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戻ってきた静寂に、ほくほく顔で進み出たのは司教である。
「さっそく手続きを始めますかな。礼拝堂も本日は閉めてしまいましたから、大作の抗議文が早々に用意できそうですよ」
悪魔の首でも取ったかのような得意顔だ。きひひと忍び笑いまで漏れる。
当代の領主代理に相当な不満を溜めていたのだろう。こちらの意味でもカイナルの決断は正しかった。
「いいのか? もれなくお前の父親もとばっちりを食らうんだろ?」
「子爵様を怒らせて、めでたく勘当コースを狙っていないでしょうね?」
グレイドとライルと、司教。
場に残る三人はそれぞれ違う反応を見せた。その中で、大喜びなのは司教だけである。
「おお、カイナル様が勘当されないよう、大きい兄上様にはすぐにでもこちらに戻っていただかねば。教会は歓迎しますとお伝えくださるか?」
「司教様のお言葉はお伝えしますが、なにぶん急なことですから、兄がいつ戻れるかは分かりませんね」
レンブルクと縁のないグレイドだけが、妙に明るい雰囲気が理解できず困惑を浮かべている。
「おい、ここはもう少し深刻な場面じゃないのか?」
カイナルは首を横に振った。
「ドルトムント伯爵家は取り潰し、ザックハルト子爵は謹慎といった見込みでしょうか。そうですね、司教様?」
「さあて。俗世のことは国王陛下がお決めになることですからねぇ」
レンブルク地方の全ての教会を統べる司教様は、謙虚な顔でうそぶいた。
教会は今の領主代理を支持しない。
しかし、見ず知らずの新しい領主代理も望まない。ザックハルト子爵家と築いた程良い距離感、つかず離れずの信頼関係、労せず伝わる連帯感を一から築くのは面倒だからだ。
それならば。
息子を引っ張り出せば良い。
幸運なことに、子爵夫人のおかげで三人の息子はまともに育った。誰が領主代理に収まっても問題はない。
ドル……何とか伯爵には、放っておいても子爵以上の罰が科せられるだろう。世の中のためにも、カイナルのためにも、家ごと潰してしまった方が後腐れがない。
というような内容を、その命運を握る司教は、にこやかに穏やかに滔々と語った。
ライナルシア大教会が水面下で圧力を掛け、概ね計画どおり彼らは処分されるだろう。
領地を持つ訳でも重要な国政を担う訳でもない、言い換えれば守る価値のない平凡な貴族の末路などこんなものだ。
「いざという時に惜しんでもらえる人間にこそ、人も神も微笑むのです。あなた方も精進なさい」
説教が終わっても、胸に落ちる語り口調は深い余韻を残す。礼拝堂を訪れる敬虔な信徒のように、レンブルク育ちの二人は自然と頭を垂れた。
二人に倣って俯いたグレイドの口から、ぽろりと本音がこぼれ出る。
「教会っておっかないな……」
その呟きが聞こえただろうに、司教の顔には慈悲深い微笑みが張り付いたままだった。
一方、外の騒ぎでさすがに目を覚ましたシュリアである。
体は横たえたままだが、熱は大分下がって意識もはっきりした。迷惑をかけたのだと、一人で反省しているところだ。
(ドルトムント伯爵令嬢様のお声だったけれど、何がどうなったのかしら。「闇の光」の方は? カイナル様は?)
