走るとこんな風に聞こえるのね……)

 王都育ちのシュリアは疾走する馬を見たことがない。それ故に、地響きだけで不安になるのだ。

(む、無駄な体力を使ってしまったわ!)

 こんな事も知らなかったなんてと、焦った分だけ力が抜けた。


 一方で、カイナルの強張った気配は消える様子がない。

 目を凝らした先にようやく馬影が見え始め、騎乗する人の輪郭があっという間に形を為すと。

「急伝馬か!」

 カイナルが短く叫んで、シュリア以外の全員に緊張が走った。

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