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ミルデハルト伯爵は、既に先手を打っている。
不本意そうにカイナルは言った。
「先手……て、どういうことですか?」
深く刻まれた眉間の皺はミルデハルト伯爵に対するものだ。
それだけで良からぬ気配が漂った。
「伯爵から聞き出した話は、まだお伝えしていませんでしたね」
レンブルク中央教会に隠された「歴の書」を、ミルデハルト伯爵はどこで知って何を目的に欲したのか。
本来はそのために書庫を訪ねたカイナルである。
「サリエル夫人には、事件の関係で用があると許しを得ていますので」
順を追って説明しましょうと予め用意していた台詞を告げる頃には、いつもの無表情が戻っていた。
書庫の整理に着手した当日、作業場所の確保に邪魔だからと壁際に追いやってしまったソファセット。
ちょっと休憩するには使い勝手が良く、面倒を惜しんで撤去しなかった自分には先見の明があったと、最近では自画自賛していたところである。
腰を落ち着けて説明したいとカイナルが誘ったのもやはりソファだ。
ちょこんと腰掛けたシュリアの向かい、小さな机を挟んでカイナルも浅く収まった。
「伯爵が「歴の書」の存在を知ったのは、あくまで夏の事件、あなたが「闇の光」の密談を聞いてしまった夜会がきっかけだそうです」
あくまで、を強調する辺り、全面的には信用していないのだろう。
シュリアは頷きだけに留めた。
「そういう書物があることすら知らなかった伯爵は純粋に興味を抱きました。けれど、王太子殿下が動くような案件ですから安易に探ることはできません」
それで諦めれば良かったのにと書かれた表情からも、ミルデハルト伯爵が諦めなかったことは明らかである。
「伯爵は、あなたを襲った侍女ナリージャに不審な動きがあると知っていました。しかも、夜会よりも前、まだ夏が始まったばかりの頃です」
「闇の光」に洗脳され、正気をなくし、シュリアに襲いかかった年若い侍女。
ミルデハルト伯爵は、夜な夜な屋敷を抜け出すナリージャの行き先まで、ナリージャの屋敷の使用人から聞き出していたのだ。
「夏が始まったばかりの頃って……」
シュリアの言葉は途中で切れた。
知っていたなら何故言わなかったのだと、思ってしまうのも無理はない。
社交シーズンの終わりまで誰も彼女を警戒しておらず、だからこそシュリアは命の危険にさらされたのだ。
「娘の奇行を止められなかったナリージャの両親は、屋敷にかかわる全ての人間に箝口令を敷きました。伯爵は、その厳戒態勢をかいくぐったのです」
男爵令嬢のナリージャに下手な噂が立つのはまずい。
娘の名誉を思って事実をひた隠しにした男爵夫妻は、残念ながら、ミルデハルト伯爵を欺くことまではできなかった。
「伯爵様は、一体どうやって……」
「表に出てこない使用人というものがいるのですよ」
深い追究を拒むように、シュリアの素朴な疑問は切り捨てられた。
「ナリージャに付けた監視の者は、あの夜会の直後に「闇の光」の集会に潜り込みました。そこでレンブルクの情報を掴んだのです」
自分の屋敷が賊に狙われていると聞き、何一つ心当たりのない素振りを見せたミルデハルト伯爵。
本当は、四代目当主の随想録が狙いだと最初から確信していた。だから、新たな情報にふと考えた。
たかが随想録一冊で王太子まで動かす大騒動だ。歴史あるレンブルク中央教会に眠る書物ならば、もっと大変な騒ぎに発展するのではないか。
果たして、そこにはどんな逸品が。
「蒐集癖が出たことも否定はしませんが、動機はもう一つあってですね。基本的には、ライルに送った手紙に書いたままの理由なのです」
悪用されると国が滅ぶとまで記された手紙のことだ。
