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 ミルデハルト伯爵邸の書庫。

 今日も今日とて年代物の書物を積み上げ、風を通すもの、修繕を急ぐもの、内容確認に回すものと、シュリアは振り分け作業に勤しんでいた。

 メイドとして屋敷に上がって四か月。

 ミルデハルト伯爵に書庫整理を任されて以後、毎日は飛ぶように過ぎていく。

 子供たちに読み書きを教えていただけの自分が、伝統ある書庫の番人を務めるようになるとは。

 人生は不思議なものだ。

 ただ一つの転機で、思いも寄らない方向に転がり出すのだから。



 突然の来客は、午前の休憩の直後のこと。

 侍女長に連れられ姿を現したその人は、遥か格下のシュリアに親しげな笑顔を向けた。

 そして、気に入った書物を選び終わった今、朗らかに会話を振ってきたのである。


 何か良い書物はあっただろうかと問われたシュリアは、きれいな保存状態の分厚い書物を差し出した。

「百五十年ほど前に書かれたものですが、よろしければ」

 状態を確かめるため中を開いてみたところ、たくさんの挿し絵の横に細々と文字が並ぶ、いわゆる図鑑と呼ばれるものだった。

 色彩こそ黒一色だがあまりに写実的で、目的も忘れて瞬時に閉じたけれど。

「ああ、いいね! 今や幻の赤吐虫に緑血虫じゃないか! うわ、これは傑作だ!」

 彼の目が釘付けになっているのは、昆虫の詳細な解剖図だ。

(傑作……)

 内容を知るシュリアは、視線を遠くに投げてこみ上げるものを我慢した。

(何が誰にとって価値があるかなんて、分からないものね)

 だからこの仕事を頑張ろうと決意に変える。

「ありがとうシュリア。本当に嬉しいよ。今度何か礼をしよう」

「お礼なんて必要ありません。喜んでいただけて、私も嬉しいです」

 この、笑顔が爽やかな昆虫大好き貴族は、ミルデハルト伯爵が懇意にする子爵家の嫡男だそうだ。

 昆虫に関する書物を見つけたら取り置いて欲しいと頼まれ、偶然見つけた図鑑をこうして渡したのである。


 ミルデハルト伯爵にとって、書庫の整理は長年の夢。

 ようやく一歩を踏み出せて余程嬉しいのか、最近、方々で書庫自慢を始めたそうだ。一介のメイドが何故知っているかと言うと、こんな風に書庫を訪れる客が増えたから。


 とは言え、類は友を呼ぶ。

 ミルデハルト伯爵と親交のあるお貴族様は、慌てて退室しようとするシュリアを引き留め、気さくに話しかけてくださるお方ばかりだ。

 おかげで、仕事場は随分と賑やかになった。

 個別に取り置きを頼まれると嬉しくなって奮起する。たまに手土産をくれる人もいてそれなりに楽しい。

 まさに今、毎日は充実している。


「ほら、シュリアも見てごらん。とても威風堂々とした足の先だろう? この尖った部分を樹皮に食い込ませるんだ。そして、普段は隠している牙をこう、ここからぐいっと出して穴を開け、長い舌で樹液を舐め取る」

 内容はともかく、弾んだ声が子供のようだ。

 それを聞くだけで、シュリアも本当に嬉しい。

(ああ、やめて、見せないで……)

 保存状態が良いのは、万人受けしない内容のせいだ。

 丁寧に指差してまで続く解説は、ぐにゃぐにゃと描かれた内臓の部分に触れようとしている。

 シュリアはそっと目を逸らした。

「ちょっと、私にはまだ……」

「そう?」

 威風堂々とした足の先とは何だ。

 死んだ虫はゴミと一緒に掃き捨てる。殻を剥かれた昆虫の魅力なんて分かろうはずもない。

(生きた虫にすら魅力を感じない)

 笑顔が素敵なだけではなく、喋り口調も穏やかで好ましい青年貴族が、今だ独身の理由はこれに違いない。

「また、良い書物があれば頼めるかな?」

「今回はたまたまですから、期待なさらないでくださいね?」

「もちろんだ。無理強いするつもりはないよ」

 こんな素敵な人がもったいないなぁと、愛想笑いの裏で溜め息を殺したシュリアは。

「こんにちは、シュリアさん」

 新たな客人の声に振り向いた。


 そこにいたのは、騎士団の制服をまとったカイナル=ザックハルトである。

「おや、これは先客でしたか。私としたことが失礼しました」

 多分にわざとらしさを感じる台詞にも頓着せず、件の昆虫大好き貴族は図鑑に夢中だ。

「……うん? ああ、いや、気にしないでくれ。私は失礼するよ。また会おう、シュリア」

 そして、気もそぞろな挨拶を残していそいそと出て行った。


 音を立てて閉められた扉に、興奮の余韻を見た。

(人の目の色って、本当に変わるのね)

 乙女のように煌めく昆虫大好き貴族の黒い瞳は、光の加減で虹色にも見えた。

 本当に瞳の色が変わる人を知るだけに、ちょっとした感動だ。

「シュリアさん?」

 扉を見つめたままのシュリアの頭上に、今度こそわざとらしい咳払いが落ちる。

(いけない。カイナル様がいらしたことに、声を掛けられるまで気付かなかったなんて)

 見上げると、機嫌を損ねたとも受け取れる微妙な眼差しとかち合った。

「こんにちは、カイナル様。こんな時間にどうされたんですか?」

「母の遣いで寄ったものですから」

 何だかんだと理由を付けて、カイナルが書庫に顔を出すのはよくあることだ。

 その恐れ多い目的も、既に本人から聞かされている。


 妻になって欲しい、と。


 嘘のような話だが、そんな意地悪をしたところで子爵家の子息に得るものはない。

 身分を捨てるとまで言い放った。

 強引で、盲目的で、執念と紙一重の重い愛情は、僅か数か月で疑う余地もない。

「せっかくなので、あなたの顔を見て行きたいと思いまして」

 カイナルの求婚は、真実本気の真剣勝負なのだ。

 そして、芽生えたばかりの想いを一度は手放したシュリアも。

「そ、そうですか……」

 どうすれば良いか、未だ答えが出せずにいた。

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