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 シュリアが扉の陰から顔を出すと、見渡す限り廊下には誰もいなかった。

(そうよね、今なんて収穫祭の真っ只中だものね)

 寝起き姿と皺だらけのスカートを見られやしないか緊張したが、その必要はなかったのだ。

(良かった、これなら大丈夫だわ)

 安心したおかげで足取りは軽い。

 観光客の気分で首を巡らせる余裕さえ生まれた。

(この扉って、全部が簡易宿泊室なのかしら? 結構な数よね?)

 真っ直ぐに伸びた廊下には、装飾のない質素な趣の扉が左右にずらりと並んでいる。

 何室あるのだろうかと数えてみれば、何と二十以上もあるではないか。

(近所の教会なんて宿泊できる物置が一室あるだけだったのに。規模が大違い……)

 宿屋のような雰囲気の廊下を抜けると、そこはもう外だ。

 シュリアは、真新しい外套の前をかきあわせた。



 しかし、ここで現実の壁にぶつかった。

 予想以上に寒いのである。

 回廊から庭に降りれば足元のほとんどが建物の陰。教会の高い屋根に太陽は隠され、その勇姿を現さない。

 冬直前のこの季節、建物の間を抜けて吹き込む風はもはや刃物のようだ。

 発熱という自家発電があっても、高価な外套を羽織っていても、防ぎ切れない寒さに芯から震えた。

 悠長にしている余裕はない。

(ここは敷地の東側ということだから……)

 影の向きから大体の位置関係を計算して、進むべき方角に突進する。



 この規模の教会にはもっと大きな薬草畑があるのでは。

 密かな期待を抱いて進めども、出くわすのは道を塞ぐ大木や子供の背丈はある藪ばかり。程良く開けた場所はただの空き地だ。

(そういえば、確か司教様が……)

 この教会には孤児の家が併設されていないのだと、聞いた説明を思い出す。

 レンブルク中央教会は観光地でもあるので、大概の教会が敷地内に構える孤児の家を別の場所に構えているのだとか。

 畑仕事を担う子供たちがいないのだから、年齢層の高い教会関係者だけで世話をするには限界があるのだろう。

(放っておいても枯れないけど、簡単に荒れ放題になってしまうものね)

 つまり、あの中庭で十分ということだ。

 納得したところで、再び視界が開けた。

 そこに燦然と姿を現したのは太陽だ。

(ええっと。太陽が今より高い位置にあった時の真正面だから……)

 当たりを付けて見回せば、正面と左右を建物に囲まれ、忘れ去られたかのようにぽっかり開けた空間が目に入った。

 決して広くはないが、光が当たる下草はさざ波のように揺らめいて、その美しさに束の間言葉を奪われる。

(……あそこ、ね)

 目的の中庭に辿り着いた。

(カイナル様がいなければいいけれど)

 向かって左側の平屋がファビエル=ランド=ミルデハルトの隠れ家だ。中にカイナルがいる可能性は否定できない。

 ただでさえ今は会いたくないのに、外からシュリアが現れたと知れば激しく怒られるだろう。

 いませんように、いても気付かれませんように。

 それまでの小走りからぐっと速度を落として、忍び足で中庭へと近付いた。



 えいっ、と。

 気合いと力を込めて、見付けたばかりのリッカの葉を下の方から引きちぎる。

 葉っぱ自体に大した厚みはないが、中の養分を守るためか表皮が硬い。ただの草だと思って軽く手を出せば指先が切れる。だから一気にいくのだ。

 リッカの葉は人差し指。

 亡き祖母の教えどおり、根元に近い部分、人差し指の長さだけを残して葉先を捨てた。

 切り口から丁寧に表皮を剥ぎ、僅かに滲む水分ごと濃い緑色の葉肉を歯で擦り取る。

 日持ちさせるなら何かと手間がかかるリッカの葉だが、新鮮なものはこうやって簡単に服用できる。しかもこの方が効果が高い。

 ただし。

(苦い……)

 鮮度抜群の採りたて薬草。

 ほんの少量でも破壊力は抜群だった。

(解熱、してくださいね!)

 泣きそうに顔を歪めながら、掌の上の残骸に祈る。


 とにかく。

 苦かろうが何だろうが用は済んだ。

 日が差していてもひんやりと冷気はまとわりつく。解熱剤を手に入れるために病状を悪化させては話にならない。

 それに、口の中に残る苦味を洗い流さなければ。

(さて、来た道を戻るのが一番手っ取り早いかしら)

 幸いにも、小さな窓の向こうに人の気配はなかった。見つからないうちにと腰を上げる。

 しかし、長居は無用と分かっていながら、足は隠れ家の方に向かっていた。

 床下の偽「歴の書」がどうなったか聞き忘れたし、中途離脱したせいで後味が悪い。自分の目で見ておきたいという好奇心がまともな判断に勝ってしまったのだ。

 気泡やひびで透明度が低い硝子窓は、よくよく覗き込まなければ向こう側が判然としない。明るい中庭から見通すのは困難で、気付けば鼻先と額をぴたりと硝子に付けていた。

 狙いは机の下、なのだが。

(ちょっと、この角度では……)

 せいぜい部屋の中心に置かれた机の上が見えるだけで、特に変わった点もない。

(難しいわね。大人しく諦めなさいということかしら)

 壁に手を突いて体を起こすと、部屋の中を覗き込もうと必死に顔を寄せる自分が目の前にいた。

(今の私、泥棒みたいよね……)

 どこで誰が見ているか分からないのに何をやっているのだ。

 冷静に指摘した自分を誤魔化すように鼻先を撫でた。


 その時である。

 窓の向こうで、きらりと光が踊った。


 シュリアは、弾かれたようにもう一度鼻先を押し付けた。

(人がいる? カイナル様?)

 机の下から出てこようとする腕と頭。

 光ったのは、その人物の腕の先。硝子か金属か、握る何かが光を弾いたのだ。

(でも、カイナル様は道具を使わなかったわ……)

 ということは、相手はカイナルではない。

 気付いたシュリアの足元から、覚えのある緊張感が這い上がった。

 今のうちに迷わず逃げるべきだ。

 分かっているのに、地面に縫いつけられた足は全く動かない。

 机の下から現れた人物は、窓に背を向けたまま両腕を高く上げて背筋を伸ばしている。体を丸めた状態の作業で筋肉が固まってしまったのだろう。

 目を逸らすこともできず、せめて早鐘を打つ鼓動の音がその人に聞こえないよう、外套の胸元を鷲掴んだ。


 そして、問題の人物が振り返る。


 硝子窓の向こうとこちらで、どうしてここにと、同じ思いを抱いた二人は見つめ合った。

 どうして、あなたがここに。

 怖くて、そんな簡単なことすら言葉にならない。


 立ち尽くすシュリアの肩を抱えたのは、血相を変えて部屋から飛び出してきたライルだった。

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