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 気を失ったのは一瞬だったが、やはり、それ以上の無理はカイナルが許さなかった。

 しっかりと抱き留めたシュリアに自らの額を押し当て、さっと横抱きにして歩き出す。

 慌てたライルが扉を開ければ、途中出くわしたグレイドに説明もせず、粥を運んできた司教の非難の眼差しにも動じず、簡易宿泊室へまっしぐらだ。

 そうしてシュリアは、寝台に強制送還された。

「粥の準備ができたようですから、落ち着いたらどうぞ」

「リッカの葉は効かないだろうねぇ」

「病人なのにおちおち寝てもいられませんな」

 カイナルとライルと司教、三者三様の顔で一言ずつ残して全員あっさりと退室した。

(こんなタイミングで倒れるなんて……)

 無念だ。



 鼻まで毛布を引き上げたシュリアは、しかしその後、むくりと起き上がった。

 考えてみれば、朝食を食べたきりもう夕方である。

 眠れない理由は明白だ。

(そりゃあ、お腹も空くわよ)

 司教自ら届けてくれた椀に手を伸ばす。

 中身はとろりと溶けたパン粥だ。表面は冷めてしまったが、匙で掬うと湯気が昇った。

 それを見て、急速に胃が鳴き始める。

(温かい……おいしい……)

 小振りな椀にはそう多くの量が入っていない。

 脇目も振らずぺろりと食べ尽くした後で。

(もう頂戴してしまいましたが、ありがとうございました。全ての恵みに感謝いたします)

 胸の前で手を組み合わせ、後回しになった食前の祈りを深く捧げた。

 重ねて、礼拝堂の方角を意識しつつ、今日中に回復できるよう神に祈る。

 これだけ食欲があれば、神様としても聞き届けやすいに違いない。

 熱くなった頭を休ませようと目蓋を閉じれば、そのまま深い眠りに誘われたのだった。



 リッカの葉は人差し指。

 じゃあ、床の窪みは何の指?


 目覚め間近に見る夢というのは、妙な部分で現実が投影された不思議なものが多い。

 例に漏れず、何指だったかしらと悩んだところでシュリアの意識は引き上げられた。

(何なの、今の……)

 目の前に広がる闇を頭が認識する頃には、そんな気掛かりさえも忘却の彼方。

 真っ暗で、静かで、冷たい。

 起きたはずなのにまだ夢の中だろうかと、二度三度と瞬いた。

(ここは死者の国?)

 いや、違う。

 死した魂は神の御下へ召され、白い炎で浄化される。ライナルシア王国の国教の教えでは、死者の行く先には穏やかで温かな世界が待っている。

 それならば、神の御下に召されなかった魂はどこに行くのか。

 浄化を拒み、次の宿体を待つ間。

 逸る心を持て余しながら、彼の魂はこの場にうずくまっていたのではないか。

(あなたはもう、自由になっていい)

 魂を縛り付ける呪いは解かなければならない。

 私にできることがあるなら、何だってする。

(だから、私を見て)

 私を忘れないで。


 冷たい頬を滑るのは涙。

 混濁した意識が押し流されて、視界はすっかり晴れ渡った。

(私、眠ってしまったのね)

 ここは死者の国でも何でもない。寝て起きたら夜になっていただけのことだ。

(事件、どうなったのかしら)

 浮かんだ疑問に答える声は、存外近く、シュリアの枕元から上がった。



 シュリアが眠る間、早々にグレイドを屋敷に戻し、宣言通りライルを問い詰めたカイナルである。

 全てを片付けた後は簡易宿泊室に戻り、気配だけで様子を伺っていた。

 頃合いを見計らって明かりを灯せば、シュリアの横顔には雫が光っている。何事かと気になったカイナルは静寂に声を忍ばせた。

「お目覚めですか、シュリアさん」

 すぐには反応がない。

 起きたばかりなら仕方ないと、身じろいだシュリアが自分の姿を見つけるまで、催促もせずちゃんと待った。


 待てば必ず振り向いてくれる。

 その短い時間ですら満たされるというのに、腕の中に捕まえておきたいと思うのは間違っているのだろうか。

(果たして、美しいだけが恋心なのか?)

 確かに、ライルのそれは透明で美しい。少なくともカイナルの目にはそう映る。憧れすら覚える輝きは、決して自分には得られない尊いものだ。

(本当に、それが全てなのか?)

 ドルトムント伯爵令嬢の振る舞いやライルの言動、それらに対してシュリアが放った言葉は、身に覚えがあるカイナルをも深く抉った。

 変われるだろうかではなく、変わらなければならない。

 沸き立つ焦燥感に進むべき方向を見失いかけたカイナルは、枕元で聞く静かな呼吸の音に立ち止まった。

 呼び起こされる様々な記憶、忘れてはならない宿体の嘆き。

 背負ったあらゆるものを否定することが本当に正しいのか。

(私は、過去の誰でもなければライルにもなれない)

 カイナルはカイナルのままで良い。

 そう背を押したのは、他ならぬシュリアなのに。

(私自身を、あなたは認めてくれていた……)

 シュリアを他の男に渡すなんて論外だ。

 好きなものは好き、ただそれだけのことなのだ。

 綺麗なだけの気持ちではいられなくても、それがカイナル=ザックハルトの本心なのだから。

 足りないものは補えば良い。

 多すぎるものは省けば良い。

 それで、十分じゃないか。


 削ぎ落とすものの方が遥かに多そうだと、苦笑いを噛み殺しながら今度ははっきりと声をかける。

「シュリアさん」

 もぞもぞと頭を動かしたシュリアの、とろんとした柔らかい瞳にカイナルが映った。

「カイナルさま?」

 一度だけ奪ってしまった唇が、ひっそりと微笑みを形作る。

 それを見たカイナルは。

 カイナルだけが知るシュリアの古い名を道連れに、永久に切り離せない自分の名前を胸の奥底に封じた。

(それで良いか、魂の始祖よ)

 お前の願いは私が果たす。

 お前の名前は私が忘れない。

 だから。

(ジニア、許してくれ)

 何百年と共に歩いたもう一人の自分を、永遠の眠りへ誘えば。

 仕方あるまいと、懐かしい声が耳に残った。

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