ところがミルデハルト伯爵は、国が滅ぶ頃には自分も死んでいると、どうでも良さそうにカイナルに告げた。
その時の様子を思い出し、カイナルの目元が憎々しげに染まる。
「伯爵の勝手な構想によれば、今後、ミルデハルト伯爵家が担う役割を二分して後継者を二人定めることになっています。その一人が私なのだそうです」
王城に拘束されてほとんど領地に戻れない領主とは、領主としてどうなのだろうか。
事の発端はそんな疑問だったと、しおらしく吐き出した薄っぺらい口まで思い出すのだ。
ミルデハルト伯爵家の当主は、王城の祭事を取り仕切る部署の長を務めている。完全な世襲制で、四百年ほど前からの決まりごとだ。
広い王城では、大きなものから小さなものまで毎日のように何かの儀式が行われる。そういう点では必要不可欠の要職にあり、多忙な割に国政への影響が皆無という点ではこれ以上ない閑職であった。
ライナルシア王家の思惑を汲んだ代々の当主は、恭順を示す代わりに役職を受け継ぎ、その結果、領地経営を管理人任せにしてきたのだ。
話を脱線させるつもりはないシュリアだが、初めて知る雇用主の仕事内容に、道理でレンブルク中央教会の抗議がすんなり通った筈だと腑に落ちた。
「王国側からは伯爵様の後押しがあったんですね」
「ええ、まあ。教会絡みの発言権の強さは誰にも劣りませんから。伯爵の本音としては、連帯責任で自分も降格したかったのですが……」
そこまで甘くはなかった。
むしろ、義理の弟を切り捨てたことで伯爵自身の身は守られてしまった。
「早く引退して書物三昧の日々を送りたいなどと不純なことを考えるから国王陛下のみならず教会からも同情を引いた結果……」
「す、すみません、余計な口を挟んでしまいました! 王城のお勤めと領主のお勤めをそれぞれ別の方に継がせたい、ということでしたよね?」
「……そういうことです」
続く非難を断ち切られたカイナルは、わざとらしい咳払いで気を取り直した。
跡継ぎのいないミルデハルト伯爵は、カイナルを養子にと以前から言っていた。
しかし、それは挨拶代わりにも取れる漠然とした言葉だったので、ザックハルト子爵家としても本気で捉えていなかった。
ところが。
後継者云々の問題は、既に、カイナルの名を付した上で内々に国王の承認を得たというのである。
これを聞いたカイナルは意識を飛ばし、同席するライルも口を開けたまま固まった。
正式ではないとはいえ、国王陛下の耳に入れた話を覆すことはできない。とんでもない独断専行で、人一人の将来を決めてしまったのだ。
凄みを増す無表情を前に、色々な意味で怖い話だとシュリアは鳥肌が立った。
魔力の暴走はシュリアが絡む時だけと聞いているけれど、ミルデハルト伯爵が五体満足で終わったことが奇跡のようだ。
(私を雇ってくださったときも上手く乗せられた感じがあったけれど、まさかカイナル様まで、だなんて)
あの紳士、見た目だけの人物ではない。
自分の都合に他人の人生を引っ張り込むのだから、目を付けられた方は恐怖である。
そんな暴挙を犯したミルデハルト伯爵に、シュリアは初めて畏怖を覚えた。
「伯爵としては、王城の勤めの方を私に振りたいようです」
「そちらを、ですか?」
てっきり逆だと思っていたシュリアは視線を跳ね上げた。
「そうです。王城に縛られて、王都に永住できるようにという理由です」
「王都に永住?」
「私が王都を離れなければ、あなたが私の妻になったとしても、この書庫の整理を断念せず済むでしょう?」
あれと血が繋がっているなんて思いたくもないと、カイナルは吐き捨てる。
(……私がカイナル様と結婚しても、書庫の整理が続くように?)
そんなことのために。
膝の上で重ねたシュリアの手は、皺になるのも構わずお仕着せのスカートを握り締めた。