静謐な空気は何も異変を教えない。
起きるべきか、待つべきか。
(これ以上足手まといになるよりは、大人しくしている方がいい)
そう判断して、温くなった額の濡れ布巾を盥に戻すと再び目を閉じる。
じいんと、頭の芯が熱く疼いた。
(そういえば、さっき中庭で……)
雑草と薬草が共存する小さな中庭には、誰でも名前を知っていそうな薬草が数多く混ざっていた。
熱冷ましとして最も簡単で単純に扱えるのはリッカの葉。これも中庭にあった。
(頼んでみようかしら)
基本的な薬草術を知るシュリアなら、手に入りさえすれば病床にあっても何とかできる。劇的な効果は期待できないが、ないよりはましだ。
問題は、自分で取りに行けないことである。
(今日なんて、どなたも忙しくて当たり前だものね)
人を呼び出す手立てもなく、誰かの訪れをじっと待って、浅い眠りに意識が沈みかけた頃。
慎重に開いた扉の気配が、再びシュリアを呼び戻した。
「……起こしてしまいましたか?」
「カイナルさま……」
隙間から滑り込むように入ってきたのはカイナル一人である。
(そういえば、ライルやグレイドさんにお会いしたような気もするけれど?)
間の記憶は混濁している。そうまでして確かめる必要はないので、まあいいかと曖昧に終わらせた。
考えているうちに枕元に立ったカイナルが、恐る恐るシュリアの額に手を伸ばす。
(あ、冷たくて気持ちいい)
男の人は総じて手が冷たいとは姉の受け売りだが、確かに、額を覆う心地良さにうっとりと目を閉じる。
「まだ熱がありそうですね。苦しくはないですか」
大きな掌を感じたのは一瞬のこと。目的を果たすと直ぐに離れてしまった。
落胆を隠すようにシュリアは口の端を上げる。
「もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
「いえ……謝るのは私の方です。大事にならず良かった」
冷たい水を持ってきたので飲んで欲しい、食べられそうなら粥を用意すると司教が言っていた、ルミエフ副隊長がレンブルクに戻って来た。
そして、今夜は屋敷に戻らない。
体を起こそうとしたシュリアの背に、箇条書きで伝達事項を告げるカイナルが手を添える。
「えっと、お水を……」
まずはそこからだ。
「司教様に、ご厚意に甘えたいとお願いを……」
あとは何だったか。
(全部で四つ? 五つ?)
残りが思い出せないまま、聞き返すこともできず話は打ち切られてしまった。
「では、司教に頼んでおきましょう。私は敷地内で見回りをしています。あなたはここで、ゆっくりと休んでいてください」
「あ、はい、ありがとうございます」
伸ばされた手に空のコップを渡したシュリアは、そこで一つ、気掛かりなことを思い出した。
「さっき、伯爵令嬢様がいらっしゃいましたよね」
夢の中まで声が届いたご令嬢の件。
「昨日のことを怒りにいらしたんですか?」
「え?」
「昨日、カイナル様が私たちを追いかけたから」
屋敷の庭での一件で、自分を振り払って平民を追いかけたカイナルに文句を言いに来たのではないか。
(あれは、私にも責任がある)
ところが、顔を曇らせるシュリアとは対照的に、カイナルは明るく笑った。
「彼らが教会を訪れるのは予定の内です。偶然にも私を見かけて、挨拶しようとしただけですよ」
「でも、すごい声で……」
カイナルを出せと怒っていた。
「昨日の件は特にありませんでした。何か言われたとしても返り討ちにできたのですが……」
実は、これにはカイナルも驚いたのだ。
あのご令嬢は、大いにプライドが刺激されたはずの事件をきれいに水に流してきた。
今の社交界で婿を選ぶなら、確かにカイナルは好物件だろう。余程逃したくなかったと見えるし、実際、後がなかった。
「ただ、今日の件で教会を怒らせてしまったので、彼らに会うことは二度とありませんよ」
「二度と?」
「この先、あの伯爵は娘の結婚どころではないでしょう」
教会を敵に回すとはそういうことなのだと、釈然としないシュリアに言い聞かせるカイナルである。
「そうなんですか……?」
雑事を耳に入れたくないあまり、漠然とした説明で押し通すと。
「誰かを敵に回してでも、カイナル様を諦めたくなかったのですね……」
感嘆めいた一言が、カイナルの矛盾を指摘した。




