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 その夜。

 懐かしの我が家に足を踏み入れたミルデハルト伯爵は、射殺さんばかりに鋭い目をした甥っ子と、あらぬ方向に目を泳がせたお供の青年に迎えられた。

 怒れる厳冬の吹雪と名高い第三騎士団第一隊副隊長もかくやの形相で玄関ホールを塞ぐカイナルの、いつもとは全く違う威圧感に、彼をよく知る使用人も完全に怖じ気づいている。

「お待ちしていました、伯爵」

 カイナルの地を這う一言が、その場に生きとし生ける者の動きを凍らせた。

「長旅の後で恐縮ですが、お時間をよろしいですか」

 よろしいも何も、誘い文句に拒否権はない。

「だ、旦那様はお帰りになったばかりです。どうかお控え……」

「伯爵、よろしいか」

 忠義心に溢れる執事の異論を断ち切って、本人の承諾をもぎ取ろうと迫る。

「構わんよ、場所を移そうか」

 使用人を無駄に怯えさせるなと苦言を忘れず、腹を決めたミルデハルト伯爵は前に出た。

 その動きに、固唾を飲む使用人も我に返り、各々の職務へと走る。

「誰か茶を、いや、酒に……」

「それは必要ありません。良いと言うまで誰も近付かないように」

 怒れるカイナルに慈悲があるはずもなく、鋭い声が玄関ホールに響き渡った。

 そして。

 一騒動どころか大騒動の予感だけを残して、昔ながらの厚く重たい応接室の扉は中の様子を完全に遮断してしまったのだ。

 扉に彫られたミルデハルト伯爵家の紋章を、たくさんの揺れる瞳が見守っている。



 というような話を、シュリアが聞かされるのは既に十回目なのだが。仕事復帰して三日、現場に居合わせた使用人のうち十人から聞かされた計算である。

 書庫にこもりがちな新参メイドにしては驚くべき回数だった。

(それにしても、随分と多くの方が目撃したのね)

 社交シーズンでもない今、使用人が少ないこの屋敷で。

 敬愛する当主の帰還に合わせて全員が出迎えに並ぶのだとしたら、もちろんシュリアも加わらなければならない。

(来年、来年まで覚えておかなければね)

 消えないように、しっかりと記憶に刻んだ。



 それでね、と。

 美しい所作で焼き菓子を口に運びながら、当然のように結末を喋ろうとしているのは、ミルデハルト伯爵に同行して領都に戻った年若い侍女である。

 シュリアと同じ馬車で檄を飛ばしたあのお嬢様だ。

「わたくしも帰るに帰れなくて、お話が終わるまで待っていたのよ。だって、あんなに恐ろしいカイナル様は初めてですもの」

 昼休憩中にがっちりと腕を掴まれ、真向かいで食後のお茶を強いられ、今に至る。 

 ミルデハルト伯爵邸の使用人は、全体数が少ないせいか身分の垣根が低い。しかし、この数か月を可能な限りひっそり過ごしたシュリアには、仲の良い同僚もいなかったはずだ。

 第一、伯爵夫人の下に戻ったはずの侍女が、何故今もタウンハウスにいるのか。

 続くお喋りの前に、色々と浮かぶ疑問は何もかも消化不良だ。

「その時、わたくしは思ったのよ。あなたに何か良くないことが起こったのだわ。だからカイナル様は、普段の礼儀正しさをかなぐり捨てておしまいになったに違いないと」

 申し訳程度に、はぁそうですかと相槌を打つ。

 これまで聞かされた九名の評価は、カイナルに対する批判が勝っていた。曰く、恩を徒で返したとか、立場を分かっていないとか。特に侍女は顕著で、あんな人とは思わなかったとまで言った者もいた。

 新しい解釈を披露したお嬢様は、妄想が膨らみ過ぎて爆発してしまうんじゃないか。

 そんな心配をされているとも知らず、二重に彩られた瞳を好奇心に燃やし、真実を教えろと顔を近付けてくる。

「で、どうなの、どうだったの? 誰にも喋らないから教えなさい」

 絶対に信用ならない定型文でぐいぐい来るのだ。



 シュリアが仕入れた情報によると、話し合いという名の尋問は、いつもなら晩餐が終わる頃まで続いたそうだ。

 応接室の扉は、いきなり開け放たれる。

 大股で出てきたカイナルは先刻以上に機嫌が悪く、まっすぐ玄関へと向かった。その後ろを駆けるお供の青年だけが、何事かと不安が渦巻く使用人に向けて僅かに頭を下げた。

 そして、二人が完全に立ち去ったのを確認して。

 執事を筆頭に上位使用人が中を覗けば、飲まず食わずのミルデハルト伯爵がソファに横たわっていたのだ。

 案ずるなと掌が翻る。

 まずは生存が確認されて、しかも暴力沙汰でもなさそうで一同は胸を撫で下ろした。

「王宮騎士団なんぞ比較にもならん。甘く見ていたなぁ……」

 独り言は弱々しいが、意外にも怒気はなく飄々とした色が消えていない。

 後悔するような台詞を吐きながら、声音は何かを企むものだ。


 転んでもただで起きる人ではなかった。


 つまり、使用人にとっては、旦那様の強かさを再確認する出来事となったのだが。

 カイナルと旦那様ではなく、カイナルとシュリアに起こった出来事にしか興味はないと、若いというより幼いに近いお嬢様は言外に仄めかす。

「あなた、レンブルクで体調を崩したのだそうね。その辺りのことと関係があるように思うのだけれど、どうかしら?」

 もはや推理大会だ。往路の途中で送り出された時といい、彼女の妄想には天井がない。

 実際には残念な結末で、今や仰け反りそうなシュリアは申し訳なさを覚え始めた。

「ご想像のような、甘いお話は何もできないのですが……」

「甘くなくても良いのよ。甘いばかりが能ではないわ。涙なくては語れない悲しいことも後悔の苦味もあるでしょう。それで良いの、そうじゃなければ駄目なのよ。だってそれこそが……」

 それこそが禁断の恋ですもの!

 と、盛り上がった勢いで続けようとしたのだが。

 そこは、冬の朝に燦然と輝く氷柱のように、冷たく鋭い声が無情にも遮った。

「あなた方、何をしているのです?」

 仁王立ち、のような雰囲気をまとって美しく佇む侍女長サリエル夫人である。

 シュリアはともかく、背後から迫られたお嬢様の肩は大きく跳ねた。

 相手は偉大な侍女長様。

 例え良い所を邪魔されたのだとしても、年若い侍女には恐怖の対象である。

「いつまでここに? 午後のお勤めは?」

「え、ええ、そうでしたわ。お喋りが過ぎてしまいました。引き留めてしまってごめんなさいね、では失礼!」

 メイドと一緒くたに注意を受けた侍女は、シュリアへの気遣いを置いて早々に一人で逃げ去った。

 始めから、残り僅かな昼休憩に突撃してこなければ良いのだ。

(この状況で取り残すだなんて……)

 否応なく、物言いたげなサリエル夫人と視線がぶつかる。

 眉毛の角度を見ずとも言いたいことは分かっていた。

「わ、私もすぐに戻ります! 失礼します!」

 年は下でもお屋敷勤めの長さでは先輩に当たる侍女を見習い、シュリアも脱兎の如く逃げ出したのだ。

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