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ライルと入れ違いに現れたカイナルは、開け放たれた出口を塞ぐように立ち止まった。
(……カイナル様?)
頭からすっぽり被った外套は闇に沈み、人外の気配すら漂う大きな影が仁王立ちしている。
死を司る暗黒の神か、夜を司る悪魔の王か。
どちらにしても、身の危険をひしひしと感じさせる出で立ちだ。
(瞳を……外套で隠しているの?)
そう気付いた時には。
濡れた外套に顔を押し付けられ、冷たい腕でかき抱かれていた。
距離をものともしない驚くべき俊敏さである。
そして、高ぶる感情の赴くまま、棒立ちのシュリアをぐいぐいと締め上げるのだ。
(抱き潰すつもりですか!)
眼前には雨が染み込んだ外套。新鮮な空気を取り込む余地のない接触は、間違いなく息の根を止める。
それだけ思い詰めたのだとしても、ここでシュリアが旅立てば本末転倒だと、この様子では気付いていないだろう。
(死ぬ、死んでしまうから、カイナル様!)
言葉を紡ごうにも、開けた口は外套を食べるばかりで埒があかない。かと言って、自由な指先をひらひら動かしたところで一向に危機は伝わらない。
「何やっているんですか! せっかく乾いたのに、また濡れてしまうでしょうが!」
静寂を訝しんだライルが乱入するまで、締め殺しの刑は続いた。
ライルが現れたことで冷静を取り戻したのか、カイナルは何も言わず腕を解いた。
色を変えた外套を椅子の背に放り、自身もすとんと腰を下ろすと、渡された布巾を頭から被って顔を隠す。
(やっぱり魔力が……)
あれだけ近くにいながら確かめる機会はなかったが、魔力が顕現していれば瞳の色は青い。頑なに目元を見せないのはそのせいではないかと思い至る。
(誰にも見られていなければいいけれど……)
どう考えても非はないが、罪悪感は勝手に込み上げる。先程の暴挙と相殺することで自分を宥めた。
「ミルクでよければすぐ出せますけど?」
「……いや、いい」
気遣いの言葉に、ようやく、カイナルが顔を上げる。
(瞳は……?)
色の判別もつかない薄暗い部屋、カイナルの双眸は鋭く光っただけだった。
気詰まりな沈黙を破り、先陣を切ったのはライルである。
「言っておきますが、あれはご令嬢の言い掛かりですよ。俺たちは疚しいことなんてありませんから」
頭の悪い平民だなんて言われちゃったと、鼻を鳴らしたのは軟派な方のライルだ。
「まさか、信じた訳じゃないでしょう?」
既に笑いながら、信じたとしたら笑ってしまうと小馬鹿にしたように続けた。
「庭で待ってくれるよう言ったのは私だ。お前は庭仕事を手伝っていたのだし、何もないことは分かっている」
「……あ、そう」
じゃあ何が気に入らないんだと、ライルの表情は語る。
シュリアはその答えを知っていた。
誤解したとか、そうではないのだ。カイナルは、シュリアが誰かと親しく笑っていたことが許せなかったのだ。
「私は、器の小さい男だな……」
「そのようで」
間髪入れずに同意が返された。
「じゃあ、その小さな器に聞きますけどね。庭でシュリアを待たせておいて、あなたは何をしていたんですか?」
もはや、ライルは棘を隠そうともしない。
明確な怒りで、うなだれたカイナルを責め立てた。
「……雨具を取りに寄ったのだ」
カイナルの眼裏に蘇るのは勝ち誇った微笑み。それだけで、顔も嫌悪に歪む。
「庭に戻ろうとしたら、待ち伏せされていた」
廊下を塞ぐ、いないはずのドルトムント伯爵令嬢。
奇遇ですわねと、赤い唇が吊り上がる。
そもそも、レンブルクに興味の欠片もないご令嬢にしてみれば、田舎町の観光地など、肝心のカイナルもいなければ出掛けるメリットがない。
とは言っても、招いた側としては外出が駄目ならせめて庭を案内しようと部屋を出た矢先だった。
そこで奇跡の遭遇となり、父は息子を売った。
カイナルが易々と売られてしまったのは、僅かな隙に巻き付く蛇のような腕のせいだ。こうなっては強行突破以外に逃げる手立てがない。
父伯爵が付いていながらの傍若無人振りである。
しかし、これには後になって思い至った。
だからこそ、第一騎士団を追われる事態に陥ったのだと。
シュリアたちが屋敷を出た後、カイナルはすぐさま不快な枷を振り払った。
バランスを崩して倒れ込むご令嬢を放置して馬に乗ったのだ。
「あそこまですれば、婿になどと寝ぼけたことは二度と言わないでしょう」
手加減などせず最初からこうしていれば良かったと続ければ、うんうんと何度もライルが頷いた。
「本当ですね、そもそもエスコートなんざしなけりゃ良かったんですよ。何で言うことを聞いてやったんです?」
「どのみち目的地は同じなのだからと思い……」
「そういう無神経な所が駄目男の所以だと、まだ分からないんですか」
カイナルとは対極にあるようで、意外にしっくりくる形容詞、駄目男。
(ごもっともだわ、ライル)
女性を待たせておいて、別の女性をエスコートして現れるとは何たる了見だ。
(ない。絶対ない。この人あり得ない)
ここにライルがいなければ、仮にも交際中ではないかと設定を問い詰めるところだ。
ついでだろうが何だろうが、正気を疑う沙汰である。
「無理に振り切れば、逆恨みでどんな噂を流されるか分からない」
カイナルとしては、ザックハルト子爵家の体面を気にしていた。
しかしもう、振り切ってしまったのだから体面も何もない。
「それじゃあ、子爵様はお困りになりませんか?」
縁談も、世間体も失えば。
恐る恐るシュリアが尋ねると。
「良いのです、今回の原因はあの人にあるのですから。この程度では許しません」
父とも思わぬと、カイナルは途端に表情を変えた。
「不思議だったんですがね。何でまた、子爵様はこの話を強引に取り付けようとされた訳です?」
ドルトムント伯爵家に批判的な子爵が、真逆に舵を切った理由。
シュリアも興味津々で身を乗り出すと、言い淀んだカイナルと視線が交わった。
「……それは」
「それは?」
「……ああ」
「だから、それは何なのって聞いているんですよ!」
つい先日、帰国の理由を巡って似たような問答を強いられた男が、苛立ちを露わに詰め寄っている。
怒られるようなことをした件もしていない件も、全て喧嘩腰で唾を飛ばされたカイナルは更に言い淀んだ。
「ライル、ちゃんと順を追って……」
「それは、の続きですよ!」
ライルには一切取り合う気がない。甘やかす気もないようで、勢い余って胸ぐらを掴み上げやしないかと見ている方は冷や冷やする。
「どうなんですか! どうせ、あなたが何かやらかしたんでしょう!」
「そんな言い方は……!」
良くないと言い終わる前に、思わず腰を上げたシュリアを当のカイナルが引き止めた。
「カイナル様?」
「……そのとおりなのです。私が、シュリアさんを妻にすると伝えたのが原因なのです」
宣言を聞いて激高したザックハルト子爵は、今すぐその娘をつまみ出せと吐き捨てて、子爵夫人の鋭い眼光を浴びた。
あれは、レンブルクに戻った最初の夜のこと。




