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「今のは……イエゾルト子爵家の虫博士ですね」

 無作法に閉められた扉を睨むと、まるで身元を確かめるように言うカイナルである。

 しかし、貴族の個人情報が末端のメイドに下りてくるはずはない。

「私、お名前は知らないんです。本当に学者さんなんですか?」

「そう呼ばれているだけですよ。ああ見えて立派な跡継ぎですから、学術の道は諦めたそうです」

 そんな裏事情までよく知っていると驚けば、実兄の数少ない友人なのだとか。

「お兄様といえば、確かお二人いらっしゃるんですよね?」

「はい。どちらの兄にしても虫は嫌いで……子供の頃から、誕生祝いに虫を届けられては突き返していました」

 返戻されると分かっていながら繰り返される恒例行事だ。

 わざわざ色や形が貴重な昆虫を選んだのにと、虫博士は決まって主張するが、彼の贈り物が開封されたことは記憶の限りで一度もない。

「それにしても、相当機嫌良く出て行きましたね。あれは、やって来たのが私だとも気付いていないでしょう」

「昆虫図鑑を見つけたのでお渡ししたんですよ。良い書物があればと、以前からお願いされていたので」

 余程お好きなんですねと、喜びようを思い出して呑気に喋った途端、カイナルの形の良い眉が少しだけ角度を上げた。

「わざわざ?」

 降ってきたのは棘のある一言だ。

(もしかして、本来のお仕事を疎かにするなとお怒りに?)

 はっとしたシュリアは、慌てて否定にかかった。

「違います! 作業中、気付いた時に取り置いただけです!」

「そんな特別扱いを頼まれたのですか? 虫博士以外にも?」

 どうやら、カイナルの言い分は違ったらしい。

 そんな非常識をするのはどこの誰だと、非難の色をありありと浮かべている。

 シュリアは胸をなで下ろした。

(そうよ、こういう人だったわ……)

 社交シーズン中には何度も目にした、シュリア至上主義を憚らない顔である。

 会える機会が減り、たまに会えても僅かな言葉を交わす程度の距離に落ち着いて、なりを潜めていたあれだ。

「大変でしたね。伯爵にも自重してもらわねば。この調子で来客が増えると困ってしまうでしょう」

 こうなると人の話を聞かない。

 軽くあしらって、作業の手を再開した。



 少し放置していたら、来客の件は自身で結論が出たようだ。

 普段どおりの口調でシュリアに呼びかけると。

「今日は、差し入れをお持ちしました」

 手にした包みを差し出して、自然に口元を綻ばせた。

 元来、カイナル=ザックハルトは表情が薄い男だ。考えはおろか、喜怒哀楽さえも表に出さない。

 二番目の兄ルミエフのような無表情がトレードマークで、喋る回数も言葉数も少ない。

 それは今でも変わっていないようだったが。

(とても優しい顔をされるのよね)

 対シュリアに関しては。

 まるで、罠のように。


 なかなか受け取ろうとしないシュリアの手を取ると、カイナルは、小さな箱型の包みをその掌に載せた。

「どうぞ。日持ちしませんのでお早めに」

 直接触れた肌の感触に、ぶわっと熱が回る。

 大きな手はすぐに離れたにもかかわらず、頬の火照りが悪い病のように平常心を苛んでいる。

「本当はもっと早くお持ちしたかったのですが、高温に弱くて難しいのです。シュリアさん?」

 シュリアは、頬に添えたままの片手を大袈裟に振った。

「差し入れなんて嬉しいです! お菓子でしょうか? 高温に弱いって何かしら?」

「開けてみてください。来る道中で駄目になっていやしないか気になります」

「じゃあ、失礼して……」

 細いリボンを解いて包みに手をかける。白地に小花模様が描かれた上質な包装紙を破かないよう、慎重に。

 息を止めて蓋を開けると、中には、親指と人差し指でつまめる大きさの塊が二つ鎮座していた。

 書庫を照らす僅かな光に、茶色がかった黒く滑らかな表面が磨き上げた玉のように輝いているのだが。


 その色艶こそが、衛生管理のなっていない厨房に生息する空飛ぶ昆虫を彷彿とさせた。


 そんなはずはない。

(ええっと、さっき昆虫図鑑を見たせいね)

 失礼な感想を振り払うように、控え目に飾られた飴細工の方へ全神経を向けた。

「とても甘くて、ご婦人方に好評なのですよ。どうぞ」

 葛藤に気付かないカイナルは、そう言いながらシュリアの口元へと片方の塊を運ぶ。

(このまま食べろってことですか!)

 言葉どおりの甘い香りが鼻孔を掠める。

 菓子をつまむ指は引き結んだ唇の前から動かない。お口を大きく開けてと、小さな子供に食べさせるときのあれなのだろう。

 ここで、この年にもなって?

(誰も見てはいないけれど! でも!)

 恥ずかしさのあまり断行拒否したいところだが、しかし、変に焦るのも格好がつかない気がした。

 思案の末、指まで食べないよう意識を全開にして塊を口に含む。

 すると。

(これは、初めての食感!)

 苦いようで甘く、香ばしいようでまろやかな。蠱惑的な香りを放ちながら、ゆるりと角が溶ける。

「いかがですか?」

 最終的には、強烈な余韻を残して跡形もなく消えた。

「……なくなってしまいました!」

 口の中で食べ物が溶けるという、まさに未知の体験が恥じらいを吹き飛ばした。

「カカオという豆から作られた菓子です。大陸では珍しくもないそうですが、我が国には入ってきたばかりで、この夏の社交界で人気に火が付いたものですよ」

「豆! 豆からこんな美味しい物が!」

「お気に召したなら、そのうちまたお持ちしましょう」

「本当ですか! あ、いえ、こんな貴重なお菓子をいただく訳には……」

「夏場に比べればかなり値が下がりました。お気になさらず」

 端的に言えば、とても美味しかった。危険なことに中毒性もありそうだ。

 害虫のようだと思った見た目も、今となっては違って見える。

「とても綺麗な色ですね。表面は滑らかで、すべすべで、どうやって作るのかしら」

 味を思い出して、残ったもう一つの塊をうっとり見つめた。

「明るい所で見ると、あなたの髪と同じ色ですよ」

「そうなんですか」

「はい。とても美しい」


 お菓子が? 髪が?

 分かっていたが、顔は素直に赤らんだ。

(ねえ、これ、遊ばれているの?)

 俯いても誤魔化せない勘違いに、湧き出したのは恥ずかしさではない。


「私、今月は、伯爵様のお供でミルデハルト領に行くんです! ですから、せっかくですけど、留守にしますので!」


 威勢良く啖呵を切るシュリアを前に、カイナルが沈黙すること数秒。


「ご心配には及びません。伯父に誘われ、私もご一緒することになりました」

 うっすらと浮かぶ微笑みを、シュリアは呆けたように見上げた。

「カイナル様も?」

 初耳である。

 この話はミルデハルト伯爵から直接打診を受けたが、カイナルの名は聞いていなかった。

「何か、持ち歩きできる菓子を用意しますよ。途中立ち寄る町で、仕入れて歩くのも良いですね」

 騎士団の職務上、そんなに長い休みを取らせてもらえるのか。

(ルミエフ兄さんが許可したなら、私が口を出すことじゃないけれど……)

 自惚れではなく、シュリアが絡むと無茶をしでかすのがこの男だ。

 周囲の迷惑を顧みずの強行突破ではないだろうかと、軽い不安を覚えたのは大正解。


 何せカイナルは、この時点で休暇の申請すらしていなかったのだ。

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