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カイナルの嫉妬心は、シュリアが先輩使用人と立ち話をしていただけで燃え上がったという前科がある。
その結果、魔力が制御を外れた。
(こんな場所で、瞳の色が変わってしまうと大変だわ!)
誤解を解かなければと気ばかりが焦った。
「子爵様が是非にとおっしゃるから出てみれば、つまらない物を見せてくださるのね」
「いや、これは……」
「お前たちも、何をぼうっとしているの? 早く消えてしまいなさいよ」
たっぷり紅をはいた唇が、下品になる手前の絶妙な角度で歪んだ。
場の主導権を握るのはドルトムント伯爵令嬢だ。反論しかけたザックハルト子爵は視線一つで封じられ、令嬢が連れた侍女の一団にきつく睨まれる始末である。
グローブをはめた白い手は、するりするりと同伴者の腕に絡みつく。
しかし、出る所の出た魅惑的な体が押し付けられても、シュリアに狙いを定めたカイナルは微動だにしない。
「行こう、シュリア」
目を奪われていたら、小さな小さな囁きと同時に手首に強い熱が押し当てられた。
見れば、ライルに手首を握られている。
覆って余る長い指までしっかり巻き付け、引き寄せるように腕を引かれたシュリアは、反応が遅れてつんのめってしまった。
「シュリアさん!」
「あら、おかしいわね。わたくしに付き合っていただけると子爵様から伺っておりますけれど」
引き止めるたおやかな手が、一歩踏み出したカイナルから自由を奪った。
「シュリア、ほら」
そうしてシュリアは、攫われるように庭を後にしたのだった。
意識を飛ばしたままのシュリアを連れ、ライルは町に出た。
軟禁中の身で領主代理屋敷を出たのはまずいが、今回ばかりはやむを得ない。そう言い訳しながら向かったのは自宅だ。
あれ程の晴天には陰が差し、ぱらついた小雨はほんの一瞬で本降りとなった。豊穣を祝って飾り付けられた軒先には雨宿りを拒まれ、水滴から逃げるようにシュリアを抱えて走る。
飛び込んだ自宅には、人の気配は残れども母親は不在。
自分の世話より先にシュリアだと、釜に火を入れ、布巾を渡し、外套を脱がせて毛布でくるむ。
重い雨雲のせいで光は遠い。時間の感覚を狂わせる暗い部屋、二人で呆然と窓の外を見て、少しばかり言葉を探した。
かろうじて入る早朝のような光が、元より白いシュリアの顔を青白く見せる。
瞬きに揺れて落ちた水滴が、きらりと色を添えて儚く消えた。
風邪を引いてしまうかも……。
ライルは、湧き出した不安を抱えて立ち上がる。
焼け付くような痛みが何なのか、考えることも放棄して。
嵐が来る。
(雨、日暮れにはという膝予報だったのに)
降り出した時間は司教の見立てより随分早い。しかも、びっくりする程の土砂降りである。
(まさかカイナル様の魔力で、なんてことは……)
最後に見た眼差しがシュリアを責める。
(天候まで左右することが、人の身にできるのかしら)
益体もなく考えて、煙る雨に閉ざされた窓辺に座り込んでいると。
「温もるから、これを飲んで」
ふいに、まろやかなミルクの香りで空気が動いた。
湯気の向こうには、頭から布巾を被ったライルがいる。
「暖炉の準備はまだしていないみたいで、ごめんな。風邪引かないようによく拭いてね」
今、彼は何を謝ったのだろうか。
(ああ、暖炉が使えない?)
冬支度がまだで、暖房が入らないと言ったのだ。
(他には?)
どうにも思考が鈍い。ぼんやりミルクを受け取って、出された指示の理解に困った。
しかし。
「ちょっとだけ失礼するよ」
考え続けてミルクの湯気が消えた頃、布巾を手に近付いたライルに頭をがしがしとやられてしまったのだから、どんな状況でも一気に覚醒するというものだ。
「わ、だ、自分でします!」
「いいから、じっとしていて」
これは多分、いつまでも動かないシュリアに代わって髪を乾かしてやろうという親切。
理解した途端、猛烈に焦った。
相当近付かなければ手は届かない。異性に髪を触らせるのは艶めいた意味。良い年の未婚の男女が密室ですることではない。
されるがまま頭は揺れて、一つ一つ浮かんだ問題は泡のように消えていく。
次第に、何を焦っているかも分からなくなってきた。
「部屋の中が寒いんだから、早く拭かなきゃ風邪引くだろ」
叱る口調にも拭き方にも色気はない。
(結構荒くて、雑で、完全に子供扱いよね)
視界は布巾に隠され、耳にはばっさばっさと遠慮なくやられる音だけが入る。
混乱が過ぎれば、始めから焦る必要なんてどこにもなかったとひっそり頬を赤らめた。
「ほら、大体乾いたよ。母さんので良ければ櫛を取ってくるから、一人で待てる?」
「待てます。よろしくお願いします」
幼子ではないと暗に主張しても、くすっと笑われただけで終わる。
「明かりを点けよう。暗すぎると碌なことをしない気がする……」
ライルは、頭のついでに顔まで隠すように布巾を被り、ランプを探そうと体を起こした。
その時だ。
玄関の方から、ゆっくりと二回。
扉を叩く重たい音が響いた。
示し合わせたように顔を見る。
(来た!)
お互いの考えは、緊張を孕んだ視線だけで伝わった。
ライルは。
「出てもいい?」
嫌と言われたら居留守を使う用意もあったが。
「はい、大丈夫です」
暗闇でも分かる白い顔で、シュリアの口元が引き結ばれる。
それを見て一つ頷くと、今度こそ背を向けたのだ。
心臓の音を数えていると、姿を見せたのは出て行ったライルである。
(お一人だけ?)
後ろを見ても、見慣れたカイナルの姿はない。
「シュリア、カイナル様が会いたいんだって」
「あ、はい」
「通していい?」
何と、もう一度確認するために一人で戻って来たのだ。
(どうしてそこまで……)
味方になってくれるのか。
大事な弟分より優先するのか。
(ここで駄目だと言ったら、二人の間に溝を作ってしまうわ)
もとより断るつもりはないけれど、ライルの親切に報いるためにも覚悟を決めた。
お願いしますと答えると、じゃあその前にと言いながら、ライルは勝手にシュリアの髪をくしけずり始めた。
親切、親切。
(これも親切……?)
自分の父親が母親の髪を整えたことはあっただろうか。
(それとも、二人きりの時はこれが普通?)
だとしても、自分たちと両親では前提が異なる。自称恋人のカイナルですらこんな風に触れたことはない。
(でも、今は時間がないんだもの)
室内の暗さを思えば、鏡を見るよりやって貰った方が早い。しかも、今さらだ。
そうと分かっていても気恥ずかしさは止まらない。胸の早鐘も止まらず、むずむずして、そわそわして、得体の知れない感覚に溺れてしまいそうだった。
(思い出して、切羽詰まった状況を!)
絡まった髪を痛めないためか、いっそ焦れったいまでの丁寧さだ。
(カイナル様を待たせているのよね? そうよね?)
不自然な時間のかけように、シュリアはとうとう小首を傾げた。
「俺がぐちゃぐちゃにしたのも可愛かったけど、あれは人に見せるものじゃないからね」
尋ねてもいないのに適切な答えである。
(人に見せるものじゃないって……そんな無様な姿を、あなたは見たのね)
悄然と肩を落としたシュリアは、頭上に落ちた意味深な微笑には気付かなかった。




