45
一階北側の廊下まで辿り着いたシュリアは、前後に人影がないことを確かめて足を緩めた。
壁を埋めるのは歴代当主の肖像画。
青い絵の具で描かれた四代目当主の瞳は今日も黒い。塗られた色が変わるという現実離れした怪談も、もはや気にならない程度には歩き慣れた道だ。
(せっかく好意的に話し掛けてくださるのに……)
喋らぬ歴代当主とは仲良くなれたが、他の使用人との距離が埋まっていない気がする。
昨日、一昨日と妙な疲労感が残ったのは、話し掛けられる度に逃げ腰になっていたからだ。
(壁に向かってご当主様とお話ししてるばかりじゃ駄目よね)
社交的な質ではないが、自分の努力次第で何とかなる問題からは逃げたくない。
(よし、頑張れ私!)
心持ち顎を上げて、決意を新たにする。
頭を悩ませると言えば、実はもう一つ。
書庫を入ってすぐの壁際に、三つの衣装箱が積み上げられたままになっていた。
ミルデハルト伯爵が領都から持ち帰ったもので、中身は、ミルデハルト城の書庫に並んでいた書物だ。
(箱詰めされて三日、四日、それ以上? せめて風を通してあげた方がいいわよね)
もっと早くに箱から出してやりたかったのだが、長く留守にした後は何かと雑務に追われる。結局、後回しになってしまった。
(衣装箱に三箱ということは、全部で何冊くらいあるのかしら)
最終的には、既に満員御礼の書架にどうやって割り込ませたものか。
ううむと真剣に悩みながら、書庫の扉に手を掛けた。
シュリアの仕事場は昼間でも薄暗い。
何せ書庫だ。
外の光を取り込むようには作られておらず、小さな窓では換気もままならない。埃は堆積するし黴も生える。
しかし、太陽の位置が低く、角度的に柔らかな光が差し込む今は、一年で最も環境が良いのではないかと思えるような明るさに満ちていた。
きらきらと舞う埃が花を添える。
穏やかで美しい、一幅の絵だ。
扉を静かに閉めたシュリアは、光を背に佇む人を見てそう思った。
「こんにちは、シュリアさん」
壁に背を預けたカイナルが微笑むと、たちまちに絵は立体感を取り戻す。
カイナルは手にした書物を丁寧に閉じた。
決して急な動きではないが、見とれていたシュリアの声は僅かに上擦った。
「こ、こんにちは、カイナル様」
「驚かせてしまいましたか?」
口では謝りながら、その実、シュリアが見せた動揺さえも楽しんでいるようだ。
「お久し振りですね。その後、具合はいかがですか」
切れ長の黒い眼差しに思慮が滲む。
会わなかったのはたった二日。
しかし、もう何年も会えなかったかのように熱心に見つめられて、気付けば、シュリアも同じように見返していた。
今や、カイナル=ザックハルトはこのお屋敷の時の人だ。
本人も自覚はあり、人目につきにくい昼の時間を狙って忍び込んだのだとか。
そこまでして何の用事が?
自然に浮かんだ疑問は、当然のようにカイナルがすくい上げた。
「あなたにお会いしたかったので」
「え?」
「事件のその後が聞きたいでしょう?」
気持ちが沸き立ったのは一瞬だけ。
(そのためですか……)
他意はないと言われた気がして、落胆するのは早かった。
(いいえ。ちゃんと言葉で確認するって、ライルに背中を押してもらったんだもの!)
それで玉砕したら朝まで自棄酒に付き合うからと、およそ未婚女性に相応しからぬ言葉で励まされた。
だから、この程度ではへこたれない。
「お待たせしたんですね、すみません。何を読まれていたんですか?」
「これですか? 実は、ここの書架にこっそり置いてほしくて持って来たのです」
そう言って真剣な目つきに戻ったカイナルが、手にした書物を掲げて待っている。
(これは、近くに来いという合図?)
一歩二歩と進み出ても拒まれる気配はない。むしろ、もう少し近くにと招かれる。
覗き込むような距離まで近付いて視線を落とせば、見やすく傾けられた布張りの表紙には文字がなかった。
と、いうよりも。
「黴ですね」
「そうなのです。保存状態が悪くて、外も中も変色してしまいました」
真っ黒なのだ。
表紙からぱらぱらと見せられた中身に至るまで、腐食が著しくて読めたものではない。使われている紙は薄く、劣化が進み、丁寧に扱わなければ原型なく崩れてしまいそうだ。
(これじゃあ修繕もできないわね)
カイナルは平然と触っているが、良からぬ病気を貰いそうでシュリアの手は動かない。
(持って来たとおっしゃったけれど、どこから?)
墓場から掘り出したと言われても納得の有り様である。
全ての疑念を顔に出したシュリアに向けて、カイナルは自嘲ぎみに笑った。
そして耳元に顔を寄せ、一段と声を落とし、注意深く囁くのだ。
「……これは、ファビエル=ランド=ミルデハルトが残した「歴の書」です」
つまり。
レンブルク中央教会の床下にあったものだと。




